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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
26/55

The Tragedy interlude "Sister"

  5


 あっという間に金曜日が来た。なんとなく時間の経過が早く感じるのは、週末のことだけが原因ではないだろう。何せ週があけたら推薦入試があるのだ。弥が上にも意識して、待ちこがれるような、忌避するような、何とも言えない落ち着かない気持ちにさせられる。今週に入っても思いの外冷静で居られたので、受験ってこんなもんだな、なんて思っていた月曜日の自分にこう言ってやりたい。油断するな、と。

 ともかく、浮き足だった気持ちのまま、放課後の面接の練習も終え、廊下の窓から夕映えのグラウンドを見下ろして一つ息を吐いた。

 野球部の後輩たちが必死の形相でベースランニングを行っている。冬の間はボールやバットを握っている時間よりも走っている時間の方が長い。それを揶揄するように、冬場だけは陸上部だ、いやあいつらよりも走ってるぞ、だなんて言ってよく仲間内で笑い合っていたものだ。

 階段を下りて、下足場で靴を履き替える。それからなんとなく辺りをぐるりと見回して、がらんとして静まり帰った空気を一度胸一杯に吸い込んでから歩き出した。

 駐輪場の三年生のスペースには、もう片手で数えられるくらいしか自転車は残っていなかった。そういえば、と思って女子が停めている方を見ると、数台ちらほらと残っている中に見知った自転車を見つけた。井上の自転車だ。彼女は面接の練習が終わるなり「体動かしてくる」と言って体育館へと向かった。後輩たちからしたら、引退したはずの三年生がしょっちゅう顔を出しにくるというのはあまり気持ちが良いものではないかもしれないが、井上はそんなことはお構いなしだ。引退したあとも結構な頻度でバスケ部の練習を見たり、スペースを借りて自主練習を行っていた。今日も結局下校時間までやるんだろうなあ、と思いつつ男子の方を見回す。公彦の自転車はない。あいつもあいつで、面接の練習が終わるなりどこかに姿を消してしまったのだ。まだはっきりと本人の口から聞いた訳ではないが、どうも加賀とつきあい始めたのではないか、という噂が流れ始めているので、もしかしたら二人で帰ったのかもしれない。

 と言うわけで、気が付けば俺は一人取り残されていたのである。ちなみに夏井は授業が終わるなり、今日は用事があるからと一目散に帰って行った。

 しばらくは自転車を押して歩いた。なんとなく、風を切って自転車を走らせるような気分ではなかったのだ。ゆっくりと、思案に耽っているような風を装いつつ、何も考えずにとぼとぼ歩く。もしかしたら人恋しさが若干あったのかもしれない。近頃は日差しに春の気配が若干感じられるようになってきたとはいえ、まだまだ寒い。夕方になれば真冬の冷たさが骨身にしみてくる。赤い夕日に照られされた町並みを見ているとこみ上げてくる寂しさの原因は、やっぱり人恋しさなのだろう。

 鞄からスマホを取り出して電源を入れた。一応校則では持ち込み禁止になっているので、こうして学校の外にでるまでは基本的に電源は消したまんまだ。

 画面にメーカーのロゴが浮かんでソフトが立ち上がった。SNSのアプリの通知が表示されている。怜からだ。

「急な話なんだけど。今日、雪ちゃんが泊まりにくるらしいのと、お父さんも早い時間に帰ってこれそうなので、晩ご飯は五人分作ってください」

 そのようなメッセージが送られてきていた。

「了解」と俺は返信して、スマホをしまって自転車にまたがりそのままスーパーに向かった。

 寒いし人数が増えて面倒だし、ここは一つ鍋でお茶を濁そう。

 さて、そうなると何の鍋がいいだろうか。と考えつつ自転車を漕いでいるうちにスーパーに到着した。駐輪場に自転車を停めてから、もう一度スマホを見た。奈雪姉さんからメールが来ていた。

「ごめんね。お姉ちゃん、急に明日そっちの方に出て行かなきゃだめな用事が出来ちゃって。それで今晩泊めて貰うことになったの。晩ご飯は簡単なものか、無理そうなら自分で用意するから。ほんと、ごめんね」

 俺はすぐに返信した。

「今晩は鍋にするからメシの心配はしなくていいよ。ついでだし、リクエストあったらそれに合わせるけど?」

 さて、とりあえず店内に入ってから返信を待つか、と思って歩き出した直後に着信音に設定している鈴の音が鳴った。

「水炊き。水菜増し増し、豚肉鶏肉てんこもりで」

 非常にシンプルかつ厚かましい要望であった。

 俺は苦笑しつつ「判ったよ」とメールを返した。斯くして買う材料が決まったところで、入り口横の買い物かごをカートに乗せて店内に入った。

 一通りの鍋の材料と、ついでに数日分の食料を買い込んでみると思いの外、袋が重たくなって、前の籠に収まったその重量に若干ハンドルを取られそうになりつつ自転車を漕いで家路を急いだ。

