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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
24/55

The Tragedy Act1 "uneasy..."





 吹きすさぶ寒風など気にもせず、彼女は鉛筆をケント紙に走らせる。風にあおられて邪魔だからと後ろで括った髪が、吹き流しのように強風のなかを泳いでいる。

 ケント紙は木製パネルに工作用タッカーで張り付けてあるから大丈夫そうだが、風が吹く度にイーゼルが揺れていまにも倒れそうだ。それでも彼女は鉄の意志で椅子から動かず描き続ける。

 漫画を描いていて行き詰まったので、気晴らしがしたいと言い出したのは今朝の事だった。何をするのかと訊ねると彼女はうきうきとした表情で風景のデッサンをしたいと答えた。

「絵の息抜きに絵を描く?」俺は訊ねた。正直絵が苦手な人間からすると正気の沙汰ではない。

「気晴らしにバッティングセンターに行く様なものよ」そう言って彼女はバットを振るようなゼスチャをして、足がもつれてこけそうになった。

 俺はあわてて彼女を支えてやりながら、そういうものなのかな、と何となく理解したような気がしつつ、でもやっぱりちょっと判らない。怜のことは大体判るつもりだが、その手にペンや筆を持って居る時だけは別だ。

 昔からそうだった。普段は運動もしないし外出もしたがらないくせに、スケッチしたい題材の為ならば登山すら辞さないのだ。意味が判らない。普段の運動不足がたたってへろへろになりながら目的地にたどり着き、しかしひとたびペンを持つと人が変わったようにシャキっとして一心不乱に描き始める。そうなるともう多少のことでは戻って来ない。雨が降っても風が吹いても、蛭に足首から血を吸われてもお構いなしなのだ。俺が呼びかけたとしても、一度では駄目だ。かといって肩を揺すったりすると、手元が狂ったらどうすると烈火の如く怒り出すので面倒だ。耳元で根気よく、気がつくまで呼びかけるのが正解なのだ。

 今日は堤防から見える風景を書きたいと彼女は言った。

 その気になればどこへでも行く彼女のことである。突拍子もない遠方を口にするのではないかと内心ヒヤヒヤしていたので、近場を選んでくれたことにほっと胸をなで下ろした。ちょうど窓の外を見ると青空が見えていて、風も凪いでいたので、待っている間にぼーっとしているのも悪くない。その時はそう思ったのである。だが堤防の遊歩道で良い場所を探しているうちにだんだん日が陰り、イーゼルに画用紙をセットした頃には風が吹き始め、そして現在、突風が吹き荒れる荒天となっていた。

 正直寒いしいつ雨か雪が降るかも判らないので帰りたいのだが、怜が描くのに夢中になっているのでそれもできない。

 先ほどからずっと、ジャケットの襟を寄せながら寒さに震えていた。時々画用紙をのぞき込んで進捗を確認して、それから河川敷へ降りていく階段に腰掛け、ぼんやりと川面を見つめる。しばらくしてからまた様子を見に行く。そう言った詮のないルーティーンを繰り返しながら寒さを誤魔化していた。が正直誤魔化しきれるものではない。頼みの綱のポケット懐炉も気休め程度にしかならなかった。

 風に吹かれた川の表層が本来の流れに逆らうように流れていく。冬場の水が少ない時期ということも相まって、堰を流れ落ちる水の量は少なく、そのわずかな水量も風に煽られ、霧散していく。

 俺は風に押し戻された水について考えていた。果たしてどこまで押し戻されていくのだろうか。表層で押し戻された水は、いずれどこかで底に向かって沈み込む時が来るのだろうか。それとも、上流の堰があるところまで遡るのだろうか。川面を上流に向かって滑っていく落ち葉に思いを馳せる。

 それからふと、視線を切って、遊歩道の方を見上げる。

 よくこんな寒さで絵が描けるものだ。一心不乱に鉛筆を走らせる彼女の姿に感心する。

 それにしても、いつになったら描き上がるのか。

 先ほど覗いたときにはもうすっかり、目の前の光景を切り取ってそのまま画用紙に張り付けたような緻密な風景画が完成しているように見えたが、しかし彼女は未だ手を止めない。

