The Tragedy Act2 "Ache"
2
「奈々子と映画に行くんだって?」
月曜日。教室に入るなり夏井に詰め寄られて、気がついたら教室の端の掃除道具入れのところにまで追いやられていた。
「朝からずいぶんとご機嫌だな」俺は言った。
「そりゃあもう。昨日奈々子が自慢してきたときから、とってもご機嫌なんだから」
「で、そのことで、俺がこう、詰られる謂われはあるのかな」
「ない」
「だよなあ」
「でも気に入らないから怒ってる。なによ。遠慮する必要がなくなったと思ったら、ぐいぐい攻めていって。そんなに好きだったんなら最初っからもっとちゃんと言いなさいよって思うわけ」
「それは俺に言わず井上に言うべきじゃないか?」
「もう言った。そしたら香奈の為だったとかなんとか。ふざけんじゃないわよ」
「どうどう」
落ち着けと夏井の肩を掴む。最初は鋭かった周囲からの目も、最近ではすっかりまたか、という呆れの様なものに変わり、以前ほど肩身の狭い思いをすることはなくなっていた。だが、それでももう少し周りのことは気にして貰いたい。一人歩きし始めた噂の収拾がそろそろつかなくなってきているのだし。どうも最近では謎の第三勢力が現れて本命はそっちで、夏井と井上は遊びなのではないかという噂まで流れ始めているらしい。先日苦笑しながら国彦が教えてくれた。言葉のニュアンスを除けば思いの外的を射た噂話である。笑い飛ばすのにかなりの胆力が必要だった。
「なんかこう、思った通りになはらないんだね」夏井はため息をついた。「宗平と付き合ってるって噂流せばどうにかなると思ったんだけどなあ」
元々私たちって仲良かったし、と夏井は大きなため息をついた。
「奈々子が悪いんだよ。なんで同じ様なことするかなあ」
「いや、おまえら両方悪いから」
「それはどうかな。期待させるような行動ばっかりしてて、結局鈍感で何にも気づいてなかった宗平が一番悪いと思うんですけど」
こちらに悪意はなかったとはいえ、そこを突っ込まれるとぐうの音もでない。
そろそろ予鈴がなるぞ、と言い掛けたところで、横からぬっとでかい人影が現れた。
「三島は悪くないよ」
ぶっきらぼうなその物言いは、まさしく井上奈々子、その人であった。
夏井は、でたな、と言う顔で彼女を見上げた。
「悪いのは私たち。特に香奈」
「なんで特に私なのかな?」
「だって、香奈が素直に諦めていれば、こんなことにはならなかった」
「私を諦めさせるためにとか、訳の分からない言い訳言って、宗平のこと誘惑してる人に言われたくありませんよーだ」
「私は別に、三島の彼女になれるなんて思ってない」
「嘘ばっかり。だったらなんであんなに嬉しそうに映画のチケット渡したこと自慢してきたのよ」
「香奈に対する牽制」
「喧嘩売ってるわけ?」
「その真っ最中でしょ?」
そう言えばそうね、と夏井は大きなため息をついてがっくりとうなだれた。
「言っておくけど、私に勝ったからって、宗平の彼女にはなれないから、それだけは勘違いしないようにね」
「心得てる」と井上はうなずいた。「お姉さんがいるから」
「それだけじゃあないんだけどねー」と意味ありげな笑みを浮かべて、夏井は俺を見た。「元カノのような違うような人がもう一人いらっしゃるもんね」
「まあ夏井。その話は別の機会にやろう」
ちょうどいいタイミングで予鈴がなったので、これ幸いと俺は二人から逃げ出して自分の席に座った。が、よく考えれば隣は相も変わらず夏井なので逃げたところで袋小路に変わりはないのだが。とにかく気分の問題である。
「ま、学校であの人の話はちょっとまずいかもね」と自分の席についた夏井は、頬杖をつきながらそんなことを言った。「いまじゃすっかり有名人だし」
「井上は知らないんだな」
「うん。奈々子にはそのこと話してない。なんていうか、話し難くってさあ」
「というと?」
「ファンなんだよね。それも熱烈な。私が読むようになったのも、奈々子の熱心な布教活動のおかげだし。それに、いつだったかな、たぶん夏頃に、偶然雨宿りしてたらばったり出くわして色々話せたってすっごいはしゃいでて。あの時の奈々子のこと思い出すと、夢を壊すようで悪いなあって」
「なんだかんだ優しいよな、おまえ」
「そう?」
「さっさと仲直りしろよ」
「うーん。それは駄目」
「なんで」
「だって奈々子は私を裏切った事について、まだ謝ってくれてないし」
「そういや、おまえは井上に何をしたんだ?」
「別に」そう言って夏井は黒板の方に顔を向けた。「私が宗平に怪我させたことが許せなかったんだってさ」
良かったね。自分のために怒ってくれる女の子が居て。
夏井は憎々しげにそう呟いた。
そう言えば今日はいつもと何かが違う。そんな違和感に気が付いたのは三限目の後の休み時間のことだった。
なんだろう。と思ってぐるりと教室を見回して、ふと、机に頬杖をついて何事か考え込んでいる公康の姿が目にとまった。そう言えば、学校に着いてから今日は一度も喋ってない気がする。普段は大体向こうからやってきて夏井も交えて談笑したりするのに。
「あれ、気づいた?」と夏井が何か含みのある笑みを浮かべていた。
「なんか心当たりあるのかよ」
「実はねー」そう言って彼女は最前列の教壇前の席に視線を向けた。「加賀ちゃん、いるじゃん?」
そこに座っているのは委員長の加賀杏だ。何事にもきちっとしていて、規則を後生大事に守る真面目を絵に描いて額に飾ったような人間である。夏井とは吹奏楽部で三年間一緒だった。不良やヤンキーってほどではないが、結構色んなところでルーズな面がある夏井と、何故だか仲が良かった。
「公康君に告ったんだって」
「はあ?」
聞き返した声が思わず上擦りそうになった。
「昨日の放課後、加賀ちゃんから呼び出して、それで、とうとうやっちゃったんだってさ。いやー、ずっと影ながら応援してた身としてはようやく一歩踏み出したかって感じで、感無量って言うんだっけ、こういうの」
「夏井、お前なあ」
人に鈍いとかなんとか言っておいて、お前も鈍いじゃないか。公康はお前のことが好きなんだぞ。そう言い掛けてぐっと飲み込んだ。
「加賀ちゃんってさ。結構美人じゃん? メガネが似合う知的な出来る女的な雰囲気があって。だから、美形の公康君とは結構お似合いだと思うんだけどなあ」