 家に帰るとすでに奈雪姉さんはリビングに居て、怜と一緒に映画を見ていた。

「そうちゃん。お帰り」と怜がソファに座ったまま顔だけ向けてそう言った。そしてすぐに視線をテレビに戻した。普段の彼女であればこちらにやってきて、何かしらのスキンシップがあるはずなのだが。と怪訝に思っていたら、テレビのスピーカーから聖書の一説を読み上げる声と、ついでに銃声が聞こえてきて、なるほど、と得心する。彼女はタランティーノの映画が好きなのである。いまのシーンがあったということはついさっき見始めたばかりか。などと思っていると、「おっかえりー」といつの間にか怜の横から居なくなっていた奈雪姉さんが後ろから抱きついて来た。「寂しそうにしてたから私が代わりにね」

「奈雪姉さんだけ闇鍋な」

「一人で?」

「押し入れん中でどうぞ」

「いや、それはちょっと」といいつつ奈雪姉さんは離れない。「ねえ、怜ちゃん。そう君ちょっと借りていい?」

「ダメ」

「えー」

「パルプ・フィクション観るって言ったのそっちでしょ」

「それはそうなんだけど」

「ほら、一緒に」

 結構真剣な顔で怜は自分の隣を掌でぽふぽふ叩いて奈雪姉さんを促す。

「行ってきたら?」俺は言った。「大方怜が別の観たいっていったのに、これ観るって言ったんだろ?」

「う。よく判るわね」

「まあ見てればね。ちなみに何みようとしてたのさ。怜は」

「キル・ビル」

「ああ、そりゃそうなるわな」

 小さい頃にゴーゴー夕張に憧れて、ゴーゴーボールらしき物をダンボールやら毛糸やらを使って自作して遊んでいたほどのファンなのだ。

 諦めろ。

 そう言って俺は奈雪姉さんの腕から抜け出して台所へ向かい、食材を置いてから部屋に戻って着替えて、台所に戻ってきて鍋の下準備を始める。

 昆布でダシをとる間に野菜と肉を切って、それを器に盛っていく。

 程良く昆布の香りが漂い始めたところで父さんと母さんが揃って帰って来た。

「お、今日は鍋か」と父さんが浮かれた声で言った。「寄せ鍋か?」

「水炊き」俺は答える。

「手抜きね」と母さんが言った。

「まあな」と俺は肩を竦めて応えた。



 リビングの方のコタツのど真ん中に調理用ヒーターを置いて、その上にダシを取った鍋をセットする。それからとりあえず適当に野菜ときのこと肉類をぶち込んでぐつぐつと煮込んでいく。

 良い香りが漂いだした頃合いで、誰が言うでもなく全員がコタツに集合していた。気が付いたら母さんはすでに一本缶ビールを空にしていた。

 やれやれと思いつつ鍋の蓋を開けると湯気ふわっと立ち上って、煮えた鶏肉の香りが鼻腔をくすぐる。これはいい出汁が出てそうだ。

 いただきます。と声を合わせると、後はもう各々好き勝手に鍋をつつき始める。我が家の鍋に奉行は居ない。全員が野武士の如く争い食べる。油断していると怜がすぐに食べ尽くしてしまうので、そのような習慣になったのである。

 その怜はというと、たっぷりのポン酢にくぐらせた豚肉や白菜をおかずに大盛りの白飯をおいしそうに食べていた。一応〆はおじやだと言うのに。

「ほんとに怜ちゃんってよく食べるね」と感心したように奈雪姉さんが言った。

「これで太らないから不思議よねえ」と母さんが言った。「奈雪ちゃんはあんまり食べないのね」

「ペース配分です」奈雪姉さんは答えた。「〆がありますし」

「宗平のおじやは美味いからな」と父さんが、そのおじやに思いを馳せるように遠い目で言う。

「うちは、鍋すると月子に任せてるんですけど。うちのもおいしいですよ」

「月子姉さん料理上手いもんな」俺は言った。

「そう言えば、月子ちゃん、彼氏とはどうなの?」と母さん。

「相変わらず」と苦笑して奈雪姉さんは、「人目もはばからずにいちゃついてます」

「若いっていいわねえ。ねえ、怜」

「え、うん」食べるのに夢中だったらしく、何の話か全く判ってないようで、きょとんとした顔で「そうだね」と適当な事を言って、水菜をもしゃもしゃ食べた。

「怜ちゃん見てると、そう君がついついたくさん食べさせちゃう理由が判る気がする」

「えっと、雪ちゃん。それはどういう?」困惑した表情で怜は首を傾げる。

「なんかこう。大きめのどんくさいほ乳類に餌付けしてる感じっていうの? ほら、カピバラとか」

「私あんなに丸っこくないし、ネズミっぽくないわよ」

「食べてるときの雰囲気の話」と奈雪姉さんは笑って「美味しそうに食べるし。食べてるところも可愛いし。ね、そうでしょ?」と彼女はこちらに話を振ってくる。

「たしかに」と俺は頷く。「美味そうに食ってくれるってのは、作る方からしたらありがたいっていうか、作り甲斐があるっていうか」

「じゃあもっと食べないとね」と怜は袖をまくって鍋に箸をのばす。

 その様子を見てどっと笑いが巻き起こる。怜はえへへ、と照れたように笑いながらポン酢に浸した白菜に美味しそうにかぶりつく。

「なんだかいいね。こういうのも」ぽつりと奈雪姉さんが呟いた。

「本家で鍋やると堅苦しいもんなあ」そのつぶやきに俺は苦笑で応えた。

「まああそこはそういう物だ」と父さんが言う。「俺の祖母さん。お前から見て曾祖母さんが生きていた頃なんかもっと凄かったんだぞ。あの人、食事中に喋るのが嫌いだったもんだから、みんな黙って、黙々と鍋を突っついててな。それはもう、葬式みたいだったんだから」