 気晴らしというのだから、気が済むまで描かせてやるのが道理ではある。けれど、流石に寒いし、彼女の体調も心配だ。体を冷やしすぎて調子を崩してしまっては大変だ。先日風邪で倒れたばかりなのだから尚更だ。

 どうしたものか。

 考え込んでいると、犬の鳴き声が聞こえてきた。甲高い小型犬の物だ。それに続いて「ベス! 待って!」と悲鳴のような叫び声が聞こえた。女の子の声だ。

 こんな天気でも犬の散歩をしている人もいるのだな、と別段気にもとめず怜を眺めていると、不意に何か気配を感じた。

 振り向いた瞬間、茶色い物体が突っ込んできた。

「うわっ」

 突然の事に体を屈めてしまった。なんだなんだと思っていると、耳元でやたらと荒い呼吸音が聞こえてきて、耳を生暖かい感触が襲った。なんだか判らないが犬に舐められているらしい。

「あ! すみません!」

 先ほどの声がそう言って、それから足音が近づいて来た。

「こら、ベス!」

 耳元から犬の気配が遠ざかる。

 やれやれと思いながら体を起こし、袖で耳を拭ってから、とんだ災難だと思いながら飼い主の方を見た。

 犬はミニチュアダックスフントであった。飼い主の腕に抱かれて、まったく懲りた風もなく、ご機嫌そうに舌を出してハッハッと息をしている。

 それにしても。

 俺は犬そのものよりも飼い主の方に興味を抱いていた。

 やたらと背がデカイのだ。おかげで座ったままだとちょうど犬が邪魔になって顔が見えない。

「すみませんでした」そう言って飼い主は頭を下げた。

 あまりにも深々と頭を下げられるものだから、座ったままでは何となく居心地が悪いような感じがして思わず立ち上がってしまった。

「いえ、別に大したことはなかったですから」

 ですから頭を上げてください。

 そう言ってからふと、目の前の飼い主の少女に見覚えがあるような気がした。

 ありがとうございます。と少女が顔をあげた。

 そこで顔を見合わせ、二人とも「あ」と言って固まった。

「三島?」

「井上?」

 てんやわんやしていて、いまのいままで気がつかなかったが、犬の飼い主は井上奈々子だった。なるほど。見覚えがあるのも道理だ。

「ご、ごめんなさい。三島。その、怪我、してない?」

 井上は、相手が俺と判るや否や、先ほどよりもさらに恐縮しつつ焦り出した。

「大丈夫だから、ちょっと落ち着こうか」

「あ、うん。その、ごめん」

「いや、いいよ」俺は言った。「井上ん家って犬飼ってるんだな」

「うん」胸に抱かれたダックスは相変わらずアホっぽい顔で舌を出している。「ちょっとやんちゃで大変だけど、可愛い」

「女の子?」

「そう、だけど」

 どうして判った? という顔をして井上は俺の顔を覗き込んで来た。

「さっきベスって言ってただろ? 井上のことだし。若草物語からとったのかなって」

「うん。正解」こころなしか彼女は嬉しそうに、「この子は四姉妹のうちの一匹だったの」

 ベスってよりもジョーとメグを足して割ったような子になっちゃったけど、と井上はくすくすと笑った。

「三島は、こんなところで何を?」

「待ってるんだ」

 俺は怜の方を目で指した。

 井上は察したらしく「へえ」と呟いてそれからベスの耳の後ろをわしゃわしゃと撫でた。

「すごい本格的」

「まあ趣味だけどな」

「香奈から聞いた。お姉さん漫画家だって」

「そうらしいな」

