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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
27/55

The Tragedy Act3 "Be Ruthless"


7



 寝直したおかげで幾らか体調はマシになった気がする。

 それでもすっかり降り積もった雪を踏みしめながら歩くのは骨が折れる。殊に、こう気温が低く低気圧が上空に停滞していると古傷が疼く。

 ため息を吐いて見上げた空は相変わらず暗く、雪は止めどなく降り続いている。天気予報では上空に強力な寒波が居座っているおかげで、明日の未明まで降り続けると言っていた。

 そういえば、夏井と出掛けた日も雪が降っていたな。

 そんなことを考えているとバスが来た。チェーンを装着したタイヤがじゃらじゃらと景気の良さそうな音を立てている。バスは跫音を忍ばせるように慎重に減速して目の前で止まった。寒さから逃げるように俺はバスに飛び乗った。

 乗車券を取って通路を前の方まで歩いて空いていた窓際の席に座った。

 じゃらじゃらと音を立てながらバスが走り出す。雪のせいで普段よりもスピードが遅い。スマホを取り出して時間を確認する。別段、この牛歩のごときを厭うほど逼迫している訳でもなかったので、俺は窓枠に頬杖をついて、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。



 待ち合わせ場所は駅前の書店だった。

 流石に寂れているなりに一番栄えている場所でもある為か、路面の雪は丁寧に端の方に追いやられて、街路樹の下に小さな丘ができあがっていた。

 本屋に入った俺は店の中をぐるりと見回した。あの図体のでかさだ。居ればそれとすぐに判るが、それらしき人影はない。それどころかいま店の中には俺と店員しかいない。流石にこんな天気の日に出掛ける奇特な人間はあまり多くないのだろう。思えばバスも、休日のこの時間帯にしては閑散としていたし。

 漫画や文庫本。それにスポーツ雑誌のコーナーを適当に見て回っていると自動ドアが開く音が聞こえた。

 店主がやる気のない声で「いらっしゃいませ」と言った。

 振り向くと、ちょうど井上が店内に入ったところだった。

 すっかり冷気にあてられた真っ赤な顔でぐるりと視線を巡らせ、そして俺と目が合うや否や、にっこりと微笑んだ。

 俺はそれを見てきょとんとしてしまった。狐につままれたというか、タヌキに化かされたというか。なんだか不思議な物を見てしまった様な戸惑いが胸にやってきて去ることなくどっかりと腰を下ろしてしまったのである。

 いや、そもそも。井上のこういう表情を見ること自体は、希ではあるが、これが初めてではないのだから、そこまで戸惑うことはないのだろうが。

 或いはその雰囲気と相まって脳味噌の処理が追いつかないのかもしれない。

 普段の彼女からは想像出来ないほど可憐で、それでいてなんだかフリルの多い服を着ていた。ロリータ系一歩手前というのだろうか。そう言えば奈雪姉さんがよくこう言うの仕立ててたなあ、とか考えていると井上がやってきた。

「ごめん。待った?」

 俺は少し迷ってから、「まあ変化球特集を読み終わる程度には」と答えて雑誌を閉じて書架に戻した。

 井上は「いまきたとこ、じゃないの?」

「ありきたりだろ?」俺は肩を竦めた。

「そんなところで奇をてらわれても困る」井上はちょっとだけほっぺたを膨らませた。「三島はいまから私とデートをするの。つまり、嘘でも恋人同士でなきゃいけない」まじめな顔で彼女は言った。

「案外こういうもんだぞ」俺は言った。

「初々しさがない」と井上は言う。「初デートなんだから」

「結構シチュエーションに凝るタイプなんだな」

 井上はうなずいた。「何事も、形が大事」

 そして彼女は俺の手を取った。それから、何か言おうとした様だが、暖房で暖かくなってからも真っ赤なままの顔が、さらに赤くなって、俯き、黙ってしまった。

 そんなに恥ずかしいなら手を握ったりするなよ、と言い掛けたが、ここで追い打ちは流石にかわいそうだったので、「じゃ、いくぞ」と彼女の手を引いて歩き出した。

 電車は予定よりも遅れていて、俺たちのデートは早々に出鼻を挫かれる形になった。駅の待合室で、二人ならんでベンチに座ってぼーっとしていた。設置されているテレビから流れてくるニュースによると、今回の大雪は近年では類を見ない物になりそうだとのことだった。果たして電車で出掛けて、無事に帰ってこられるのだろうか。というか、月曜日の受験は大丈夫なんだろうか。なんてことをぐるぐると考えていると、隣で大きなため息が聞こえてきた。