「で、結果はどうなったんだよ」いろいろ言いたいことが脳裏を過ぎったが、それらをすべて受け流しながら俺は話を促した。
「さあ。告ったって、昨日加賀ちゃんから報告があって、それだけ。振られたって言う風には見えないから、多分返事を保留されたか、保留にしていいからって逃げたかのどっちかじゃないかなあ。ていうか気になるなら公康君に確認すればいいじゃん。宗平なら話してくれるでしょ」
「まあ気が向いたら」
「なによ。さっきから何か言いたげだけど」
「なんていうか」俺は加賀と公康を交互に見て、それから夏井に視線を戻して「俺たちってある意味似たところあるのかもな」
夏井は不思議そうに首を傾げて「変なの」と言った。
3
つまるところ、どうするべきなのだろうか。すでに付き合うと応えてチケットを受け取ってしまった以上、それを反故にするにはそれなりの理由が必要になる。やっぱり怜が大事だから、とか怜に怒られたからとか、ある意味常識的な理由を並べたところで、それとこれとは別だ、などと退けられるだろう。
然らば、いっそ当日に有無を言わせぬドタキャンという方法はどうだろうか。すでに常識をはずれた邪道にいるのだから、翻って正攻法となるかもしれない。が、そうなったらそうなったで向こうから家に押し掛けてこないとも限らない。井上は普段は大人しいが、バスケをやっているときは別人の様に獰猛になる。まさかその時々でそっくり人格が入れ替わる訳もなく、彼女が見せる獰猛で果敢な姿は、それもまた彼女自身なのである。夏井との恋の勝負で、それが発揮されないと果たして言い切れるだろうか。
安請け合いもそうだし、結局情に絆されて井上の誘いを受けてしまった自分の弱さというのだろうか。とにかく嫌になる。
中途半端な優しさこそが最も残酷だと言ったさくらさんの声が脳裏をよぎる。
その言葉を噛みしめるのは何度目だろうか。本来ならそう何度も噛みしめてはいけないはずの言葉だというのに。
「やっと見つけた」
やれやれと言った風に発せられた言葉が狭い空間に反響して、階段を上ってくる足音が近づいてくる。
「香奈ちゃんと、井上さんが探してたよ」
そう言って公康は肩を竦めた。
「だろうと思った」
だからここにいるんだよ、と俺は笑った。
校舎の三階にある階段をさらに上った先。屋上へ出るペントハウスの中である。そこでドアの横の壁にもたれてあぐらをかいていた。
ドアが施錠されていて屋上へは出られないということもあるのだろう。基本的にここは人気が全くない。昼休み、給食を終えるとすぐにここに逃げてきたのだ。単純に一人になりたかったこともあるし、食事中から目線で互いに牽制し合う二人の姿に何か嫌な予感を覚えて、巻き込まれる前に逃げたのだ。使われなくなった椅子や机が積んであって物置状態のこのスペースが妙に心地よかった。
「大変だね」公康は階段の一番上に腰掛けた。
「まあでも、身から出た錆なんだよな」
「そう、なのかな」背中しか見えないが、苦笑しているように感じられた。「だって宗平は、いちど香奈ちゃんを振ったんでしょ?」
「ああ、まあな」
公康の口からそのことを言われると、何とも言えない申し訳のなさが胸にこみ上げてくる。
「それだけ宗平の事が好きなんだね」
まあ病院送りにしたのは褒められたものじゃないけど、と今度は肩をゆすって笑った。
「夏井はともかく。まさか井上もああなるなんてなあ」
「そう? 井上さん、昔から宗平のこと好きだったよ」
「マジか。夏井の奴も前からそうだったって言ってたんだよなあ。気づいてなかったの俺だけか」
「うーん。井上さんに関しては、たぶん気づいてたのは僕と香奈ちゃんくらいじゃないかな」
「あ、ほんとに」
「当事者が気づいてないのはどうかと思うけど」
「いや、だって。俺、あいつにそんな好かれるようなことした覚えはないんだけどなあ。そもそも夏井と一緒にいるから、それなりにつきあいはあったけど、二人でどうこうってのは全然覚えがないし」
「井上さんにバスケ勧めたの宗平なんでしょ?」
「らしいな。覚えてないんだけど」
「覚えてないの?」
「ああ、全く」
俺がそう答えると、考え込むような間がしばらくあってから、「もしかして」と公康は呟いた。
「なにがもしかしてなんだよ」
「なんでもない」
「気になるだろ」
「いいんだよ。たぶん僕の思い過ごしだから」
そう言われると余計気になる。しかしこいつは結構頑固なのでこうなると絶対に口を割らないのでそれ以上は訊ねなかった。
「でさ、さっきの話の続きだけど。井上さんってバスケ始めてから変わったでしょ。重たそうな髪を短くして、ずっと丸めていた背筋を伸ばして、別人みたいに凛々しくなって綺麗になった。バスケで才能を開花させて、それで自信がついたってこともあったんだろうけど。でもやっぱり宗平に恋をしたからなんだと思うよ」
こいつはいまどんな顔をしてこんなこっぱずかしいことを言っているのだろうか。その背中に無性に問いかけたくなったが、どうせ振り返ったところでそこに見えるのはいつもと変わらないケロっとした顔だろう。
「俺のことばっかり言ってるけど、そっちはどうなんだよ」
「僕?」
「ああ。ちょっと小耳に挟んだんだけど、加賀に告られたって」
ああ、そのことか。と公康は髪をぐしゃぐしゃかき回してそれから天井を仰ぎ見るような仕草をした。
「本当だよ。ただ、返事は受験が終わってからで良いって」
「どうするつもりなんだ?」
「うん」と公康はうなずいて、それから躊躇うように「付き合ってみるのも悪くないんじゃないかなって、思うんだよね」
加賀杏は美人だ。メガネの下の目つきこそ鋭いが、すっと通った鼻筋に、桜の花びらのような唇が印象的な、夏井、井上らと肩を並べる美少女であった。その上、堅物ではあるものの、それなりに愛嬌も持ち合わせていて、凡百の男子であれば、そんな彼女から告白されたとなると、一分の漏れもなく有頂天に舞い上がり、回答の期日を一日千秋の思いで待ちこがれたことだろう。
だがしかし。
公康にとってはそうではないのだ。