「らしい?」井上は不思議そうに首を傾げた。

「結構最近まで黙っててさ。その上何描いてるのかも見せてくれないから」

「だから、らしい」

「そういうこと」

 ふうんと言って、何か含みのある目で怜の方を見た井上は、急に合点が行ったように「なるほど」と呟いた。

「なるほど?」俺は聞き返した。

「香奈が言ってたこと」

「なんだそれ」

「秘密」そう言って彼女はぴん、と立てた人差し指を唇の前に持って行き、「内緒」と重ねた。

「おまえらさあ。喧嘩してる割には仲良いよな」

「元々香奈と私は仲良し」

「それは知ってるけど」

「私は香奈を許した訳じゃない」

「そもそもおまえは何にそんなに怒ってるんだよ」

「香奈は、三島を傷つけた」

「傷つけた?」

 井上は頷いて、物理的に、と付け加えた。

「ああ、やっぱりあれが原因だったのか」

「けど、それだけじゃない」

「そうなのか?」

「お見舞いに行った後、香奈に言ったの。三島にはもう恋人がいるのだから、諦めようって」

「それで?」

「そこで反論されて、そこからはもう、売り言葉に買い言葉。それで最終的にどっちが三島を惚れさせるかっていう話になってしまった、という流れ」

「どういう流れだよ」俺はため息をついた。

「私は香奈を止めたいの。こんなの絶対良くないから」

「もうすでに良くないけどなあ」

「判ってる。だから、三島が私の事を選んでくれればそれで丸く収まる。私は、諦めるつもりでいるから」

 そう言って彼女は距離を詰めてきた。

 肩と腕が触れ合っている。

 ベスが俺の手を舐めた。お返しにアゴの舌を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めた。そして手を止めると不満げに俺を見た。

「手懐けてる」感心したように井上は言った。「誰にでも懐く子なのに」

「別にスゴくもなんともないじゃんか」

「犬、大丈夫なんだ」

「従姉妹ん家でも飼ってるからなあ」

「香奈が会ったっていう?」

「そう。うちの本家」

「美人だったって聞いた」

「美人だよ。奈雪姉さんも、月子姉さんも」

「もう一人は?」

「花音は可愛い」

「私、は?」ぽっと頬を朱に染めながら、彼女はらしくない冗談を言った。

「綺麗」俺はあえてそれに乗ってみることにした。特に深い意味はない。強いて言うなら暇だっただけだ。

 井上は顔を真っ赤にしながらも、どこか落胆したようにうつむいて、「やっぱりそう、だよね」とため息をついた。

 どうやら彼女が期待した答えで応えることはできなかったらしい。なんとなく正解を引き当てられなかったことがひっかかってしまった。なので、落ち込む彼女の様子をしばし観察してから、ふと思いついた感想を口にしてみた。

「可愛い」

 びく、と彼女の肩がふるえて、膝の上のベスが不思議そうに飼い主の顔を見上げて後ろ足で起用に立つと、ぺろっとその鼻先を舐めた。

「お世辞」と井上が自虐めいたことを口走ってベスの頭を撫でた。

「いや、いまの井上は可愛いぞ」

「そう言うこと、言うから勘違いする」

「自分から振ってきたんだろ」

「乗らなければいい話」

「そりゃそうだけど」

 どうしろっていうんだ。ベスの方を見ると何にも判ってなさそうなまん丸な目に好奇心をいっぱいに浮かべて俺の方を見ていた。手を差し出すとものすごい勢いで舐められた。こいつやたらと舐めるのが好きだな。