「早希が本家にきたばっかりの頃に、もうイヤだって泣きついたって話聞いたことあるんだけど、本当?」とすっかり酔いが回ってきたらしい母さんがそう言って、父さんの横っ腹を突っついた。

「元は分家でのびのび暮らしてたのに、いきなり本家につれてこられた訳だから。一度や二度じゃなかったぞ」

「へえ」と母さんは興味深そうに目を細めて、「あの早希がねえ。ねえ、奈雪ちゃん」

「え、ああ。そうですね」と奈雪姉さんは目を白黒させて、「意外です」

「ねえねえ。奈雪ちゃん。その話し方、別にもっと楽に喋ってもいいのよ」

「いえ、そんな」

「いいじゃないのぉ。早希の娘で、宗平の腹違いの姉ってことは、つまり私たちの娘みたいなものだもの」

「えっと、伯母さん。酔ってますね」

「まだまだ行けるわよー」

「母さん。うちだからいいけど、その話花音とか居る所で絶対するなよ」

「早希ってば。まーだ話してないの?」と母さんは呆れた様に、「奈雪ちゃんが、花音ちゃんくらいの年の頃には既に知ってたじゃないの」

「多分、当時の私の反応を見て、時期尚早だと判断してんじゃないかなって」奈雪姉さんは目を伏せて、「月子にすらまだ話してませんし」

「うーん。今度本家に行くときまでに話してなかったら、一度ビシっと言ってやらなきゃね。そうでしょ? 宗孝さん」

「おっ。そうだな」と父さんは気のない返事をして、「まあそのとき考えよう」とお茶を濁した。


 先ほどの話で出た通り、俺と奈雪姉さんは腹違いの姉弟である。その経緯にはかなり複雑というか、さくらさんに話したら喜んで題材にしそうな悲恋が絡んでいたというか。とにかく面倒くさい話になるので億劫になる気持ちは判らなくもない。

 まあざっとかいつまんでみると、奈雪姉さんの母親である、三島早希と、うちの父親である三島宗孝は元々いとこ同士で、幼少の頃から仲が良く、思春期を迎える頃には恋仲になっていた。ちょうどその頃に次期当主として早希叔母さんが本家の養子になった。それでもまだ二人の関係は続いていて、二人とも大学生を卒業してしばらくした頃に駆け落ちを計画する。ちょうど怜の両親の駆け落ちを成功させた直後であり、その勢いのまま、という思惑があったかどうかでは定かではないが、とにかく駆け落ちを実行しようとした。が、直前になって、早希叔母さんがやっぱり家を捨てることはできない、と言い出して、結局駆け落ち計画は実行されず、熱く燃え上がった青春の炎は消えさりすべては過去となって時間の中に流れていくはずだったのだが、その直後に早希叔母さんが妊娠していることが判った。そのときおなかにいた子こそが奈雪姉さんであった。そのことが発覚するや否や本家に乗り込み、こうなってしまったのだから、やむを得ない。結婚を認めてくれと当時当主の座にいた婆さんに直訴したが、それでも頑として認めず、結局早希叔母さんは未婚のまま奈雪姉さんを産むことになったのである。それからしばらくして、早希叔母さんはお見合いで婿をとり、そして父さんは、早希叔母さんや怜の両親らとの架け橋ともなった共通の友人であり、二組の駆け落ちをかげながらサポートしつづけていた母さんと結婚したのである。

 その後どちらも仲睦まじい家庭を作ることができたのは、幸いだったというべきか。ただ、早希叔母さんの婿であった雄大叔父さんは二年前に既に他界している。彼は消防士であり、本家のある一体を襲った集中豪雨の折りに発生した小規模な崖崩れによって倒壊した家屋に取り残された住人の救助活動中、続けて起きた大規模な斜面の崩落に巻き込まれ命を落とした。

 葬儀の為に赴いた本家で見た奈雪姉さんの姿を俺は多分一生忘れないだろうと思う。愛する人を失った早希叔母さんの沈痛な面もちも、父を失った事実をまだ上手く受け止め切れていないらしい月子姉さんや花音の、どこか困惑したような泣き顔も、それらすべてがかすんでしまうほどの慟哭を上げて、棺にすがりつく奈雪姉さんの、そのときの胸中は果たして如何様であったか。雄大叔父さんは、少なくとも俺が知る限りでは、姉妹を区別したりしていなかった。血の繋がらない奈雪姉さんも実の子である月子や花音も同じように愛していた。だからこそ、奈雪姉さんからすれば親子の愛情だけではない、恩や義理もあって、それらがいっぺんに嘆きとなって胸を突き上げたのだろう。

 当時俺はそんな奈雪姉さんにかけるべき言葉も見つからなくて呆然としているだけだった。雄大叔父さんには、本家に遊びに行く度によく面倒を見てもらっていたので、俺自身もショックを受けていたこともあった。

 ただ一人、怜だけが奈雪姉さんの傍らで、その肩を抱き、何事かをつぶやき、寄り添った。

 大切な両親を一度に失った彼女だからこそ、何か通じあえる物があったのかもしれない。思えば、元々二人は仲が良かったが、この葬儀での一件を機にさらにその仲が深まったようにも思える。