俺は迷っていた。夏井のことはいいのか、と訊ねるべきかどうか。いまの状況の俺が言ったところで、それはなんだか嫌味のように聞こえてしまうことは相違ないし、厄介な彼女を押しつけようとしている風に取られてしまうかもしれない。だが何より恐れたのは、そう言った発言の果てに公康を傷つけてしまわないかということであった。だから、俺は「そっか」と至極安易な言葉を選び、その話題に深く立ち入る意志がないことを示した。
公康は、「うん」とだけ頷いて、やはりあまり深入りされたくないという風に背中で語っていた。
「そういえば」と公康が急に声のトーンを上げて、「この前お姉さんと会ったんだけど。なんか、宗平とのことで悩んでるとか言ってたんだけど。どういうこと?」
「どういうことも、なにも」
どう話したら良いものか。俺はあぐらから立て膝の体制に座り直して、「なんだろうな」
「言いたいことがあるなら言いなよ」
「なんだか事情を察してるような言い方だな」
「どれだけ付き合いが長いと思ってるのさ。見てれば判るよ」
「怜がさ、漫画家になったこと、俺に黙ってたろ?」
「やっぱり。そのことなんだね」
「そのことなんだよなあ」
「まあがんばって」
「急にテキトーになりやがった」
「まあこればっかりは当人同士の問題だし。犬も食わないって言うし」
「喧嘩じゃないぞ」
「喧嘩みたいなもんでしょ」
「そうか?」
「そうだよ」
やれやれとため息を吐く。結局のところ判らないのである。何が蟠っているのか。ただそれが原因で、心の中に埋めようのない飢餓感があって。それがだんだん広がりつつあるということなのだが。果たして、俺は彼女に何を期待して、何を臨んで、そして裏切られて失望しているのか。気持ちの整理が全く進まないまま時間だけが過ぎていって、ついでになんだか二人の立ち位置がだんだん判らなくなってきているのだ。結果として不安が押し寄せてくる。
「そういえば相川さんとはどうなってるの?」
「えらく今日はころころ話題を変えてくるな」
「暇なんだよ」と公康は笑った。「誰かさんを探してたらこんな何もないところに来ちゃったから」
「クリスマス前に春まで会わないって約束して、それっきりだぞ。本当に」
「それって何か意味あるの?」
「え?」
「だって。結局会う約束してるじゃない」
そう言われてみればそうだ。
「もしかして、いま気づいたの?」
「はい」
「多分だけど、相川さん。その約束したとき内心すごく嬉しかったんじゃないかな。なんだかんだで宗平は自分のことを想ってくれているって感じで」
「一旦距離を置いて、って感じで考えてたんだけど」
「だったらなんで会う約束してるのさ」
呆れた風に言う声が帰って来て、俺は頭を抱えた。
「……なんでだろうな」
「好きなんでしょ」公康はため息混じりにそう言った。
「そこは否定しない」
「贅沢だよね。宗平は。お姉さんが居て、相川さんがいて。その上香奈ちゃんと井上さんまで」
「いや、その。怜とさくらさんはともかく。夏井と井上は、なんというか。一緒にするの可笑しくないか?」
「カテゴリ的には違うかもだけど、ジャンルとしては同じでしょ」
「まあ言わんとしていることは判らないでもない」
「そう言えば二人は相川さんのことは?」
「夏井は知ってる」
「そうなんだ。僕はてっきり何も知らないのかと」
「多分知ったところで変わらんだろうなあ」
「ははは。あの二人はそうかもしれないね。なんていうか、好きって言う感情だけじゃないから」
「好きだけじゃない?」
「うん。特に井上さんは。だからなんていうか、気をつけた方が良いよ」
なんとも意味深な言葉である。その意味を問いただそうとした時、昼休みの終わりを告げる予鈴がなった。
「さ、そろそろ戻ろうか」と公康が立ち上がって、こちらを振り向いた。
「五限は国語だっけか」俺は立ち上がって、ちょっと立ちくらみがするのを耐えて、それから階段の方へ歩いていった。
「大丈夫?」心配そうに公康は言った。「肩かそうか?」
「おまえの方がデカイのにどうやって肩かりるんだよ」と俺は軽く公康を小突いた。
「あはは。それもそうだね」と笑いながら小突き返してきた。
「立ちくらみなんていつものことだから、心配すんな」
「それでも心配だよ。何せ頭を打って死にかけてたんだから」
「いまはこの通り、生きててピンピンしてる。だから大丈夫だよ」
まあ、肩とか腰は相変わらずだけど、と俺は苦笑を浮かべて見せた。まさか、実は最近ちょっと頭痛がするなどと正直なことを言える訳もなく。そうやって何事もない様に装った。いや、ただ単に受験勉強で疲れているだけなのだろう。だから本当に、なんでもないのだ。なんとなく不安になってきたので、そんな風に何度も自分に言い聞かせながら階段を下りていった。
4
頭痛に関してであるが。どちらかといえば事故直後から去年の暮れ頃までは特に問題はなかったのである。言ってしまえば夏井との一件からのことであり、恐らくは脳震盪が後を引いているのだろうと思う。尤も、あの時気を失ったのは前日からの寝不足とずっと気を張っていた事もあり、そのせいで疲労が溜まっていて、文字通り眠るように気を失っただけだったのだが。
しかしこのことは黙っていた。下手に口にすればそこからまた何かしら、諍いの火種が生まれてしまうかも知れないと危惧したことが第一の理由であり、次にあまり大したことでもないのに心配されてしまうのが煩わしかったからだ。それに、やはり怜を心配させたくないという思いもあった。いずれにせよ口にしたことによって引き起こされるであろう面倒を嫌って胸の奥にしまったままにしていた。
それにしても今日はいつもより頭痛が酷い。天気が悪いせいかもしれないし。そもそも肩が凝っているからというのもあるのだろう。ガンガン痛む。おかげで授業の内容も入ってこない。いや、元々頭痛なんてなくてもそこは同じだっただろう。。
不安になるようなことを言った公康が悪いのだ。井上が、単純な好意だけじゃないから気をつけろだなんて。それを言われると、教えても居ないはずのSNSのアカウントを知られていたことと自然と結びつけてしまって、なんとも気味の悪い心地になってしまう。けれどあの井上がそんなことをするだろうか。とか考えるが、でもそんなに言い切れるほど井上のことを知らないと気がついて余計に不安になる。
そう、俺は井上のことをよく知らない。いつも夏井と一緒に居て、そのおかげで様々な学校行事やプライベートでの付き合いで顔を合わせているはずなのに、彼女との思い出と呼べそうな記憶が全くないのだ。
