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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第三章
23/55

Agonies Prison


       1


 怜が熱を出した。

 高校が自由登校になってからというもの昼夜も問わず漫画を書き続けていたせいだろう。彼女は夢中になると、もうそれ以外のことを忘れてしまう。自分の体調すらも。ただし、空腹感だけはしっかり覚えるようで、食事の時間には必ず顔を出す。出さなくとも、呼べばすぐに応える。

 そんな生活が祟ったのだ。今朝、朝食を作ろうと台所に行くと、怜が倒れていた。冷たい床に倒れ伏した彼女の姿を見たとき、サァっと血の気が引いたのは言うまでもない。すぐに救急車を呼んだ。過労で風邪をちょっと拗らせてしまっていたらしく、半日だけ入院して点滴をうってもらった。それでひとまず熱がある程度下がったので、風邪薬と解熱剤の頓服を処方してもらい家路につくことが出来た。

 以前、といっても彼女がまだ小学生だった頃に、一度風邪を拗らせ、肺炎になり、それも拗らせかなり危険な状態になったことがあった。あの時は、風邪をひいて寝てなくちゃいけないのに大丈夫だと行って俺や公彦に着いてきて無理して一緒に遊んで、それで拗らせた。彼女は普段はすぐヘタれるクセに、こう言うときだけ妙にがんばろうとするのだ。

 今日だってそうだった。病院から帰ってくるなり、原稿の続きをやると言い出した。もちろん止めた。だがどうしてもいま描いている分は今日中にやってしまいたいらしく、彼女は頑なに作業に戻ろうとした。それで口論になった。思えば、病人相手に大人げないと反省するばかりだが、そのときはとにかく必死だったのだ。人工呼吸器を取り付けられて苦しそうに息をする幼き日の彼女の姿が脳裏に蘇って消えてくれなかったから意地になってしまったのだ。

 不承不承彼女は休んでくれたが、あれから一度も口を利いていなかった。

 朝、とりあえず眠っていることを確認してから家を出たが、俺が学校に行ったことを幸いにまた原稿をやっているんじゃないかと思うと、正直、気が気でない。

「お姉さん、倒れたんだって?」まだ話しては居なかったが、公康が心配そうに眉をひそめた。近所に住んでいるので、昨日うちに救急車が来たことを知っていたのだろう。

 俺はうなずいた。「幸い、点滴だけですんだけど、本当、勘弁して欲しい。朝起きたら台所で倒れてたんだ。もう、心臓止まるかと思った」

「心配だね。ほら、昔肺炎拗らせたことがあったでしょ」

「そうなんだよなあ」俺はため息をつく。「あいつ、妙なところで頑張りたがるから怖いんだよな」

「漫画家ってやっぱり締め切りとかが大変なんだね」

「いや、そうでもないんだ。怜の場合は」

「そうなの?」

「今月の分はとっくの昔にできあがってて、いまやってるのは急ぐ必要のない別の仕事の分だって言ってた。なんか毎回締め切りより大分早くに原稿完成させてるらしい」

 そう、だからこそ休めと言ったのだ。余裕があるのだからそんなに急ぐ必要はないだろうに。けれど彼女は、「いま書きたいから描かなきゃ駄目なの」と言ってなかなか首を縦に振ってくれなかったのだ。

「僕はあんまりそういう仕事についてはよく判らないんだけど、思いついたネタをすぐに形にしたくて仕方がなかったんじゃないかな」と公康は言った。「ほら、小さい頃から、スケッチを描き掛けにするのは嫌だからって雨が降ってきてもやめようとしなかったじゃない」