「どうかした?」俺は訊いた。

 井上はかぶりを振って答えた。「いきなりこんなことになって、ごめんなさい」

「別にいいよ。雪が降るのはしかたないんだし」

「映画、間に合うかな」

「まあなんとかなるだろ。ダメならダメで、別のことすればいいし」

「例えば?」

「やりたいことがあるなら付き合うよ」

 彼女はちょこんと首を傾げ、人差し指を唇に当てて「んー」と考え込むそぶりをした。そして、「三島とならなんでもいい」と身も蓋もないことを言った。「デートなんて初めてだから」

「そうだなあ。適当にぶらつくか? 夏井に誘われた時は雑貨屋行って飯食って帰って来ただけだったし。まあそんな程度でいいなら」

「香奈の話はしないで」あからさまに不機嫌になって、「ところで、その雑貨屋で買ったのって、木彫りのクマのキーホルダー」

「えっと、どうだったかな?」これはまずいな、と思いながら誤魔化すが、手遅れであった。

「そうなんだ」目にめらめらと対抗心を燃やしながら彼女は、「どっちにしても、お買い物には行きたい」

「りょーかい」

 思ったより厄介なことになりそうだ。なんて考えているとようやく電車がやってきた。

 車内は例に漏れずがらがらであった。どこの席でも座り放題。横になったって誰の迷惑にもならないような有様である。今日は街中で閑古鳥が鳴いて、輪唱どころではない大合唱になっているのだろう。

 電車に乗ってからの井上はとてもおとなしくて、酷く緊張している様に見えた。

「大丈夫か?」と俺が訊ねると、彼女は俺の腕をぎゅっと掴んで、「なんでもない」と答えたが、全然そんなことはなさそうだったので、「何かあるなら聞くぞ」と手をさしのべると、彼女は「怖い」と言った。

「怖い?」俺は訊ねた。

「小学生の頃。まだ都会に住んでた頃に、よく、痴漢にあったから」

「そっか」俺は頷いて、彼女の手を握った。「まあ、いまは大丈夫だ。なんかあったら、俺が盾になってやるよ」

 言ってしまってから、ふと、こういう風にしてしまうから事態がややこしくなるのではないか、とも思ったが後の祭りである。

 井上はこくりと頷くと、こちらにすべてを委ねるようにもたれ掛かってきた。

 反対側の窓に映り込んだ光景を改めて見直して、俺はなんとも言えない気持ちになった。彼女の方が背は高いのに、座ってみると頭の位置があまり変わらない。おかげで彼女の頭が俺の肩に乗ってしまっている。どんだけ手足が長いんだ。今更ながらに彼女のスタイルの良さに感嘆しつつ、ほんのりと湧き上がってきたちっぽけな敗北感を腹の底に押し込めた。

 普段よりもスピードを落としているのだろう。一駅一駅の間がとても長く感じられる。駅に止まる度に雪のせいだとかなんとかアナウンスが流れていつもより長く止まるし、果たして映画に間に合うのか、少々心配になってきた。