何故好かれているのかという理由が判らない。だが不安にさせられている理由はそこではなかった。
本当にその記憶は最初からなかったのだろうか。
公康が言った通り、俺は頭を打ったのが原因で間違いなく一度死にかけていた上に、目が覚めるかどうかも危ういという状態に陥ってしまっていたのだからそう言ったことが起こっていたとしても不思議ではない。
元から、夏井とセットでしか関わる機会が殆どなく、また彼女は夏井を立てる為に一歩下がった位置から俺に接していたのだとすると、それが発覚せずに一年近く経過していたとしても不思議ではない様にも思うのだ。死にかけた割に深刻な後遺症がなくて安心していたのだから尚更、そんなことを考えているはずもなく、いまのいままで見過ごしていたとは考えられないだろうか。
だが、まだ判らない。彼女と一度しっかり話をしてみるべきだろう。そうすれば真実は判るはずだ。もしかしたら、本当に何もなくて、こちらが気にとめることもなかった小さな出来事が彼女の中で積み重なったが故の顛末かも知れないのだから。
結局何がなんだか判らないうちに授業は終わってHRが始まった。それも頭痛に耐えながらぼんやりしているうちに過ぎ去って、気がつけば放課後になっていた。正直体を動かすのがかなり億劫で、ぼーっとしている間にどんどん教室から人が居なくなっていく。とりあえず帰り支度だけでもしておこう。
「大丈夫?」と横から夏井が声を掛けてきた。
「なにが」俺は鞄の中を整理しながらすっとぼけた。
「顔色、酷いよ」
「肩凝っててな」そう言って俺は彼女の方を振り向いて、左肩をぐるぐる回すジェスチャをした。
「あー、それ辛いよね」と夏井は渋い顔で応えた。「私も結構なるんだよね。ほら、楽器演奏する体勢ってあんまり普段しない形してるでしょ? もう始めたばっかりの頃なんて、肩とか首が痛くて痛くて」
「そっちはそっちで大変なんだな」
「本当にね。いまは勉強で目と肩が疲れて死にそう」
がっくりとうなだれる夏井の姿に苦笑しつつ、どうやら上手く誤魔化せたようでほっと安堵する。
鞄を肩にかけて教室をぐるりと見回す。
「あれ、公康どこいったんだ」
「何か用事があるって言ってたよ」と夏井は言った。「今日は先に帰るから宗平に言っといてってさ」
「用事」
「なんだろうね」
「なんなんだろうな」
気になる。
「なんかね。加賀ちゃんも用事なんだって」
「なるほど」
「そう言うことだよね。やっぱり」
拙速、などと評価する資格などないが、それにしてもえらく早い段階で決断したものだ。てっきり推薦入試の合格発表が終わった後くらいに返答するものとばかり考えていた。昼休みに交わした言葉が、あいつが決断する一助となっていたとしたら、果たして喜んで良いのやら、ちょっと複雑だ。
まあ外野の人間があれこれ考えたところでどうにもならない。
俺はため息を吐いた。「帰りに保健室寄って頭痛薬貰ってくるわ」
「大丈夫? ちょっと、肩揉もうか?」
「やめてくれ」俺は即答した。
「なんでよ」再び夏井は不機嫌そうに言った。
「前に一回お前に肩揉んで貰った時あったろ」
「あったね」
もう随分と前のことだが、肩が凝ってしんどいだのなんだのとグチをこぼしていたら、「私得意だから」などと目を輝かせて言ってきたので、それならば、と任せたら、これがとんでもないくらいの下手糞で、もうツボやらスジやら関係無くでたらめに揉みまくるものだから、おかげで数日ほど無事なはずの左肩まで上手く上がらなくなるという災難に見舞われたことがあったのだ。
「覚えていてなんだその自信満々の表情は」
「私を見くびらないでもらいたいな。お父さんを実験台、じゃなくて練習台にして上達したんだから」
「お前酷い奴だな」
「むぅ。そりゃあまあ、最初はお父さんに止めてくれって泣いて止められたけど、最近は上手くなったなあって褒めてくれるようになったんだから」
ぷぅとふくれ顔で彼女はそう言う。
そんな彼女を後目に、さて、そろそろだろうかと教室内をぐるりと見回す。
「どうしたの?」
「いや井上の姿が見えないなって」
「ああ」
そのこと、と急に冷めた表情になって、つま先でとんとんと床を叩いた。
「今日は病院に行くからってHR終わったらすぐ出てったよ」
「病院?」
「ほら、奈々子、前からずっと膝が痛いって言ってたでしょ」
「そうだっけ?」
「……覚えてないの?」と怪訝そうな顔で彼女は言った。「ふーん。まあいいけど」そして彼女は興味なさげにそう呟いてから、「そうだ。宗平このあと時間ある?」
「一応」
「じゃあ一緒に勉強しようよ。受験勉強。いくら推薦受けるって言ったって、確実に受かるとは限らないでしょ?」
「まるで人が受験勉強してないような言い方はやめてもらいたいな」
「え? してるの?」
「決まってるだろ。受験なんて受かるまで判らないんだから」
「そうだよね。やっぱり、推薦受ける人も勉強はするもんだよね」
「なんだよ。しなくても良いとか思ってたのか?」
「まあ、ちょっとは。楽でいいなあとか羨ましがってました」
「お前が苦労してるのは三年間の殆ど勉強さぼってたからだろうが」俺はそう言って夏井の頭に手を置いた。「地頭はいいんだから。普段からもっとやってりゃ良かったんだよ」
「むぅ。そうは言ってもさ。私って不器用だから。部活に力入れてたらついつい勉強の方がおろそかになるっていうか。ていうかいいじゃん。そういう過ぎたことは。宗平ってさ、私にはなんか意地悪だよね」
「意地悪んじゃない。辛辣なんだよ」俺はそう言って夏井の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「やー。ちょっと、やめてよ!」
俺の手を振り払い、髪の乱れた頭を両手で押さえ、涙目で睨んでくる。
その時である。
「おまえら本当に仲がいいよなあ」と呆れ顔の国彦がやってきた。
「なんだ、まだ居たのか」
「忘れもん取りに戻ってきたんだよ」そう言って国彦はため息を吐いた。「三島。ちょっといいか?」
「おう。ああ、でも夏井の勉強見るって約束したし」
「すぐに終わるから」
いいよな。と俺の肩越しに夏井に確認を取る。「すぐに返してよ」と夏井が答えたのに頷き返して、国彦は「こっち」と言って廊下に出た。