 ベスの涎まみれになった手をズボンで拭きつつ、「どうすりゃいいんだろうな」と俺は呟いた。

「三島はそう言う勘違いさせる言動を慎むべき。江島や栗原ほどじゃないにしても、見た目はいいんだから。勘違いする」

「あんまり褒められてる気がしないのは気のせいかな」

「褒めてないけど、褒めてる。私の好み的には、多分三島が一番だから」

「多分って」

「私が好きになった頃の三島と、いまの三島は何か雰囲気が違う」

「さらっとそう言うこと言うのな」

「言っておくけど、すごく恥ずかしい。ベスがいなかったら膝に顔を埋めてるところ」

「じゃあ言わなくてもいいのに」

「でも言う。私なりのアピール。香奈と勝負している以上は、きっちりと勝つつもりだから」

「つまり俺に浮気をしろと」

「見ようによっては」

「そこは否定しろよ」

「事実は、事実」

「で、話戻すけど、雰囲気が違うってどういうことよ」

「うん。なんていうか、当時の三島にはなんだかちょっと大人びた陰りがあったの」

 井上はじっと俺の顔を見つめた。

「いまはちょっと違う陰りがある」

「陰ったままには違いはないんだな」

「私の印象だから。気に障ったら、ごめん」

「別に、大丈夫だよ。ただ、まあ、色々自分でも思うところはあるからさ」

「そう」

 会話がとぎれる。沈黙の合間に風音が吹き流れ、白い雪片が舞い始めた。

「降ってきた」と井上は言った。

「だな」

「あの、」

 井上は躊躇うように俯いてから、意を決したようにコートのポケットに手を突っ込んで何か取り出した。

「これ」

 差し出されたのは紙製のチケットケースだった。

「えっと、お父さんが、知り合いから貰ったって」

 なかを見ると、最近話題になっている恋愛映画のチケットだった。

「私も、同じの、持ってる」

 ごそごそとポケットを漁って、取り出したそれを震える手で胸の前に持って「ほら、同じ」と緊張した顔で俺を見た。

 参ったな。

 まさか井上からこんな誘いを受けるとは考えていなかったので、全く何の備えもしていなかった。

 それにそもそも、この映画、原作になった少女漫画を描いている作者と怜が知り合いらしく、そのよしみで公開初日の舞台挨拶のチケットを貰って、わざわざ遠出して二人して見に行った作品だったのだ。

 井上は、いまにも泣き出しそうな顔で俺を見つめていた。

 ごめん。流石にこれはもらえない。

 そう言って突き返せばいいのだ。

 そうすればいいのに。

 

「あ、ああ。ありがとう」


 などと応えてしまった。

 情に絆されたというべきか。あるいはまんまと籠絡されたとでもいうべきか。

 いやいや、籠絡はないな。俺が悪いのだ。

「え、本当?」

 目を大きく見開いて、井上はチケットを胸に抱きしめて、「うれしい」と泣き笑いを浮かべた。華やいだ彼女のその姿に一瞬見とれてから、しまったと後悔したがもう遅い。

 すっかりのけ者にされたベスが面白くなさそうにあくびをした。その頭をなでてやりながら、「けど、いつ見に行くんだ? 俺たち受験生だぞ」

 井上は目元を拭ってから、「次の土曜日は、どう?」

「まあいいけど。土日あけたらすぐ入試だぞ」

「いいの」と井上はどこか憂いのある笑みを浮かべて、「だって、その次の休日は、お姉さんとすごさなくちゃ駄目だから」

「ああ、バレンタインか」

 井上は頷いた。

「そこは、私のでる幕じゃないから」

 それに、息抜きも大事。と彼女は熱っぽく付け加えた。

「抜きすぎて本番腑抜けないようにしないとだけどな」と俺は笑った。

 彼女と映画を見に行くこと自体はまんざらでもなかったりする。正直なところ、最近のちょっとぎくしゃくした空気の重苦しさから逃れられるのであれば、それでいいのでは、とすら考えていた。逃げていたって何も変わらないのに。

「それじゃ、その、帰る」

 井上はベスを抱いて立ち上がった。

「そういやさ」俺は言った。「もしここで俺と出くわさなかったらどうするつもりだったんだ?」

「三島のSNSに、ここの画像があったから」

 だから慌ててベスと一緒に走ってきた。

 照れながら彼女はベスの頭を撫でた。とんでもないことに付き合わされてしまった愛犬ベスは、しかし特に何とも思っていないどころか走り回れて大変うれしいらしい。早く地面に降ろして走らせろとばかりに井上の腕のなかで暴れていた。