 退屈しのぎに井上に話しかけようとしたが、耳の裏辺りに彼女の鼻息を感じて、俺は黙った。先日夏井が話していたことが脳裏に蘇ってきた。

 井上はどうやら本当に匂いフェチなのかもしれない。

 恐らく彼女は気づかれていないと思っているのだろう。

 だから指摘するのもなんだか気まずくて、俺は何も知らないフリをした。

 それでも沈黙と停滞が続くと感情も間延びしてきて「そういえばさ」などと話しかけてしまう。「さっき痴漢がどうこう言ってたけど」

「うん」井上は俺の首筋に顔を埋めたまま応えた。

「もしかして俺とか公康以外の男子とあんまり話さないのって、その辺りが原因だったりするのか?」

 彼女からの返答は幾分かの、まるで慎重に言葉を選び並べていくような沈黙の後だった。

「男子が苦手なのは、私が人見知りだからだと思う。けど、胸とか足とか見てくる目線は、正直怖い」

 多分、ちょっとしたトラウマになってるんだと思う、と彼女は沈んだ声で言って、その吐息で首筋の産毛を撫でた。

 俺は変な声が出そうになるのを堪えて、「俺や公康は平気なんだな」

「三島は私の事そういう目で見てないし、栗原は香奈しか見てないでしょ?」

「ああ。なんだ。井上は気づいてたのか」

「ずっと前から。多分、香奈が昔こっちに住んでた頃から、栗原は香奈のことが好きだったんじゃないかな」

「俺もそう思う」

「香奈もバカだね」と井上は哀れむように言った。「きっと、栗原は良い人だよ」

「ああ、いい奴だよ」俺は言った。間違いなくあいつは人間としてもよくできている。見た目が良いだけの男ではない。「それは俺が保証する」

「なのに、その気持ちに気づかずに、加賀さんの手助けをするなんて」

「結局、どうすんのかなあ」

「付き合うらしいよ」

「マジかぁ」

「香奈が嬉しそうに報告してくれた」

「あいつ、マジで人のこと鈍感だのなんだの言える立場じゃねえな」

 井上がくすくすと笑って、俺はちょっとだけ、ひょ、だの、ひゃ、だのと奇声をあげてしまう。

「香奈が全力で好き好き光線出してたのに全部スルーしてたのはすごかったよ」

「ピンク色してそうな光線だな」俺は苦笑した。

「香奈って、向こうに居た頃から可愛くて、すごくモテてたんだ」

「まあそれはなんとなく判る」

「自分からどうこうすることなく、男子のほうから寄ってくるって感じで、すごく自分に自信を持ってた」そこで井上はまた笑った。今度は、少し婉然として、あるいは嘲るようなニュアンスを込めて、「けど、三島が全然振り向かないせいで、天狗の鼻が折れちゃってた」

 俺は井上のその態度に、何か昏いものを感じて、そこで不意に公康からの忠告がフラッシュバックした。だがこの状況、どうやったって逃げ場はない。

「それでも香奈は、三島に振り向いてもらう為に悪足掻きを続けてた。そして、手遅れになった」

 親友の失恋を語るその口調は、どこか軽やかで、愉快なゴシップを読み上げるように、そしてえ見下しているようにも感じられた。

「もっと早く告白すれば、きっと違う未来もあったのかもしれない。けど、香奈は自分でその可能性を閉ざした」

 本当にバカ。そう一押しして、井上はくすくすと笑った。

「おまえさ」俺はふと脳裏に浮かんだことを、そのまま口に出す。「本当は、夏井にコンプレックスあるんじゃないのか?」

 首筋にかかっていた息が一瞬乱れた。

「否定はできない」思いの外素直に彼女は答えてくれた。「ずっと羨ましかった。香奈みたいに可愛くなれたらってずっと思ってた。それに」

 私はいつも、香奈の引き立て役だった。

 それは怨嗟のこもった一言だった。それもただの恨みではない。沼の底に溜まった泥のような怨念が放たれたのだ。背筋が凍り付きそうだった。

「三島だから本当のことを言うけど、私は、香奈に勝ちたい」井上は言った。「香奈の事は好きだし、大事な親友だと思ってる。けど、同じくらい、私は香奈が憎い」

「だからこんなことやってるのか?」

「そうとも言える」

 曖昧な返事をして、井上は俺の太股に手を置いた。

「けど、本当は。ただ、三島のことが好きなだけなのかもしれない」

「そっか」

「軽く流すね」

「だからなんだって話だろ。俺には怜が居るんだから」

「そうだね」少し面白くなさそうに井上は、「けど、今日は私とのデートだから」

「デートなんだな」

「どうせ叶わない夢だから」そう言って彼女は俺から離れて、背もたれに体を預け、遠い目で反対側の窓の外を見つめた。「一日くらいは夢を見させて欲しい。初恋の人と恋人同士になれたっていう、幸せな夢を」