下校する生徒をあらかた吐き出した放課後の廊下はしんと静まり帰っていて、外から聞こえて来る運動部のかけ声や、吹奏楽部の楽器の音が、遠くから響いていて、いまこの瞬間、ここに居ることが場違いに思えてしまうような寂しさを覚えた。
国彦は窓の外をしばらく眺めてから、「大変だな」と振り返った。
「夏井のことか?」
国彦は頷いた。「実際どうなんよ。お前ら」
「どうもなにも。いつも通りだよ」
「それが判らねえから聞いてんだろ」
「俺もよく判らない」
「なんじゃそりゃ」
「自分でどうこうしようと思った訳でもないんだけどさあ。気がついたらこうなってた」
なるほど。と国彦は腕組みをして「じゃあ聞き方変えるわ。色々噂が流れてるけど、実際どうなんだ?」
「二股とかそう言うのでは、ないな。一応」俺は言った。「どちらとも付き合ってる訳ではないから」
「やっぱり、色々言いふらしてるのは取り巻きの連中なのか」
「そうなるな」まあ発信源は本人たちなのだが。「なんだよ。もしかして心配してくれてたのか?」
当たり前だろ。と国彦はまじめな顔をしていった。「中学入ってからの付き合いとは言え、俺とお前の仲なんだから、それくらいは当然よ」
「そっか」
国彦の、単純な動機に、しかし一瞬心を打たれて、油断した拍子にちょっとだけ涙腺がゆるみそうになった。
「それにしても、連中なんのためにそんなことしてんだ?」
「元は夏井と井上の喧嘩が原因なんだけどな」
「何がどうなってお前の取り合いになったんだよ」
「何なんだろうなあ。ほんと」
「夏井とお前がそれなりに仲がいいのは、まあ周りから見てれば誰だって判るけど。井上は以外すぎて意味が分からん」
「俺も意外だった」
「まあでも、井上がお前のことを慕ってるのはなんとなく判ってた」
「そうなのか?」
「前にさ、ちょっとお前のことグチったらすっげえ怖い顔で睨まれたんだよ。井上に。あいつの怒った顔は怖いぞ。マジで。殺されるかと思った」
「大げさな奴だな。ってかグチってなんだよ」
「そこはあれだ。気にするな」
「俺とお前の仲なんだろ?」
「親しき仲にも礼儀ありっていうだろ?」
「バカのクセに難しい言葉知ってるな」
「いい加減人をバカ扱いするのやめろや」
「うるせえ。お前はバカだ。そしてそれがお前の良いところだ」
「お、おう。そうなのか?」
「まあ、それはそうと。心配かけてすまんな」
ありがとう。と俺は何となく気恥ずかしい気分もしながら、そう伝えた。
「おうよ」と何事もないように国彦は答えた。
それからなんとなく、二人して窓辺によりかかり、黄昏ていると「栗原から聞いたんだけどさ」
「公康から?」
「お前と、お前んちの姉ちゃんが血がつながってないって話をさ」
「ああ、そのこと。そうだけど?」
俺がそう答えると、国彦は目を見開いて驚いた表情をしてから、「軽く答えすぎだろ」と右の二の腕辺りを軽く殴ってきた。
「いや、だってお前。知ってる奴は知ってるぞ?」
「は? どういうことよ」
「怜がうちに来たのは、俺が小5の時だからな」
「でも聞いたことないぞ」
「そりゃ誰彼に言いふらすような内容でもないし。そもそも家が隣でずっと一緒だったせいか、元々姉弟だったって勘違いしたままの奴もいるみたいだし。名字違ってたのに」
実際に、怜がうちに引き取られたことを成り行き上話さざるを得なかった時などに、「え? 本当のお姉さんじゃなかったの?」などと驚かれたことが何度かあったのだ。そう言うことがあって以降、怜が実の姉ではないとうことを話すことはほぼなくなったのである。
「ん? 待てよ。よく考えたらお前シスコンじゃなくね?」
「多分そうじゃない?」
「っていうか三年になった辺りから、ちょくちょく外で手つないで歩いてるのとか見かけたりしたんだけどよぉ」
「ああ」
「お前が、夏井とか井上に靡かないのって」
「そういうことだよ」
国彦は、うへえと情けない声を出して顔をしかめた。
「なんだよそのリアクション」
「だってお前」
「何がだってなんだよ」
「いや、すっげー。羨ましいんですけど。お前あの美人が。ええ、マジで?」
「マジだよ。マジ。っていうか、お前の彼女も可愛いだろうが」
「いや、アキちゃんは可愛いけど。そうじゃなくて、美人じゃん。お前の姉ちゃん?」
「アキちゃんも美人だろ?」
「お前なんでそんなにアキちゃんアキちゃん言ってんだよ」
「いや、なんでもクソも」
俺はちらりと、国彦の斜め後ろを見た。
そこに、いつから居たのか、国彦の彼女のアキちゃんこと、秋山亜季が恐ろしい笑みを浮かべて立っていた。
「ん? どうした?」と国彦が俺の視線を追うように、振り向いた。
「クニちゃん。約束の時間、過ぎてるよ?」
アキちゃんの声は、鈴を転がすような愛らしい声色であったが、同時に背筋がぞっとするほど冷たく響いた。
俺はさりげなく、二人の方から距離をとって、教室の中に逃げた。
「ずいぶん話し込んでたね」と夏井がにっこりとほほえんだ。「ところで、あれなに?」
「犬も食わない例のあれだ」
「たまねぎ?」夏井は首を傾げる。「意味わかんない」
「なんでそこでそう言う風になるのか俺も判らん」
「あ、見て。国彦くん、泣いてる」
「うわあ。泣かされてる」
「正座して、何か謝ってるね」
「あの子あんなに怖かったんだな」
「何やらかしたの?」
「いや、あいつなんか待ち合わせの時間すっぽかしてたらしい」
「それだけで?」
「あと、アキちゃんがすぐそばに居るのに気づかずに、怜と付き合ってるのが羨ましいだのなんだの言ってた」
「有罪だね」
「有罪か」
「終身刑か死刑かも」
「それ酷くない?」
「宗平のその反応、懲役十五年」得意げな顔で夏井はそう言った。「この浮気者」
「浮気なのか?」
「浮気だよ。十分浮気。だって、目の前で別の子がいい、だなんて。死刑だよ死刑。電気椅子、スポンジは乾燥したまんまで」
「スティーブン・キング?」
「スティーブン? 誰それ」
俺はため息を吐いた。
「あ。そうだ。勉強の話だけど? 宗平の家に、おじゃましていいかな?」
突然彼女はそんなことを言って、上目遣いに俺を見た。
「いい訳ないだろ」俺は答えた。