「ああ、確かに」

「そういうことだと思うな」

 こいつも相応に怜との付き合いが長いおかげで、時々俺が思い至らないような意見をくれることがある。

 だがしかし。

「そうなると余計に心配だ」

「多分宗平が居ないのをいいことに仕事してるんじゃないかな」公康は苦笑を浮かべてそう言った。「安静にしててほしいんだけどね」

 二人してため息をつく。

「なになに? どしたの? 二人とも浮かない顔して」

 気楽な足取りでやってきた夏井は、好奇心で目を輝かせながら、自分の席に腰を下ろした。

「お姉さんが倒れて寝込んだんだ」と公康が説明する。「だから心配だねって話をしてたんだ」

「へえ。大変だ」と思いの外彼女は深刻そうに顔の前で手を組んだ。「宗平に看病されるわけだ」

「そりゃするわ」俺は言った。「言っておくけど、結構深刻な話だからな」

「え、うん。それは、一応、わかってるわよ。ただ場を和ませたかったっていうか」

 きっと睨んで見せると、夏井は怯んだように顔を逸らし、すねた口調で言い訳を口にした。

「それで場が和むと思うなんてどんな考えしてんだか」

「宗平」と公康が窘めるように、「お姉さんのことで気が立ってるのは判るけど、そう言う言い方しちゃダメだよ」

「判ってる」俺は両手に顔を埋めて大きく深呼吸をした。

「もしかしなくても、相当参ってる?」と夏井が言った。公康に訊ねているのだろう。

「うん。だから香奈ちゃん。あんまり困らせちゃ駄目だよ」

「うーん。そっか」と夏井は気の抜けたように「調子狂うなあ」とやっぱり他人事のように呟いた。

 沈黙が訪れるのと同時に予鈴が鳴った。

「一限は、数学だっけか」俺は公康の方を見た。

 彼は頷いた。「小テストやるって言ってたよね」

「あー、やだなあ」と夏井が机に突っ伏した。「面倒くさい」

「受験生だろ」

「そっちもじゃん」

「推薦で受かるから余裕よ。な、公康?」

「余裕かどうかはともかく」と公康は困ったように笑って、「全力でやれば大丈夫だと思うよ。部活のこととか、アピール出来るポイントはあるし」

「いいなあ。推薦」と夏井は唇を突き出して、「二学期までの自分を殴りたい」

 彼女はそれまでの成績が壊滅的すぎたおかげで推薦をもらえなかったのだ。因みに井上も推薦を受けるので、俺たちの中で一般だけなのは彼女のみである。

「最悪、三月まで私一人が取り残されるってことだよね」

「その可能性は十分あるかもね」と公康が非情なことを言う。「井上さんは実質スポーツ推薦みたいなものだから、まず落とされないだろうし」

 井上も北高を受ける。北高の女子バスケ部は県と言わずここらの地方では有数の強豪で、遠方から人を集めるのではなく、近隣の地区で発掘した人材を育てることで、純地元な感じの戦力を作り上げている。中学でバスケを始め、いまや県外からも声がかかるような選手に成長した井上に白羽の矢がたたない訳もなく、向こうから受けてくれと頼まれ、夏井の志望校だからということで二つ返事でそれを受けたらしい。

「そう言えば井上、今日は来てないな」

 いつもなら、というより、最近は夏井とちょっとギクシャクしていることもあって、こうして話していると、夏井に対抗するように話しかけてくることが日常となっていたのだが。妙に平穏だと思ったら、最後列のど真ん中の彼女の席は今日は空席になっていた。

「成長痛が酷くて診て貰うんだって」と夏井が言った。「凄いよね。まだデカくなってるの」

 そんなに大きくなってどうする、と若干バカにしているようなニュアンスが混じっているようにも感じられて、俺はやれやれと公康と顔を見合わせる。

 本鈴が鳴って話はそこでお開きになった。

 数学の谷本が教科書とでっかい定規を持って教室に入ってきた。日直の号令で立ったり一礼したりして、また座って。そうこうしながら俺は怜のことはもちろん、最近の夏井と井上のことも考えていた。

 どうにかして事を納める術はない物か。

 夏井のしたいことは判る。だが井上が判らない。はっきりと相手が怜だとは言わなかったが、婚約者がいることははっきりと伝えている。その後の行動を考えれば諦めたはずだった。だが、いまの彼女は夏井と張り合っている。一体何を考えているのだろうか。翻意したのか、あるいは何か別の意図があるのか。そして夏井はそれを知っていて対峙しているのか。