 消え入りそうなその声に、俺はなんとも答えられずに、彼女と同じように窓の外に視線を投げてゆっくりと息を吐いた。いつしか窓の外は都会の雪景色に変わっていた。




 電車は予定よりもかなり遅れて到着した。映画の時間には間に合いそうだったが、其の前に食事をしたりする余裕はなさそうだった。

「お昼、食べれそうにない」少し気落ちした声で井上は言った。「三島と、一緒に食べたかった」

「映画終わってからどっか寄るか」

 名残惜しそうに駅地下のカフェを見つめる井上の手を引いて歩き出す。

 これから地下鉄に乗り換えなければならない。

「大丈夫か?」俺は訊ねた。

 井上は不安そうに「大丈夫」と頷いた。その姿があまりにも大丈夫じゃなさそうだったので、俺は彼女の手を握ってやった。彼女は驚いた様に俺を見た。

「今日一日だけだぞ」俺は言った。「これは夢だからな」

「三島が言うと浮気の言い訳みたい」井上はくすくすと笑った。「でも、ありがとう」

 階段を降りて地下鉄のホームに向かう。

 既に幾本かの列が形成されていて、俺たちはそのなかの一つに並んで電車を待った。

 風が吹き始めた。しばらくしないうちにアナウンスが流れ、電車がホームに滑り込んできた。窓から見える車内は思いの外混んでいて、ドアが開いても降りる乗客はほとんど居なかった。握った手から井上の緊張が伝わって来た。

「大丈夫」と彼女は言った。「三島が居るから」

 手をつないだまま電車に乗り込んだ。座席はどこも空いていない。俺たちは反対側のドアのそばまで詰めて行き、井上をドア側に立たせた。そして彼女の両側の壁に手を突っ張って、井上をほかの乗客から遠ざけた。

「壁ドンみたい」と彼女は照れくさそうに微笑んだ。「けど、「私が、三島よりも小さかったらもっと画になったのにね」と井上が自虐かどうか判断しづらいことを言って肩を竦めた。

「意外と平気そうだな」俺は言った。

「三島が守ってくれてるから」と井上はいままで見たこともないような柔らかな笑みを浮かべた。「ありがとう」信頼しきった目で彼女はそう言った。

 正直、こちらとしては見栄を張りすぎたと後悔している部分がないわけではなかった。思いの外、肩と腰が痛い。だが格好付けた手前、弱音を吐くわけにも行かないし、こうも頼られてしまってはそれを裏切る訳にもいかない。幸い地下鉄での移動は二駅だけだったのでなんとか耐えきる事ができた。

 改札を抜けて、階段を上がって地上にでる。

「すごい降ってる」

 目の前に広がる雪景色に井上は目を見張った。

 どうやらこっちの方も大雪になって来ているようで、アスファルトの路面に雪がうっすらと積もり始めていた。歩道に関してはもう足跡がはっきりと残るくらいになっている。分厚い雲から降り注ぐ無数のぼた雪のおかげで、辺りは薄暗く、日の入り前だと言うのにすでに街灯に灯りがついていた。

 それでも人々はせわしなく行き交っていて、多少の悪天候では崩せない日常のあり方がそこに存在していた。

 雪が降り注ぐ中、俺たちは足早に歩いてアーケード街へと逃げ込んだ。目的の映画館はこの中にある。

「この辺来るの久しぶり」と心なしか声を弾ませて井上は言った。

「俺も最近は来てなかったなあ」

「喧嘩する前は、か香奈とよく来てた。あそこのカフェでよく二人で話し込んで時間を潰してた」

「そういやさ。井上ってさ。夏井と二人きりだとどんなこと話したりしてるんだ?」

「どんなことって」と井上は言いよどむ。

「いや、別に話したくないならいいんだけど」

「他愛のないこと」と彼女は言った。「でも油断をすると、すぐに香奈が三島のことを話し始めて、私はそれをずっと聞かされてた。しかも同じ話を何回も」

「……拷問じゃね?」

「時々言い返したくなるのを我慢するので大変だった」彼女は苦笑を浮かべた。

「ああ、そういう」

「だって、香奈は三島の魅力を判っている様で、判っていないから」

「自分から聞いといてなんだけど、そろそろ行くか」

 これ以上聞いてたら禄でもない方向に話が飛んでいきそうだったので、多少強引に話を切った。

 井上はこれから良いところだったのに、とでも言いたげな不満を目に浮かべていたが、そもそもの目的が映画鑑賞であることを思い出してくれたらしく、「そうだね」と頷いてくれた。