「じゃあうち来る?」と彼女は目を輝かせて言った。最初から断られるのは折り込み済みで、自分の家に招くのが目的だったのだろう。実に判りやすい。
「そういう問題じゃない」
「むぅ。でも宗平と一緒に勉強しないとやる気出ないんだもん」
「普段通り図書室で良いだろ」
「ダメ。なんかそんな気分じゃない」そう言って夏井は俺の学ランの裾をいじらしく摘んで「私が北高行けなくなってもいいの?」長い睫を伏せて悲しそうに俯き加減になった彼女のその魔性に一瞬魅入られて、思わず「じゃあ行こうか」などと答えてしまいそうになった。
とはいえ、この調子だと今日は本当に俺抜きで勉強するつもりがなさそうなのも間違いない。一日くらい休んでも良いだろ、と普段から成績がいい奴なら言ってもいいのだろうけれど、生憎夏井はそうではない。一日の油断が万事の落とし穴となるかもしれない。
「じゃあ間をとって、ファミレス行こう」
「どことどこの間?」と夏井は小首を傾げた。
「距離的に中間地点だろ」俺は適当に言った。まあ多分間違ってないはずだ。
「そっか。じゃあ宗平とファミレスでデートだね」声を弾ませて、夏井は俺の腕に自分の腕を絡めてきた。「じゃ、行こっか」
「勉強しに行くんだぞ?」
「それ、いかにも学生同士のカップルって感じじゃない?」
そう言われればそうだが、しかし密室で二人きりになることを思えば、月並みな中学生同士のデートのようなシチュエーションの方がマシとも言える。まあ、どちらにせよ怜にバレたとき、彼女が良い顔をしないのは一緒なのだが。正直勉強を見る、という目的さえなければ断ってしまいたい。
「相変わらず。あんまり乗り気じゃないって顔だね」
隣を歩きながら夏井は苦笑を浮かべてそう言った。
「判ってるじゃないか」
「まあね。宗平のことはずっと見てたから」
こうして隣でね。と彼女は懐かしそうな目で言った。
「三年間。ずっと隣の席で、宗平の横顔を見てたけど。それももうすぐ終わりなんだね」
「受験の結果なんて関係無く、卒業はやってくるからな」
「もう。こう言うときくらい、そういう嫌味ったらしいこと言わないでよ」
「すまんな」俺はため息をついた。しかし彼女のちょっと残念そうな眼差しに気がついて、それでなんとなく申し訳ないような気持ちになってきたので、「まあ悪くはなかったけどな」と余計なフォローをしてしまった。
「そう?」と彼女は目を輝かせる。
「少なくとも退屈はしなかった、かな」
下足場で靴を履き替え、グラウンドの脇を通っていく。
「こないだは相合い傘したんだよね」思い出して恥ずかしくなったのか、あるいは寒くてそうなっているだけなのか、頬を赤くしながら彼女はそう言ってはにかんだ。
そう言われて俺が最初に思い出したのは、あの日の怜との間にあった出来事だった。
ずきん、と胸が痛んだ。
あの日の、恍惚と絶望の狭間に溺れたような怜の姿に、己のうちにある醜い欲望に、俺は強く打ちのめされた。俺はあの時、怜を完全に支配したいと強く渇望していた。彼女のすべてを否定して自分で塗りつぶしてしまいたい。そうすれば、心の中にある飢餓感をしのぐことが出来ると信じて疑わなかった。だが、我に返ってすぐに、自分がしでかしたことを後悔した。逃げるように風呂場へ去った彼女の後ろ姿を呆然と見送ったあの夜の事は、いまとなっては胸に打ち込まれた杭のように痛みをもたらす苦い過ちとなってしまっていた。
それに加えて先日の喧嘩だ。結局、なんだか有耶無耶になってしまったが、根本的なことは何一つ解決などしていないのだ。逃げ回りながら、見返りだけは一丁前に求めている。なんて馬鹿げているんだろう。自己嫌悪で潰されそうだ。
「宗平! ねえってば!」
耳元で叫ぶ声に、ふと現実に引き戻された。
「ああ、すまん。なんだっけ?」
俺は曖昧に笑ってみせた。
「なんだっけ、じゃないってば」
夏井は呆れ顔で溜息を吐いた。
「方向逆なんですけど」
「ごめん。ちょっと考え事してて」
「見れば判る」むっとした様に唇をつきだして彼女は言った。「私とのデートなんだから、私の事だけ見ててよ」
「いつからデートになったんだ?」
「最初っからだよ」そう言って夏井は俺の右腕を遠慮がちに抱き込んだ。「そんなんだから、宗平は、私や奈々子に振り回されるんだよ? 線引きなんてね。どうにでもなるんだから」
「なんだよそれ」
「女の子はずるいんだよ? だからね。宗平が弱ってるって判ってるから、こうして誘ったの」
「別に俺は」
「いまの、この時くらい、あの女のことは忘れて、私だけを見てくれていいんだからね」
そう言って彼女は微笑み、ぐいと腕を引っ張った。
5
店内に客はまばらだった。夕飯時にはまだ早い中途半端な時間だからだろう。ちらほらと、勉強をしに来た受験生らしき姿が見える。似た様なことを考えている輩も居るらしく、男女で仲睦まじく問題集をのぞき込んでいる席もあった。
「なに? 宗平もそういうことやりたいの?」
嬉しそうな声で、にやけながら夏井が顔をのぞき込んでいた。
俺は頬杖を付いたまま、ふん、と鼻で笑った。
「あ、ちょっと。その反応ひどすぎない?」
「いいから勉強しろ。ほら、そこ、スペル間違ってる」
「え? あ、ほんとだ」
店員に案内されて席に着いてから三十分ほどが経っていた。とりあえずドリンクバーだけで居座っていた。まあさすがにそれだけだと悪い気がするので、一段落が付いたらなにか甘いものでも食べようか、などと考えつつ微妙に退屈な時間を過ごしていた。
正直言うと、俺がみたところでいまさらどうこうなるようなレベルではなかったのだ。もちろん、良い意味でだ。よくもまあ短時間でここまで勉強したことを咀嚼して飲み込んだ物だと感心してしまう。おかげで、小さな凡ミスを指摘するくらいしかやることがない。
欠伸をかみ殺しながら鞄からノートと自分の問題集を取り出してページを開いた。これは怜が用意したもので、北高を目指すにしては少々どころではなくやたらとレベルの高い内容のものだった。
「基礎が判ってれば簡単だから」と彼女は笑いながら言っていたが、怒濤のように待ち受けている応用問題がとにかく難しい。こんなこと習っただろうか? と思わず首を捻りたくなるような性根のねじ曲がったような問題が多々あり、果たしてどこが簡単なのだろうか、と彼女の言葉にいちいち疑問をぶつけたくなる。まあ怜にとっては本当に簡単なのだろう。この辺りの頭の作りの違いに関しては、さすがにもう劣等感を抱くのもバカらしくなるくらいに見せられてきたので、いまさらどうこう感じるところもない。