 横目で夏井の表情を伺う。彼女は彼女で目の前のプリントに苦悩しているようだった。目が合いそうになったので慌ててプリントに目を落として、ペンを走らせた。



       2


 気が気でないまま午前中が終了した。

 さっさと給食を食べ終えてしまうと長い昼休みが無駄に思えてくる。先ほどからずっと時間を詰めてさっさと一日のカリキュラムを終わらせてくれればいいのにという我が儘が胸の中で暴れ回っている。

 いや、いっそ早退しようか。病人の看病の為なら、それも致し方ない。などと考えつつも行動に移せないのは午後からのHRの時間に推薦での作文の練習やらなんやらがあるから、という真面目な理由もありつつも、結局のところ、漫画家として意固地になっている彼女と話すのが少し億劫に感じてしまっているからなのかもしれない。

 思えば俺は漫画家としての彼女を余り知らない。彼女のことなんて大抵判ると思っていたのに、よくよく考えれば、母さんがうっかり口を滑らすまで、彼女が漫画家になったことはおろか、漫画を描いていたことすら知らなかったのだから傑作だ。

 きっと隠していたことには彼女なりの理由があるのだと思う。いや、あってくれないと困る。何の理由もなくこんな大事なことを隠されていたんじゃ俺の立つ瀬が無い。

 でも彼女がその辺のことをちゃんと話してくれない以上そういう可能性も否定しきれない訳で、そう考えた瞬間に目の前の風景がすべてかすんで濃い霧の中に居るように思えてくる。どちらに進んでいいかも判らずに途方に暮れてしまう。

 やっぱり俺が頼りないからなのだろうか。あるいは遠慮しているのか。そんなことを考えていると無意識に右肩を左手で押さえていた。一年前と比べれば随分と動くようにはなった。とはいえまだまだボールを投げたりするのにはほど遠く、キッチンの上の収納から鍋を出したりするときには誰かに手伝って貰わないと、とてもじゃないが肩が痛くて重さを受け止め切れない。それに腰だって痛い。

 生きていただけでも儲け物で、おまけに脳に深刻な後遺症もなく回復出来た時点で奇跡のようなものだ。だから、それ以上を望むのはある意味では贅沢なのかもしれない。でもそれを達成しないと、多分俺はちゃんと怜の隣に立つことが出来ない。

 そういう考えは以前からあった。いや、そう意識し始めたのは怜が漫画家になったことを知ってからだが、それ以前から再び野球が出来るようにとリハビリに加えて体を鍛えたりもしていたのだ。いま思えば、それはつまり自分が感じている潜在的な不足を補おうとして始めたことだったのだろう。

 怜は立派だ。容姿端麗で才能にも恵まれていて。そんな彼女のことが誇らしく思えると同時に、時々まったく違う世界の人間に思えることがある。これもまたあの日を境に覚えるようになった違和感である。

 知らなければ幸せだったに違いない。知ってしまったからこそ苦悩しているのだ。けどいずれ知っていただろう。その時もやはり、いまのように苦悩したのだろうか。これからもっとずっと先、俺がもっと大人になってからなら、ちゃんと彼女に向き合ってこのことを話し合えたのだろうか。少なくともいまの俺は酷く臆病で、まだまだ子供で、だから不満を感じながら、それを真っ直ぐ問いただすことも出来ず、だからといって態度に出さずに取り繕うことも出来ない。そんな自分が情けなくて腹立たしくて、多分昨日から気が立っているのはそれが原因なんだと思う。

「宗平、大丈夫?」夏井が言った。「元気ないよ?」

 そう言う彼女も今日は井上が居ないせいか、心なしか寂しそうである。給食の後は自分の席に座ったまま、受験対策の問題集を開いたまま、問題を解く訳でもなくシャーペンをノートの上で転がしたり、くるくる指で回したり、物憂い退屈を過ごしている様だった。