 外を歩いている時は人が多いと思ったが、それでも流石にこの天候だからか、映画館の中は普段よりも閑散としている様に見えた。

 結局思ったより早く着いてしまったので、俺はロビーのベンチで休んでいた。いらぬ心配をかけたくないというか、弱っているところを見せたら、そこからどんな風に話が転んでいくか判らないので、井上の前ではいつも通りに振る舞っていたが、正直、頭痛は相変わらずだし、腰痛も酷い。このままで遅かれ早かれボロが出ると判断して、正直に体調が悪いと言って時間まで休むことにした。井上は心配そうにしていたが、好きなようにしていいと促して、渋々頷いた彼女はいま物販でパンフレットなどを見て回っている。

 彼女の様子を窺う度に、悉く目が合って、その度に彼女は小さく手を振った。なんだか一人ではしゃいでいるその姿がどこか微笑ましく、先日夏井が話していたことが嘘なんじゃないかと思えてくる。考えてみればその証拠となる瞬間や画像を見たのは夏井だけなのだから、果たして真偽のほどは不明なのである。夏井を信用していない訳ではないが、それでもいまの井上の姿を見ているとそんなことをする様には見えなかった。まあ、電車の中での振る舞いからして、匂いフェチというのは本当みたいだが。

 上映時間が迫ってきた頃、井上が満足げな顔で戻ってきた。だがその表情の割に何も買わなかったらしい。

「手ぶらじゃんか」俺は言った。

「帰りに買う」と彼女は答えた。「それより、大丈夫?」

「なんとか」そう俺は答えたが正直なにも良くなっていなかった。ふらつかないように注意して立ち上がる。「なんか飲み物でも買っていくか? おごるぞ」

「うん」と井上は頷いた。

 普段の土曜日なら時間を気にしながら待たされるところだが、今日はスムーズにカウンタにたどり着く事ができた。大雪様々である。

「何にする?」

「コーラ。それとホットドッグ」彼女は言った。「お腹空いたから」

 自分に正直な彼女に少し苦笑しながら、俺はレギュラーサイズのココアを注文した。

 それから俺たちは劇場に入り、チケットにかかれている番号の座席に座った。ちょうど真ん中付近の通路側で、スクリーン全体をよく見渡せる場所だった。

 ココアを一口飲む。いつも家で飲むものとは違う甘ったるい味。けれど頭痛が酷い時にはほんのりとした癒やしになる。ほっと息を吐いて俯く。

 照明が落ちて予告映像が流れ始めた。井上はいまのうちに、とばかりにホットドッグにかじり付いている。実に良い食べっぷりで、あっという間に平らげてしまった。

 紙ナプキンで口元を拭った彼女はこちらを向いて、「大丈夫?」とまた訊いてきた。

「座れてるからなんとか」

「頭痛は?」

「それなり」

「体調が悪いときに、付き合わせてしまって、ごめんなさい」しょぼんとした表情で彼女は言った。

「気にするなよ」俺は答えた。「ほら、もうすぐ映画が始まるぞ」

 予告映像が終わって、配給会社のロゴが画面に映し出された。

 さて、それにしてもどうするか。すでに見たことがある上に、正直それほど好みという訳でもない。途中で寝てしまいそうな気がするのだ。けれど目を輝かせて始まるのを待っている彼女を見ているとそれも申し訳ないように思えて、どうにか寝ない努力をすることに決めた。

 しかし冒頭のシーンが終わったころにはすでに睡魔との戦いが始まっていた。ココアだ。ココアのせいだ。暖かくて甘いココアを一口飲むごとに神経が緩んで、リラックスしてしまうのである。その状態で少女漫画原作の映画特有の、妙にまばゆくてふわっとした映像を見ていると、目がとろんとしてくるのである。これはもう不可抗力に近いなにかだ。

 ほどよい眠気にこっくりこっくりと船をこぎ始めて本格的にやばいな、と思いかけた時だった。不意に、右手を強く握られた。はっとして隣を見ると、食い入るようにスクリーンを見つめる井上が居た。どうやら無意識に手を伸ばして俺の手を握ったらしい。眠気が半分くらい飛んでいってしまった。このまま握られたままというのも、心地が悪いのでその手を握り返すと、彼女ははっとしたようにこちらを見て、それから不器用にはにかんでみせた。けれど手は離さずに、それどころか握る手により力を込め、スクリーンに視線を戻した。