やれやれと思いながら問題を解くだけである。あまり進捗が悪いと、怜の親切かつ熱烈な指導を受けることになってしまう。100パーセントの善意で行われる、知恵熱で倒れそうなほどのスパルタ教育ほど厄介なものはない。
「うわ、なにその問題」と夏井はこちらの手元をのぞき込んで露骨に顔をしかめた。「宗平そんなのやってるの?」
「まあな」
「お姉さん、相変わらずスパルタなんだね」
「めっちゃ大変」
「絶対有名な難関校目指す子がやるやつだよね」
うわー、無理無理と言って夏井はドリンクバーのカップに口をつけた。
「なんだったらお前も一回怜に見て貰うか?」
「冗談。私相手だと悪意が上乗せされるから余計に酷くなるじゃん」
「まあ確かに」
「でしょ? あーあ。演奏の腕とかはスゴいしその辺は尊敬してるんだけどなあ」
「へえ。意外だな」
「あの女を尊敬してるっていうのが?」
俺は頷いた。
「だって同じ楽器演奏してる人間としてはさ、やっぱり凄いんだよ。お姉さんって」
夏井はそう言ってシャーペンの先でノートを、とんとん、と叩いた。
「人としては全然尊敬してないし、大嫌いだけど」彼女は吐き捨てるように言った。「だいたい、何にも判ってなかったくせに、宗平のことは何でも判るんですよって顔してたのが、本当にムカツク。だってそうでしょ? 自分が漫画家になったこと隠してたのが原因で宗平が傷ついているのに、気づいてなかったんだよ? 最低じゃない。それで何知ったような顔してるわけ、って話じゃん?」
「いつ、気づいたんだ?」俺は訊ねた。
「すぐだよ。去年の秋。私が告白して振られるちょっと前くらいだったかな? 様子がおかしいから、北高に行った先輩とかから情報聞き出していったら、お姉さん、漫画家になったって聞いて。そこでピン、と来たの」
「それだけで?」
「だって、もし普通に宗平がそのことを聞かされてたら、多分私らに自慢してたでしょ? 漫画家になったんだって」
「まあそれは、してた、かも」
「それでその、宗平に怪我させちゃった日に探りを入れてみたって言うか。そしたらやっぱり合ってたから。それで、つい、かっとなったっていうか。本当に、あのときはごめんなさい」
「いきなりなんだよ」俺は言った。「それに、あのときのことはもう謝っただろ」
「けど、三学期始まってから、宗平ちょっと調子悪そうだし」
「寒いせいかもな」俺は適当に相づちを打った。
「頭痛がするのだって、もしかしたら」
「考えすぎだよ」そう言って彼女の言葉を遮った。「肩凝ってるだけだから」
彼女は何か言いたそうに俺の目を見ていたが、それ以上このことについては何も言わなかった。
「あーあ。集中力切れちゃった」
彼女はペンをノートの上に放り出すと、テーブルにぐったりと突っ伏した。
「疲れたぁ」
「なんか甘いもんでも食うか?」
「え? 宗平が奢ってくれるの?」
がばっと起きあがって目をきらきらと輝かせる。何が疲れているだ。現金な奴め。とか思いつつ、俺は内心、彼女のそういうちゃっかりしているところが嫌いではないので、「仕方ないな」なんて言葉を返してしまう。
「えっへへー」と彼女は嬉しそうにメニューの冊子を開いて、「あ、ね。これどう?」と紙面を指さす。
「カップル限定メニューじゃんか」
「いいじゃん。ねえ、宗平これ食べたい」
「高い。却下」
「えー。ってか、高くなかったら良かった訳?」
にやにやしながら俺の顔をのぞき込んでくる。
「怜のこと忘れろっていったのはお前だろ?」
「え?」と夏井は困惑したように言葉を詰まらせてから「まさかそこに乗ってくるとは」と呟いた。
「なんだよ」
「宗平さ。結構、その、お姉さんと拗れてる?」
「いまは関係ないだろ」
「うわ。その反応絶対そうだ。じゃあもしかして、私チャンスある?」
「そう言うのは内心思うだけにして、口に出すなよ」
「えー。宗平から聞きたいんだもん」
「何を」
「気持ちを」
「俺は怜が好きだからな。喧嘩とかしてても、そこは一緒だよ」
「うげ」と夏井は顔をしかめる。「真顔でそう言うこと言われるとそれ以上踏み込めないじゃん」
「立ち入り禁止区域だ。関係者以外入れない」
「ふーん。相川先生はどうなの?」
「急に何言い出すんだよ」
「元カノかどうか微妙なんでしょ?」
「前に話した通りだよ。そこから何も変わってない」
「そうなんだよね」と夏井は溜息を吐いた。「お姉さんだけじゃなくて、相川先生にも勝たなきゃ、宗平の一番にはなれないんだもんね」
「だからそう言うのはいちいち口に出すなよ」
「むぅ。だって、宗平が一番こういう愚痴言いやすいんだもん」
「さすがに相手は選べよ。ほら、井上とか」
「やーよ。奈々子ってこういう愚痴いうと、すっごい正論をずばずば返してくるんだもん。何回泣かされそうになったか」
「あー。確かに井上ってそう言うタイプだよな」
「そう。良くも悪くもあんまり女子っぽくない。そのくせ微妙に女子力高いんだよね」
「どっちだよ」
「女子力高い男子みたいな感じ」
「ほめてるのかけなしてるのか判らん表現だな」
「どっちもだし」と夏井はにしし、と笑う。「でもそう言うところも好きなんだけどね」
「さっさと仲直りしろ。ってか、さっさと決めろ」
「宗平はなに頼むの?」
「おしるこ」
「渋っ。なんで?」
「そう言う気分だからだよ。なんか文句あるか?」
「いや、ないけど。でも、おしるこって」くすくす笑いながら彼女は「じゃあ私もそれでいいや」
かくして二人でおしるこを食べることになったのである。
「ね、よく考えたら、これって夫婦善哉じゃない?」
俺は真ん中にぽつんと浮かんだ白玉を見つめながら「確かに」と呟いた。
「織田作之助だっけ」夏井が呟く。
「なんでそんなの知ってるんだよ」
「奈々子が読んでたから」
「あいつ結構渋い趣味してんな」
「で、映画、本当に行くの?」
不意に彼女が真面目な声で言った。
急な話題の切り替えに若干戸惑いつつ、「約束しちゃったからなあ」と彼女と目は合わさず、箸で白玉を突っつきながら答えた。
「宗平ってさ、なんか流されやすいよね」