「お互い様だな」俺は言った。

 彼女は「あー」となんだかよく判らない返事をした。それから二人分のため息が昼休みの喧噪に紛れて吐き出された。時計を見ればもうあと数分で昼休みが終わる。あれだけ長く感じ、さっさと終われと思っていたのに、いまはその時がこなければいいのにとどこかで思っていた。

 


       3



 それでも放課後俺はまっすぐ家に帰った。結局怜のことが心配だったからである。嫌な予感というよりは確信があったのだ。間違いなく彼女は休まずに仕事をしている。

 斯くして、玄関のドアを開き、靴を脱ぐ。気持ちが逸っていて普段の動作を普段通りするだけなのに何故かもどかしい。

 廊下に上がったときである。怜が二階から降りてきた。その姿を見て、俺は思わず目を見開いた。

 彼女は眼鏡をかけていた。それだけで彼女がいまのいままで何をしていたのか理解出来た。

「お帰りなさい」と彼女はにっこりと微笑むが、その頬はぎこちなく、固い。

「休んでなかったんだな」俺は言った。なるべく感情的にならないように注意して一言一言を発したが、却って不自然に無機質な発音になってしまっていた。

「そうちゃんは心配しすぎだよ」と彼女はぎこちないまま微笑んで見せた。「私はほら、元気だから」

 それが強がりというのか、その場しのぎの嘘というのか。とにかく彼女がまだまだ本調子とはほど遠いことは見ていて明らかだった。そもそも彼女の笑みがぎこちないのは何も俺に対する後ろめたさだけではない。単純に熱があって辛いのだ。目も潤んでいるし、なにより彼女の透き通る様な白い肌は痛々しいくらいに赤く火照って体の不調を雄弁に語っていた。

「余裕あるんだろ?」

「まあそうなんだけどね」彼女はばつが悪そうに目をそらす。

「だったら休めばいいじゃないか。大体、自分がそんなに頑丈じゃないことは一番判ってるはずだろ?」

「でも、昔よりは丈夫になったから」

「高熱で気を失って倒れたのはどこの誰だよ」

「それは、その」

「いまだって熱があって辛いんだろ?」

 彼女は黙って俯いた。

「心配なんだよ。また、あんなことになったらって思ったら」

「それこそ子供の頃の話じゃない。心配なのは判るし、そんな風に気を使ってくれてるのはすごく嬉しい。でも、あんな小さい頃の話を持ち出されても困るわよ。自分の体調くらい自分で判るんだから」

「だったらなんで倒れるまで無理したんだよ」

「さすがにちょっとしつこいんですけど」と怜は煩わしそうに顔をしかめた。「私は描かなくちゃ駄目なの。いまじゃないと駄目なの。きっとそうちゃんには判らないと思うけど」

「ああそうだよ」俺は言った。「俺は怜みたいに、才能に恵まれた人間じゃないからな。天才の考えてることなんてわかんないよ。もう知らん。好きにしてくれ」

 彼女の脇をすり抜けて、階段を駆け上がった。部屋に駆け込むと乱暴に鞄を放り出して、ベッドの上に寝ころんだ。

 漫画家としての彼女が判らない。今日一日悩んでいたことで、図星だっただけに、ついカッとしてしまった。

 きっと怜には怜なりの事情があるんだ。それこそ公康が言っていたようなことかもしれない。でもそれが俺には判らない。なぜそうなるのか。どうして忠告を聞いてくれないのか。

 考えれば考えるほど判らなくて、このままもっと彼女について判らないところが増えていくんじゃないか。そんな不安が脳裏を過ぎって、俺は恐ろしくなって布団を頭から被った。