 まあその辺の事情もあるのだが、うちの両親は奈雪姉さんのことを我が子の様にかわいがっているというか、可愛がろうとしているのだ。尤も、そのことに関して奈雪姉さん曰く「恥ずかしいし照れるからなんかやだ」と言う通り悪くは思っていないが、どう接すればいいのか判らない様なのである。

 そんな訳で有り余る愛情と多少の困惑の入り交じった鍋も終わり、父さんと母さんは台所の方のテーブルに移動して晩酌を続け、我々子供たちはリビングの方に取り残されたのであった。

 コタツからテレビの前のソファの方に移って、映画を見ていた。食後だからあえてえムカデ人間が観たいなどととち狂ったことを言い出した怜を宥めて、いまはビフォア・サンライズを観ていた。実に無難なチョイスだと思う。

 今の状況だが、一言で言えば両手に花である。右側には奈雪姉さん、そして左側には怜がいて、その二人に挟まれて妙な暑苦しさを覚えていた。いくら冬といえども、しっかりと暖房が効いた室内で両サイドから体を密着させられていたら当然体から熱なんて逃げないし、その状況で恋愛映画を観ていると余計に暑苦しい。

「なあ、俺あっちのソファに移っちゃだめか?」

「だーめ」と怜が言った。「そうちゃんは私の隣じゃなきゃ駄目なの」

「えー。私の隣だよ」と奈雪姉さんが妙なことで張り合い始めた。

「雪ちゃんはそこに居るだけでしょ?」

「だって私、そう君のお姉ちゃんだよ?」

「私だってお姉ちゃんだし」

 それじゃあ、と二人が声をそろえてこちらを見た。

「どっちかっていうと、怜だぞ。当然だけど」

 面倒くさかったので正直に答えた。

「うー。昔は大きくなったらお姉ちゃんと結婚する。とか言ってたくせに」と奈雪姉さんが悔しそうに呟く。

「え、なにそれ。私そういうの言われたことないんだけど」と怜が目を丸くして言う。

「いや、怜はなんていうか。あんまり昔からお姉ちゃんって感じじゃなかったつうか。俺が面倒見てないとヤバイ人だって思ってたし」

 昔から怜はどんくさかったし、昔の怜はお転婆で目を離すとすぐ調子に乗って転んで怪我をしていたので致し方ない。

「ま、いいじゃない。いまは怜ちゃんが、そう君の一番大切な人なんだから」

「そうなんだけどさ」と怜は呟く。寂しそうというか、自信なさげというか。そんな表情で目を伏せる彼女の姿に、胸が痛んだ。罪悪感がこみ上げてくる。

「あ、そうだ」奈雪姉さんは立ち上がるとソファのそばのツリーハンガーに掛けていたジャケットから財布を取りだして、「ちょっとお使い頼まれてくれない?」と千円札を三枚、こちらに差し出した。

 俺は三千円と奈雪姉さんの顔を交互に見て、これは要するに怜と二人だけで話がしたいということらしい、と悟る。三千円受け取って立ち上がる。

「で、何買ってくればいい?」

「炭酸系のジュースと、あと何かつまめるもの」

「太るぞ」

「うるさい。そう君ってちょっと生意気だよね」

 そう思うでしょ? と水を向けられた怜は深く頷いて「すっごい生意気」と答えた。

「この三千円。着服してもいいですかね。お姉さま方」

「や、それは駄目だから」と奈雪姉さんは、「もしかして、いまのでちょっと怒った?」

「そんなに気は短くないよ」俺は言った。「で、怜はなんかあるか?」

「んー。なんかこう、冒涜的な味のするカロリー高めの物が食べたいかな」

「りょーかい」

 上着と財布を自室に取りに行って、それから家の外にでて、ふと振り返る。奈雪姉さんと怜はどんな話をするのだろう。あの様子だと、最近の俺たちのことを知っているのか察しているのか、とにかくある程度事情が判っている風に見えた。もしかしたら怜が前から相談していたのかもしれない。公康にも話していたり、怜は心を許している相手には結構ぶっちゃけるタイプだ。

 さくらさんには話しているのだろうか。自転車を漕ぎながら考える。もし彼女がいまの俺たちの状況を知っていたとして、一体何を思うのだろう。好機と受け取るか、或いは親友の不甲斐ない有様に呆れるか、或いは俺に大して憤るか。

 そういえば、あれから彼女はちゃんと元気でやっているだろうか。そんなことを考え始めた頃、ようやく目的地のスーパーに到着する。別にコンビニでも良かったが、こっちの方が安いし、それに、近所のコンビニでささっと買い物をすませてとんぼ返りするよりも、時間がかかるから良いと思ったのだ。その方が、二人にとって都合が良いと判断したからだ。まあ別にコンビニで立ち読みでもして時間をやりすという手もないわけではなかったが、中途半端な退屈を過ごすよりはこっちの方が有意義だと思ったのだ。これは俺の都合だ。

 カートに籠に乗せて店内に入る。

 三千円あれば結構買える。

 奈雪姉さんはそこそこお金を持って居るので、全部使い切っても文句は言うまい。彼女は月々の小遣いだけでなく、趣味の裁縫が高じて、自分で仕立てた服をオークションで売ったりして小金を稼いでいるらしい。