「じゃ、また、学校で」

「ああ。気をつけてな」

 ベスを抱いて遊歩道の方へ上がっていく後ろ姿を見送りながら、ふと、ある疑問が脳裏をよぎった。なんで井上は俺のSNSのページを知っていたのだろう。学校での付き合い様のアカウントなら確かに教えたが、俺が画像を貼ったアカウントはそれとは別の物だったはずなのだが。スマホを取り出して一応チェックする。間違えていた訳ではない。こっちでは、さくらさんや本家の三姉妹くらいしか繋がりはないはずなのだが。

 まあいいか。なにかがきっかけで検索に引っかかったのかもしれないし。

 でも、確か偶然出くわしたようなリアクションしてなかったか? 

「まあいいか」

 本当はただの偶然だったのを、テンパってなんとなくそれっぽい理由をつけてしまっただけなのかもしれないし。

 立ち上がり、怜の居る方向を振り仰いだ。

 画用紙の前で腕組みをして、なにやら一人でうんうんと頷いている。どうやら描けたらしい。

 階段を一段とばしで上る。

 怜のそばに行くと、彼女はこちらを振り向いて「どう?」と満足げに絵を見せてくれた。

 これでもかと言うくらいに細かく書き込まれた風景画に、俺は感嘆の息を漏らし「すごいな」とありきたりな感想を口にした。

 井上の言葉が脳裏をよぎる。

 陰りがあるとするなら、その原因は劣等感だ。俺には怜のような才能はない。何者でもない凡人だ。本当に俺みたいなのが、という不安が相変わらず、いつもついて回っていた。

「えへへ、ちょっと気合い入れて描きすぎたかも」怜は照れながらそう言った。

 しかし「ん?」と自分の描いた絵を見て彼女は眉を顰め、懐から取り出したメガネを掛けて改めて凝視してから、「そうちゃん。ここ」とちょうど俺と井上が話していた河川敷へ降りる階段を指して言った。そこには二人分の後ろ姿と、ちょっとだけはみ出た犬のしっぽが描かれていた。

「誰か居たの?」

「井上が。犬の散歩してたらしくてさ。暇つぶしに付き合ってもらってた」

「暇つぶし」

 彼女は口をへの時に曲げた。

「私的にはデートだったんですけど」

「今日は流石に寒かった」

「それ、何か関係ある? あ、そっか。この子と肩寄せ合って暖まってたんだ。へー、そっかそっか」

「なあ、怜。とりあえずそう言うのは家帰ってからにしないか?」

「なんで?」

「頭、雪つもってるぞ」

「そうちゃんこそ」

「そういう訳だ」

「うん。そだね」

 二人ですぐに帰り支度を始めた。怜が絵と画材を片づけている間に、俺は椅子とイーゼルを折り畳み、持ち運び用のバッグに収納してからまとめて肩に担いだ。ふと、右肩でいけないものかと冒険心が湧いて、挑戦してみたが痛くて無理だった。事故から一年ほど経って、直後と比べれば大分融通は利くようになってきたが、それでもまだまだらしい。落胆しつつ左肩で担いで、怜の方を振り返った。

「そうちゃん」と彼女は心配そうに眉根を寄せて、「肩、平気?」

 どうやらさっきの失敗を見られていたらしい。

「問題ないよ」俺は言った。「この通り」

「そっち、左」

「いいから。ほら、さっさと帰るぞ。風邪引いたら大変だ」

「うん」

 彼女は何か言いたそうだったが、流石に横殴りで吹き付ける雪に参ったのか、素直に後に付いてきた。

 家に着いた時にはもう、全身雪まみれで、吐息や体温で溶けた雪が服にしみこんで、すっかり体は冷えていた。

 怜の顔を見ると、唇が冗談みたいに紫色になっていた。

「怜、大丈夫か?」

 彼女は震えながら首を横に振った。

 すぐにリビングへ向かい、それからエアコンとファンヒーターの電源を入れた。

 温かいココアを入れて戻ってくると、彼女はファンヒーターの前でネコのように丸くなり温風を浴びていた。

「ココア飲む?」

「うん」と彼女は丸まったまま「口移しで」

「やけどするわ」

 ここ置いとくぞ、とソファの前のテーブルに彼女の分のマグカップを置いた。そこでふと、体が濡れたままだったことに気がついて、風呂場にタオルを取りに行った。戻ってくると、彼女はソファに座ってココアを飲んでいた。