     ※※※



「私、最低だ」

 珍しく怜が電話をかけてきたと思ったら、第一声がそれだった。酷く落ち込んだ声だったのでただ事ではないことだけはすぐに判った。

「なにがあったの?」正直ちょっと面倒くさそうだ、と感じつつもそう訊ねずには居られなかった。

「そうちゃんに嫌われたかも」

 なるほど、彼と喧嘩したのか。

 彼と彼女がつきあい始め、そして私の精神が安定してから、果たしてこれが何度目か。あの二人は仲睦まじいようで、というより仲がいいからこそ割とぶつかり合う。その度に彼女はこの世の終わりのような顔で、神に懺悔する迷える子羊のような深刻な声で、私に相談するのだ。本質的にはのろけのような物なので良い迷惑だ。けどなんやかんやで聞いてしまうのは彼女の事が好きだからだ。

「今回は何をしでかしたのかしら?」

 経験上、大抵火種は彼女が撒いていることが多い。何せ彼女はちょっと尊大というか無神経なところがあるから、それも致し方ないと思う。

 それから彼女は事の次第を滔々と語った。途中で何度か悲観のあまり泣き出したり、体調が悪いらしく呂律が怪しくなったりしたが、概ね状況は理解出来た。

 そして私は思っていたより事が深刻であることを知って、大きなため息をついた。

 ある意味一番注意しなくてはならない地雷を踏み抜いてしまったと言ってもいいのではないだろうか。

「あなた、彼に甘えすぎね」私は言った。「愛があればなんでもかんでもまかり通ると思ったら大間違いよ」

 彼が、怜に対してコンプレックスを抱いていることには薄々感づいていた。恐らく、漫画家になったことを隠されていたことから萌芽したものだろう。だからこそ、彼女が彼に対して言い放った言葉はまずかった。

「どうすればいい?」彼女は涙声だった。

「ひたすら謝りなさい。それと、誠意を見せるためにちゃんと休みなさい。これは、親友としての忠告でもあるから。あなた昔風邪を拗らせて死にそうになったことがあるんでしょ? おばさんから聞いたわよ」

「さくらもそういうこと言うんだ」ちょっと拗ねたように彼女は言った。

「そりゃ言うわよ。心配なんだもの」

「何よ急に。気持ち悪い」

「あの、怜?」

「なに?」

「彼、私に返してもらえないかしら。なんだったら横から取り返しに行ってもいいんだけど」

「駄目。それだけは駄目。私生きていけなくなるから」縋るような声だった。

 すっかり自信を喪失している。どうやら自分の発言がそれなりに問題だったことは自覚しているらしい。尤も、どこまで深刻に捉えているかは判らないけれども。少なくとも、未だに自分から何故漫画家になったことを隠していたか話していない様なので、結局彼に甘えた楽観は残っていると考えていいだろう。

「だったら言うとおりにしなさい。このバカ」

 敢えてそのことには言及しない。私なりの、ささやかな嫌がらせだ。きっとこの問題は、放っておくともっと面倒な事になる。そんな予感がしていた。そして多分、心のどこかで私はそれを望んでいる。彼女が自分で気づくのが先か、あるいはやらかすのが先か。それを見極めてみるのも一興ではないだろうか。まあ、彼の正妻を自負している彼女にはもっとしっかりしてもらいたい部分もあるのでどう転んでも良い薬にはなるだろう。

 なんて偉そうなことを考えながら、本当は棚からぼた餅のように自分にチャンスがまたやってこないかと期待している部分がないわけでもない。

 怜との電話を終えて、私は何をするでもなく窓辺に佇んでいた。

「逢いたいな」

 思わず独り言が漏れる。

 会わないと決めた日から、ずっと私は春を待ちこがれている。会わなければ、少しは気持ちに変化があるかもしれないと思っていた部分もあるけれど、そもそも次に会う約束をした上でのことなのだから、最初から、彼のことを諦めてしまうつもりなんてなかったのだ。そのことに気がついたのはここ最近のことだ。我ながら間抜けだと思う。