 なんだか、怜と言い、さくらさんと言い、俺の周りにはそう言うある種の技能や才能に長けた人間が多い様な気がする。

 炭酸飲料の2リットルペットボトルを籠に入れて、それからスナック菓子売り場に向かって徳用パックのスナック菓子を適当に二種類放り込んで、お総菜売り場でハッシュドポテトとウィンナーが一緒になった酒のツマミのようなパックと売れ残って半額になっていたサンマの竜田揚げのパックを手に取り籠に入れた。

 これだけあればカロリー高めだし、冒涜的だろう。

 会計をすませて外に出ると雪がちらついていた。自転車の籠に買い物袋を入れて、それから空を見上げた。舞い散る雪で霞んだ向こう側に星空が見えていた。この様子だと積もったりはしないだろう。

 しばらく自転車を押して歩いた。

 澄み切った静寂が広がっていた。

 車輪が回るからから、からから、という音も、自分の跫音も、すべてが夜のなかに吸い込まれていきそうな、月がでていない、或いはとっくに沈んでしまった夜にだけ訪れる特別な静寂。

 いつか怜が言ったことを思い出す。俺は満月の夜が嫌いだと。嫌いだとまでは言わないけれど、真っ暗な夜の方が好きなのは間違いない。この静けさは何物にも代え難い。頬にふれる粉雪の冷たさすら感じないほど冷え切った空気は、ぴん、と弓弦を引き絞ったように張りつめていて、それが一層静寂を深めている。

 ふと足を止めた。何か理由がある訳ではない。ただ一度立ち止まってしまったのだ。それから不思議なことに次の一歩がなかなか踏み出せなかった。気持ちが前向きではないというのだろうか。踵を返して、全く違う方向には今すぐにでも行けそうな確信があった。

 俺はいま、何から逃げようとしているのだろうか。自らに問いかけて、足下のアスファルトを見つめる。雪が落ちては溶けていく、その光景をぼんやりと眺めながら、浮かんで来そうな答えを、半分拒絶しつつ、しかしもう半分で模索していた。

 もういっそ、逃げるのならば明日から逃げたい。このままずっと東へ向かって海を渡って日付変更線を越えて太陽から逃げ続けたい。地球の自転にあわせてずっと夜の中を逃亡し続けたい。でもよく考えたら一回りしてきたら結局元の木阿弥だ。地球は丸い。

 なんだかくだらないことを考えている。急におかしくなってきて、笑いがこみ上げてきた。

 人気のない夜道で、一人笑って居るなんてまるで不審者だ。そう思うとさらにおかしくなってきてどうしようもなかった。

 声を漏らさないように喉の奥で笑いながら自転車を押して歩いた。

 ポケットの中でスマホが振動していることに気が付いた。うっすら聞こえていた着信を知らせる音楽が、ポケットから出した途端に鮮明になる。怜から電話だ。出ると開口一番「遅い」と不機嫌そうな声が飛び出して来た。

「話し合いはどうだった?」俺は訊いた。

「知らない」今にも手に持ってるスマホをブン投げそうな怒気をはらんだ声だった。「雪ちゃんなんて知らない。あんな意地悪な子」

「なんかやらかしたか?」

「ちょっと。なんで私が悪いって決めつけてるの? そうちゃんは私の味方じゃないの?」

「何があったか判らないのに敵も味方もないだろ」

「じゃあなんで私が悪いって思ったのよ」

「そりゃあ」そこで俺は一度言葉を濁した。「まあそれより。買い物済んだからいまから帰るわ」

「待って。待ちなさいって。そうちゃん! まだ話は終わってな――」

 通話を終えてスマホをポケットに戻した。すぐにまた着信があったが無視する。果たして家に着くまでに何件の着信と、何通のメールと、ショートメールとSNSのアプリのメッセージが届いているか、見物である。が、なんだかまた足が重たくなってきた。一体奈雪姉さんは怜に何を言ったんだ。そしてその奈雪姉さんは何をしているのか。

 そんなことを考えていると、ずっと鳴っていた着信音とは違うメロディが流れてきた。奈雪姉さんからだ。

 無視をするかどうか迷ってから電話に出た。

「なに?」

「そう君。私、ガツンと言ってあげたから」熱っぽい口調で奈雪姉さんは言った。

「何を言ったんだよ。なんか怜怒ってたぞ」

「怒りたいのはこっちだよ」

 なんだろう。このテンションはなんだか危険な予感がする。

「ところでそう君。明日クラスメイトの子と映画に行くんだって?」

「まあ、一応」

「怜ちゃんは止めなかったんでしょ?」

「行くなとは言ってないな」

「そう君、本当は止めて欲しかったんじゃないの? チケット返して断ってこいって言って欲しかったんじゃないの?」

 どうだろう。俺は答えられずに黙り込んだ。

「そう君は流されやすいし優しいから、仲の良い子に誘われて、断れなかったんでしょ?」

「まあ、そうかも」

「怜ちゃんってさ。余裕ないくせに余裕ぶっててバカみたいなんだよね。それでそう君を苦しめてて。もう見てらんないっていうか。だからガツンと言ってやった訳。そしたら向こうが逆ギレしてきて。なんかもう、こっちもカッとして、一発ビンタ食らわしちゃった」