「ほら、」と俺は彼女の頭にタオルをかぶせた。

「拭いてよ」と甘えた声で彼女は言った。「ココア飲んでて手が放せないの」

「はいはい」俺はタオルをわしゃわしゃと動かして彼女の髪を拭いてやった。

「私の髪を触っていいのは、そうちゃんだけなんだよ?」うれしそうに彼女は言った。「だからこれはすごいことなの」

「へえ、そりゃすごい」

「うん。すごい。そうちゃんはすごい」

「そりゃどうも」

「ところで、井上さんと、何話してたの?」

「本当に続きやるんだな」

「当たり前」

 いまの怜は頗る機嫌がいい。だがここで「ただの世間話だよ」と言ったところで信じてくれるほど甘くはない。その場しのぎで誤魔化したところで、早晩貰ったチケットが見つかってしまって詰問されるに決まっている。部屋のどこに何を隠そうが必ず見つかるからだ。

「最初は世間話だったんだけどなあ」と俺はチケットを怜に見せた。

「あ、これ、進藤さんの映画じゃない」

 進藤さんというのが、怜の知り合いの漫画家だ。デビュー前から親交があって、いろいろ世話になってるらしい。

「なるほど。これを見に行こう、と」

「まあ、そう言うこと」

「突き返さずに貰っちゃった訳」

「すみません」

 怜は大きなため息をついた。

「また安請け合いしちゃったね」

「はい」

「二回目だね」

「すみません」

「そうちゃん」

「はい」

「バカ」

「おっしゃる通りです」

「自分がどういう状況に置かれてるか判ってる?」

「まあ、その」

「で、いつなの?」

「来週の土曜日」

「バレンタインじゃないだけ、殊勝ね」

 無駄に弁えてるところがムカツクと毒づいて、怜はマグカップに口を付けた。

 苛立ちを隠そうともせず、乱暴にマグカップの底でテーブルを叩いた。

 俺は申し訳ないような情けないような、気まずい沈黙のなかで、非常に居心地の悪い想いをしながらも、怜の髪を拭いて、それからドライヤーで乾かしながら丁寧に櫛で梳いてやった。

 彼女は指先で髪をさらさらと弄んでから「よし」と幾分機嫌の直った声でつぶやいた。それからこちらを見て、「あのね。そうちゃん」と泣き笑いのような表情を浮かべた。

「私のお世話が出来る人は、世界中でただ一人、そうちゃんだけなの。私は、そうちゃんに生かされている。そうちゃんが居なくなったら、私は生きていけない。それだけは、絶対に、忘れないで」

 縋り付く様に、彼女は言う。

 その言葉の持つ意味の、その重さが、いまは少し息苦しく感じられていた。

 それほどの愛を、果たして受け入れられるほど、俺は彼女に相応しい人間なのだろうか。

 一度芽生えた疑問の、その懊悩の獄に囚われて久しく、彼女の言葉に嘘偽りがないことを知っていてなお、信じきれないほどの不信感がどこかにあった。

 そんなこちらの心中を察したのか、彼女は「ごめんなさい」と言ってからすっと立ち上がり、廊下へでる扉の方へと向かった。ドアノブに手を掛けた彼女は、そこで一度立ち止まり、こちらを振り向いて「ありがと。ココア、美味しかったよ」と言い、リビングから出て行った。

 俺は言いしれぬ後悔と不安に襲われながら、テーブルの上に置かれた映画のチケットを見つめていた。





           つづく

お久しぶりです。

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