「まあな」俺はため息を付いた。「自覚はあるんだよな。一応」
「ま、私的にはありがたいんだけどね。今日もこうして付き合ってもらえてる訳だし?」
「勉強するから来ただけだぞ」
「本当はあんまり家に帰りたくないんでしょ」
その言葉に、思わず顔を上げて、彼女の方を見た。
彼女は優しく微笑んでいた。
すぐに目をそらして、また白玉を突っついたが、手遅れであることは明白であった。
彼女はくすくすと声を殺して笑い、「そう言うこともあるよね」と嬉しそうに言った。
彼女のその態度が少々しゃくに障ったが、図星故に上手く言葉を返すことも出来ず、器を持ち上げて冷め始めたお汁粉を一口啜って誤魔化した。なんだか少ししょっぱいような感じがした。
「今日、お父さん夜勤だから、誰もいないんだよね」
そう言って彼女は俺の手を握った。
「バーカ。誰がそこまで付き合うか」
俺は彼女の手を振り払った。
「むぅ。ダメかあ」振り払われた手のひらをじっと見つめてから、「なんかさあ。宗平って、流されやすいのに、最後の一線だけは守るよね」と悔しそうに唇を尖らせていった。
「いまのは俺的には結構マイナスだぞ」
そう言って俺は餅にかぶりついた。
「え? うそだぁ」と彼女は肩を落として、それからまた手の平を見つめ、何度か握ったり開いたりを繰り返した後、「でさ、話戻すけど」と声のトーンを落として言った。
「奈々子、最近ちょっと普通じゃないんだよ」
「いきなりなんだよ」
「宗平はさ、なんか奈々子のことを結構安全な存在だと思ってるみたいだけど。全然そんなことないから。多分、私よりヤバイよ」
何を訳の分からんことを、と笑い飛ばす気にはならなかった。SNSのこともあるし、公康も井上には気をつけろと言っていたのだ。夏井一人がこう言っているだけなら、相手を牽制するための策略かなにかだろうと聞き流すことも出来ただろう。
「ヤバイって、何が」
俺は思わずそう訊ねていた。
夏井は「それは」と言葉を濁した。言うべきか、言わざるべきか、そう判じかねているような風に見えて、いよいよ嫌な予感が確信に変わりつつあった。
俺は、出来れば何も聞き出せなければいい、と思いつつ、お汁粉の中の小豆を一粒箸で摘んで、口の中に含んだ。
「奈々子って、なんていうか、匂いフェチ、なんだよね」
「はあ」どう反応していいのか判らない新情報である。「で、それの何がヤバイのさ」
「夏頃、だったかな。宗平がさ、体操服忘れた日があったじゃない」
「あー、一晩学校に置き忘れたのがあったな」
「うん。まあ、だからその、そう言うこと、なんだよね」
「そう言う事って」
「だからね。私、あの日教科書教室に忘れてて、部活終わった後に取りに戻ったら。その、奈々子が宗平の席で」
「判った。なんとなく判った。それ以上話さなくて良い」
「つまり、そう言うことなの」
「見間違いとかじゃ?」
それはない。と彼女はきっぱりと言った。
「顔を埋めたあと、すっごい幸せそうな顔してたし」
「でも、お前。あれ当日の時点で既に汗ですっごい臭ってたぞ」
「だからそれがいいんでしょ。奈々子的には」
俺は少し残ったお汁粉に目を落とした。
「奈々子ってさ。すっごいむっつりなの。妄想大好きだし。前にちょっとだけ見たことがあったんだけど。なんか妄想をノートに書きためてるっぽくて」
「ストップ。判った。そこまでにしておこう」
流石にそこまでぶっちゃけられると井上が気の毒になってきたので、俺は右の掌をぐっとつきだして、夏井を制止した。
「えっと。そうだね」
夏井はちょっとやらかした、とでも言いたげな風に目をそらして苦笑した。
「いまのは別に。奈々子の評判を落として、って感じの戦略とかじゃないから」
言い訳のように彼女はそう言った。まあ嘘ではないのだろう。多分、彼女は前からずっとこのことを誰かに愚痴りたかったに相違ない。流石に、なんというか、自分の胸の中に秘めておくには少々重たい秘密である。親友であれば尚更だ。
「まああいつがちょっと変わってるってのは判ったんだけどさ。でもそれって別に最近どうこうって話じゃないよな。体操服の話も、夏頃なら結構前じゃんか」
「そうなんだよね」
さっきのは前振りだと言わんばかりに、彼女は声を潜めて呟いた。
ああ、これはもっとトンでもない爆弾が出てくるな。そう直感して俺は身構えながら彼女の言葉を待った。
「偶然だよ。偶然。奈々子のスマホを見たらさ。どこから撮ったのか判らない宗平の写真が一杯入っててね。なんていうか、すごく怖かった」
それは確かにすごく怖い。
俺はごくりとツバを飲み込んで、それから一つ二つと咳払いをした。
「マジで?」
「うん。しかもそれ見つめてうっとりした顔してて。怖かった」
「怖いな」
「奈々子のこと、どうにかならないかな。多分、私のせいなんだと思うんだ。変になっちゃったの」
「何か心当たりが?」
「心当たりっていうか。私、最初から奈々子が宗平のこと好きなの知ってて。それなのに、応援してくれるよね、ってずっと、遠回しに手を出すなって言い続けてたんだ」
「そりゃまた性悪なことで」
「う。まあ否定しないけどさ」と夏井は渋い顔になって、「けど、奈々子も奈々子だよ。なんで無理して我慢してたのよ。そりゃ、手を出すなって無言の圧力はかけてたけど。でも、奈々子が宗平のことを自分も好きっていうなら、その時は正々堂々戦おうって気持ちはずっとあったのに」
「そりゃお前。親友の恋路は邪魔しちゃダメだって思ってたんだろ。なんとなくだけど。井上は井上でお前のことが大事で、だからお前のためになることをしたかったんじゃないか?」
「それ。そこだよそれ。私が気に入らないのは。なんでそんなちょっと遠慮したみたいな風で、ちょっと上から目線な訳? 何よ私の為って。何様のつもりだっつーの」
「どうどう。落ち着け落ち着け」
声がでかいぞ、と窘めると、彼女はほえるのを制止された犬のように「でも」と言った直後に口をつぐんで、それから残っていたおしるこを一気にかき込んだ。
「とにかく。私は、奈々子と対等な友達で居たいし。恋敵として戦うなら変な言い訳なんてしないで正々堂々と真っ正面からぶつかり合いたい訳」
「迷惑な話だ」俺は言った。
「自業自得だもん」夏井はそう言って恨めしそうに俺を見た。「この女たらし」
つづく