「食らわしちゃった。じゃないでしょ」俺はため息を吐いた。「だから怜怒ってたのか」

「逆効果だったかなあ。そりゃあね。浮気性っていうか、すぐふらふらしちゃうそう君も悪いとは思うよ。でもね、やっぱり怜ちゃんは年上なんだし、そもそも原因も向こうにあるわけだし。もっとちゃんとすべきなんだよ。なのに、黙ったまま、そう君になんとかしてもらおうとしてて。それがもうなんていうか。ああ、もう。言ってたらまたムカムカしてきた」

「とりあえず、奈雪姉さん。落ち着いて」

「お姉ちゃん」

「は?」

「お姉ちゃんって言って。そしたら癒やされるから」

「何言ってんだ。電話切るぞ」

「切ったら昔、小さい頃かな。うちに遊びに来たときにこっそり私のスカートの中見ようとしてたこと怜ちゃんにばらすから」

「いきなり何を」

「一昨年の夏だっけ? 花音ちゃんと一緒にうちの山に入って、道に迷って一晩二人きりで過ごしたんでしょ?」

「だから急になんなんだよ」

「寂しいからってずっと花音ちゃんに抱きつかれてたそうじゃない」

「いや、それは向こうからそうしてきただけだし。というかそもそもその頃は怜ともさくらさんとも付き合う前だし関係無いだろ」

「じゃあさ。そう君の本当のファーストキスの相手は私だったって話していい?」

「……お姉ちゃん」

 子供の頃の遊びというか、勢いというか、そんなこんなでファーストキスを実質奪われてしまった過去があるのだが。別にそれは良いとして、このまま拒み続けていたらどんな過去を掘り返されるか判ったものじゃないので、俺は折れた。

「あ、言っちゃった」と奈雪姉さんは残念そうに呟いた。「せっかくだから、私が中一の時に一緒にお風呂に入ってあげた時の思い出話でもしようと思ったのに」

「ほんとやめてくれ」俺は言った。「頼むから」

 バカで無邪気だったことを良いことに、なんかとんでもないことをさせられた覚えがあるのだが、正直あんまり思い出したくない。

「あーあ。なんで私たち血が繋がってるんだろ。それなかったら絶対私がそう君の彼女だったのに」

「なんの自信だよ」俺は苦笑する。

「そう君みたいな彼氏見つからないかなあ」

「なに。また別れたの?」

「まあね」

 奈雪姉さんはモテるし結構すぐに彼氏を作るけどすぐになんか違うと言ってすぐ別れる。

「で、どんな振り方したのさ」

「今回は私が振られた」

「へえ。珍しい」

「趣味の事話したらどん引きされて、それでおしまい」電話越しの溜め息が耳元をくすぐった。

「趣味って、コスプレ?」

「うん」

「まあそのうち良い相手が見つかるでしょ。奈雪姉さんは美人だし、人当たりも良いんだから」

「他人事みたいに言うわねえ」

「他人事だし」

「お姉ちゃんだよ?」

「それはそれ」俺は言った。「そういやさ。鈴衛さんとかどうよ」

「は? なんでそこで鈴衛が出てくるのよ」

「いや、なんか相性良さそうな気がして」

 鈴衛さんとは、本家の庭師兼運転手を勤めている二〇代半ばで身長が一九〇もある偉丈夫である。おまけに頭はスキンヘッド。色の濃いサングラスをかけていて、本家の運転手を勤める時には作務衣からスーツに着替えるものだから、そのときの見た目は完全にヤクザである。尤も彼はとても気がよくて心優しい青年であり、小さい頃からよく相手をしてもらっていた、俺からすれば兄貴分のような人でもある。

「姉さんってさ、昔から何かあるたびに鈴衛さんを呼んでたじゃんか」

「あれは、単に鈴衛がそういう立場の人間だからよ」

「それだけ?」

「それだけ」奈雪姉さんは言った。「なによ。私たちのことそんな風に見てたの?」

「いや、なんかお似合いだな、とは思ってたけど」

「へえ。私と鈴衛が」うーんと考え込んでから彼女は、「でもほら、鈴衛って一応うちの使用人だし。身分の違い的なのが」

「けど別に、奈雪姉さんはどこぞに嫁げみたいな話されたことはないんだろ?」

「それはそうなんだけどさ。本家のしきたり的には、私ってどっちかというと放逐されちゃう立場だし」そう言って奈雪姉さんは笑った。きっと苦笑なんだろう。「お婆さまも、母さんも、いまどきそんなの気にするなとは言うんだけど。やっぱり私はちょっとね。思うところがあるんだよね」

「鈴衛さんと一緒になったら、結局本家からは離れられないもんな」

「うん。それにね。多分、私がずっと本家に居たら花音ちゃんにも悪いかなって。あの子、陰でものすごく私に対抗心を燃やしてるというか、私がコンプレックスの対象になってるっていうか。なんだか居るだけで花音ちゃんにとってはプレッシャーみたいなんだよね。多分、どうして私じゃなくて自分が跡継ぎなんだろうって、考えちゃってるんだと思うの」