 なんだか普通にデートをしているような気分だ。まあ井上は美人だし、体調が悪くなければこの状況もいくらか楽しめたかもしれない。

 なんてことを考えながらも脳裏には怜の顔がちらつくし、時々さくらさんのことも思い浮かぶ。

 それが握った手のひらを通して伝わった、なんてことはないと思うけれど、井上は自分の存在を示すかのように軽く手を引っ張った。振り向いても、彼女の横顔しか見えない。それはどこか充足したように上気した頬と、耳と、それからほんのりと上がった口角によって彩られた、可憐な横顔だった。

 普段の仏頂面からは想像できないような、ついさっき、ぶっきらぼうにはにかんで見せたばかりの少女とは思えないほど、柔らかく自然な表情に、一瞬心を奪われかけた。

 まずいまずい、と気持ちを切り替えて、それからは映画に集中して、なるべく彼女のことは考えないようにした。

 異変が起こったのは映画の終盤である。といっても大した異変ではない。隣でなにやらぐずぐず聞こえてきたと思ったら、映画の内容に感動した井上がぐずぐずと泣いていたのである。果たしてそこまで泣ける映画だっただろうか、と思ったが、よく耳を澄ませばぐずぐず、ずびずびと方々から聞こえてくるのでそういう映画なのだろう。思えば怜と一緒に見た時も、帰りにやたらと泣いている人を見かけたような気がしないでもない。ちなみに怜は映画を見ながら、ぶつぶつとストーリー展開やらカメラアングルやら役者の立ち位置やらについて呟きながら熱心にメモを取ったりしていたので、そう言った風情とは無縁そうであった。とはいえ相当に何か刺激を受けていたことは確かだった様で、帰宅するなり実家の方に引きこもってしまってしばらく出てこなかったということがあった。

 エンドロールが終わって劇場内の照明が明るくなるまで俺たちはおとなしく座席に鎮座していた。

「井上、大丈夫か?」俺は苦笑混じりに訊ねた。

「うん」と井上は鼻声で答えて、ずびずびと鼻をすすって袖で涙をぐしぐし拭った。

 しばらく映画館のロビーで井上が落ち着くのを待ってから外に出た。脇の路地には夜の帳が降り始め、立ち並ぶ店々の看板に灯りが灯っていた。時刻は午後五時を少し回っていた。

「これからどうする?」と俺は訊ねた。

「男の子の方から、それ言っちゃダメ」と井上は拗ねた様に言った。「何も考えてないの?」

「そりゃまあ。映画見ることしか考えてなかったし。ああそうだ。確か買い物に行きたいって言ってたよな」

「いい」井上はため息を吐いた。落胆したというよりは、ある種の諦めのような物が吐き出されて白く濁って消えていく。

「やっぱり、夢、見過ぎてたのかな」彼女はそう言って長いまつげを伏せて、「少し期待してた。本当の彼女みたいに、見てもらえるかもしれないって」

 やれやれ、という思いがあった。こうなってしまったか、と諦観もあった。すべては安請け合いした俺が悪いのだ。もう手遅れかもしれないが、それでも、中途半端な優しさをこれ以上向ける訳にも行かない。一緒に映画を見た。それで十分なのだから。

 だから俺たちはそのままアーケード街を後にした。

 帰りの地下鉄は空いていて難なく座ることが出来た。

 お互いに、ずっと無口なままだった。

 これでいいのだ、そう何度も自分に言い聞かせた。そもそも、俺は彼女にこんな好意を向けられる覚えがない。そう言う相手と全く認識していなかったのだ。だから、これ以上、期待を抱かせるような振る舞いは、誰のためにもならないはずなのだ。

 地下鉄の改札を出て、エスカレータに乗った。

 帰りの電車の切符を買おうと券売機の方を見た時、普段と様子が違うことがすぐに判った。駅員が拡声器で何事かアナウンスしていて、困り顔の利用客たちがその周辺にたむろしていた。

「電車、動かないみたい」井上が言った。「ほら」

 彼女が見せてきたスマホの画面には、積雪により電車が運休しているという情報が写しされていた。よく聞けば駅員のアナウンスもそれに関する物だ。

「天気予報では、夜にかけて雪がさらに降る、だって」そのときの彼女の口元が、密かにほくそ笑んでいた様に見えたのは、果たして俺の中にあった猜疑心が生み出した幻影だったのだろうか。彼女は平坦な声で言った。「これじゃ、帰れないね」





      つづく

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