「そっちはそっちで大変なんだな」

「ま、そゆこと」そう言ってから奈雪姉さんは慌てた様子で、「あ、電池がヤバイ。じゃ、切るね」と言うが早いか通話が切れた。



 玄関を開けるとそこに怜が居た。なにやらふてくされた様子で上がり框に腰掛けて頬杖を着いていた。ほっぺたには気の毒なほど綺麗なビンタの痕が咲いていた。さぞ痛かろう。

「ただいま」俺が言うと、彼女は「おかえり」と石でも投げつけるみたいな鋭い声で応えた。

「遅くなって悪かった」

「別に。そうちゃんに怒ってる訳じゃないし」

 目を細め、唇をつきだしてふくれっ面。完全に拗ねていらっしゃる。

「奈雪姉さんは?」

「お風呂」そう言って怜は面白くなさそうに、ため息を吐いた。「私よりも雪ちゃんのことの方が気になるんだ」

「そう言うわけじゃないよ」俺は怜の隣に腰を下ろした。「怜がどうしてるかってずっと考えてた」

「嘘ばっかり」怜は俯いて、指先で自分のブーツを突っついては軽く踏んづけて、そうやって何かを紛らわしているように見えた。「明日のこと考えてたんでしょ」

 俺は答えずにぼーっと正面を見ていた。

「本当はね。行って欲しくない。引き留めたい。でも、そうちゃんにだって付き合いはあるし。それに、一度やってしまったら歯止めが利かなくなるって確信があるの。そうちゃんのことに干渉して雁字搦めにして、そのうち家から出られなくしてしまうかもしれない。私以外の誰とも言葉を交わして欲しくない。私の目が届く範囲、手が届く場所に、四六時中居て欲しい。いついかなる時でも、私に愛を囁いて、私の愛を無条件で受け入れて欲しい。そんな願望っていうか、欲望かな。それがね、ずっと、熾火みたいに胸の中にあって。もしなにかのきっかけでそこに風が吹き込んでしまったら、きっと取り返しの付かないくらいに燃え上がってしまうって判ってるから」

 だから、正妻の余裕っていうのを演出しようと頑張ってるんだ。

 怜はそう言って頬がひきつったみたいな笑みを浮かべた。

「別にそうちゃんを責めてる訳じゃないの。それだけは、勘違いしないで。そりゃあね。そんなにホイホイほかの女の子の誘いに乗っちゃうところに、思うところがないわけでもないけど。というか沢山あるけど。でも、結局は私の気持ちの問題なんだと思う」

 その姿がなんだかすっきりと自己完結している様に見えて、俺の胸の中に刺々しいものが生まれて、それが間髪入れずに口をついて出た。

「俺に漫画家になったことを隠してた事も、その後にあった色んなことも、そうやって気持ちの問題だって、自己完結してたのか?」

 俺がそう訊ねたと同時に、怜の顔色がサァっと青ざめた。何か言おうと開いた彼女の口から、しかし言葉らしいものは何一つ出てこなかった。上手く整理されていない感情を吐き出すように、小さく呻いて、両手で顔を覆い、うずくまった。

 胸が痛い。無理矢理棘を吐き出したせいだろう。ズタズタに引き裂かれたような痛みだ。それを無造作に突き刺された怜もきっと痛いに違いない。独りよがりなのはお互い様だ。

 俺たちはいま、お互いに同じ痛みを分かち合いながら、根本的な部分ですれ違っている。表面上は同じ場所に立っているのに、その実座標に新たな軸を加えると全く違う場所にいる。きっといまの俺たちはそんな風に見当違いの場所に突っ立って居るのだ。いま手のを伸ばして抱き寄せてキスをしてもなにも伝わりはしないだろう。いまの俺たちに出来ることと言えば、ただ途方に暮れるだけ。それだけだった。



    6


 頭痛で目が覚めた。酷く寒い。目覚まし時計を見るともう朝だった。その割に部屋は暗い。重たい体を引きずるように布団から出て、カーテンを開けた。

 どんよりとした分厚い雲から無数の雪片が降り注ぎ、すでに日が昇っているはずの時間だというのに、明け方の様に暗い。ぼーっと外を眺めていると、近所で雪球を転がす子供の姿が見えた。

 顔を洗うと幾分か気分はマシになったが、頭の重たさは消えない。まるで文鎮を頭に乗せられたみたいに重たくて、万力で締め付けられるような痛みがする。昨日の夜はそんなに酷くなかったのに。

「おはよ。うわー、酷い顔」

 朝食の準備をしようと台所へ行くと、そこに先客が居た。

「大丈夫?」

「おはよう。奈雪姉さん。ちょっと頭痛い」

「そっかあ。天気悪いもんね」

「低気圧は敵」俺はそう言って肩を竦めた。「こないだ入院する前まではそうでもなかったんだけどな」

 食器棚の引き出しを開けて頭痛薬を取り出す。気休め程度にしかならないだろうが、ないよりはマシだ。コップに水を汲んで、それで一気に流し込んだ。

「辛そうだね」と奈雪姉さんは心配そうに眉をひそめた。「今日、大丈夫?」

「とりあえず、約束は約束だから、行かなきゃな」

「そこまでする義理はあるの?」

「原因が原因だからさ。これで約束すっぽかしたら、あの二人の和解が遠のきそうだし」

「あのときお見舞いに来てた子と、それから、えっと」

「井上」

「そう。井上さん。二人とも、そう君にとってはどんな存在なの?」

「大切な友達」

「そっか」奈雪姉さんは俺の言葉を訊いて、しょうがないな、とでも言いたげなため息をこぼして、「止めても行くんだろうね」と苦笑した。「ま、とりあえず向こうのソファで休んでて。朝ご飯は私が作るから。というかもう半分くらいできあがってるから」

「そっか。悪いな」

「いいのいいの。突然押し掛けたんだもの。これくらいはさせてもらわないとね」

 

 どれくらいソファで横になっていただろうか。意識の焦点が定まらずに、茫洋とした霞の中に迷い込んだ様に、まるで時間の感覚が判らない。眠たいと言えばそうだし、頭が痛くて朦朧としているといえばそれもまた正しい。自分の体の輪郭が、まるで曇り硝子越しに見る影のようにはっきりとしない。天井に向かって手を伸ばし、拳をぐっと握りしめても、実感のような物は砂のように指の間から逃げていく。

「ご飯出来たけど、食べられる?」

 心配そうな声が聞こえてきて、それが幾らか意識を取り戻す呼び水となって、俺はそこで改めて自分の体調が悪いことを実感した。

「少しなら」俺は答えた。ゆっくりと体を起こして、背伸びをした。「そういえば、父さんと母さんは?」

「あ、伯父さんたちなら朝早くに出てったよ。そう君のこと起こしちゃ悪いかなって思って、伯父さんたちの朝食も私が作っておいたから」

「そっか。ありがと」

「いいのいいの。さっき言った通りだから」

「怜はまだ寝てるのかな」

「どうだろ」と奈雪姉さんは斜め上の天井を見た。ちょうど怜の部屋がある方向だ。「昨日夜遅くまで仕事してたみたいだし」

「じゃあ昼過ぎまで起きてこないかも」俺は苦笑した。先日体調を崩したばっかりだと言うのに、相変わらず夢中になると止まらないんだな。

 ソファから立ち上がって台所へ向かう。テーブルに着いて、奈雪姉さんの作った朝食を食べた。里芋と人参の入った味噌汁に、塩サバを焼いた物。それにほうれん草のお浸しとご飯。普段自分が作る料理とは違う味付けで、それが少し新鮮で、体調の割に箸が進んであっという間に平らげてしまった。

「流石男の子だね」と嬉しそうに奈雪姉さんは言った。

「ありがとう。美味しかったよ」俺は言った。「姉さん」

「うん」と奈雪姉さんは嬉しそうに頷いた。「お姉ちゃん頑張ったからね」

「怜に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ」

「怜ちゃんの料理センスはある意味天才的だから、あれはあのままでいいんじゃないかな」おどけた表情で奈雪姉さんは言った。

「まあどうしようもないかな」俺は苦笑する。

「それに、どうせそう君が面倒見るんでしょ?」

「まあね」

「だったらいいじゃない。怜ちゃんが美味しそうに食べる姿を見てると幸せなんでしょ?」

「そりゃもう」

「いいなあ」と奈雪姉さんはアンニュイな表情で呟いた。「そうやって些細な幸せを感じられる相手が居て」

 俺は昨日のことが脳裏を過ぎって、素直にその言葉を肯定することが出来なかった。

「昨日、何かあった?」奈雪姉さんが真剣な目で俺を見ていた。

「喧嘩みたいなのをした」俺は答えた。「八つ当たり、っていうか」

「いいんじゃない? そう言うの」

 奈雪姉さんの意外な言葉に、俺は「え?」と思わず聞き返していた。

「ようやく腫れ物扱いの部分に踏み込めるようになってきたんでしょ? いい傾向じゃないかな」

「判らないよ」

「時間の問題だと思うよ。そのうち大喧嘩するかもだけど、その後には、ほら、雨降って地固まるっていうでしょ? そんな感じで丸く収まる。そういう未来が見えるわ」

「なんだよそれ」

「私の予感。結構当たるのよ?」

 三島の本家が鬼の末裔を自称していることやら奈雪姉さんが本家では巫女をしていたりすることと、果たして関係があるかはどうか判らないが、昔から彼女の予想は本当によく当たった。だから彼女のその言葉で、幾らか胸が軽くなったような気がした。

「そういえば、時間、大丈夫?」

「ああ。まだ平気。昼前に待ち合わせ場所に行けばいいから」

「じゃ、それまでゆっくり休んでなさい」

「そうする」俺は席を立った。それから、急に、胸の中に暖かい物が満ちていくような感覚があって、気が付くと俺は笑顔を浮かべていた。

「どうしたの?」と奈雪姉さんは首を傾げる。

「いや、なんだろう。お姉ちゃんってこう言うのなのかなって」言ってから俺は恥ずかしくなって奈雪姉さんの顔をみれなくなってしまった。

「私も」と彼女は優しい声で、「弟っていいなって、思ってた」

 お互いに恥ずかしいことを言い合ったせいで、何とも言えない気恥ずかしさが二人の間に満ちていた。俺は一つ咳払いをして、「部屋に戻るよ」

「うん」奈雪姉さんは頷いた。「いつぐらいに声かければいい?」

「一〇時半くらい」

「りょーかい」

「そういや、奈雪姉さんの用事はいいの?」

「まあ私の用事は怜ちゃんが起きてこないとどうしようもないから」

「そっか」

「えへへ」

「じゃ、おやすみ」

「おやすみ」


    続く

後付け元い、なかなか出せなかった設定の紹介的なのも兼ねていたりとかなんとか

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