 切ない胸の内をあざ笑うように、はらはらと雪片が舞い落ちてきた。窓硝子一枚隔てて感じる外気は凍てつくように冷たい。

 まだまだ春は遠い。ため息をついて、カーテンを閉めた。



    ※※※



 悶々としていた。

 ぐつぐつと煮える粥がまるで自分の心のうちを写し出しているようにすら思えた。

 俺は、怜にとって本当に相応しい相手なんだろうか。

 あれからずっとそのことだけを考えていた。

 彼女はずっと漫画を描いていることを隠していた。以前から彼女が部屋に籠もって出てこなかったり、何かに根を詰めて体調を崩すということがあった。いまにして思えばそれもすべて漫画を描いていたからだったのかもしれない。彼女が美術部と吹奏楽部を掛け持ちしていたこともあって、多分なにかしら絵を描いているか、楽譜とにらめっこをしていたのだろうなと、当時はそう漠然と考えていた。だが違っていたのだろう。

 俺に話しても判らないから。

 もしかしたら、彼女はそう思っていて、だから黙っていたんじゃないだろうか。

 なんてことを悶々と考えていたら危うく粥を焦がしかけた。火を止めて溶き卵を回し入れて蓋をする。しばらく待ってから蓋を取れば卵粥の完成だ。

 お椀に粥を盛りつけながら、思わずため息が出た。いまは正直怜と顔を合わせることを考えるだけでため息がでてしまう。お椀を乗せたお盆はその見た目の何倍も重たく感じられた。それでも俺は彼女の元へ向かう。普段ならそろそろ夕飯の時間で、きっと彼女は腹を空かせているはずだからだ。

 扉をノックする。しばらく間があってから、返事が聞こえた。

 部屋にはいると彼女はベッドで横になっていた。首のところまで布団を被って、ずいぶんと辛そうに体をくの字に丸めていた。額に汗を滲ませた彼女は、薄く開いた唇の隙間から浅い呼吸を繰り返していた。俺が帰ってきたときよりも悪くなっている。

「大丈夫、そうじゃないな」俺は言った。

「えへへ」と彼女は空元気で笑って見せた。「そうちゃんの言った通りにするべきだったね」

「熱、計った?」

「三十九度あった」

 その答えを聞いて、俺はやり場のない感情が胸にこみ上げてきたのが判った。こんなことなら学校を休んで一日中、仕事が出来ないように彼女についていてやるべきだった。

「心配しないで」と彼女はか細い声で言った。「食欲はあるから」のそのそと体を起こす。節々が痛いのか、その動きはぎこちない。上体を起こした彼女は、ベッドの上で方向転換し、壁に背中を預けて、こちらに向き直った。

「解熱剤を先に入れた方が良くないか? なんだったら俺がやるけど」

「いいよ。その、自分で出来るから」と彼女は熱ではなく、恥じらいに頬を赤くした。「無理そうだったらちゃんと言うから。それよりも、お腹空いたから食べさせて?」

 お腹ぺこぺこなの、と彼女は微苦笑を浮かべた。

 それが強がりではなく本当に食欲だけはあるようだったので、少しだけ安心した。もしこれで食べられないなんて言っていたら、きっとまた救急車を呼んでいただろう。

 ともかく俺は彼女のそばに行き、そっとお盆を敷き布団の上に置いた。そして器とレンゲを手に取り、中の粥を掬って息を吹きかけて冷ます。

「こうしてそうちゃんに食べさせてもらうの、久しぶりだな」と怜は場違いなほど幸せそうに呟いた。「あとね。その、さっきはごめんなさい。私、」

 彼女がそう言い掛けたところで、俺はレンゲを彼女の前に突き出した。

「そういう話は体調が良くなってからだ。いまはとりあえず、食べて寝て、それで元気にならないと」

「うん」と彼女はうなずいた。その横顔に浮かんだ一瞬の安堵と落胆。それを見て俺は自分のずるさを恨んだ。こうやって逃げたところで、問題は先送りされるだけ。何も変わりはしない。それは判っているのに、俺は彼女の体調を言い訳にして目を背けた。

 一口、二口とお粥を口にする彼女を見ていると罪悪感と同時に茫漠とした不安に襲われる。そしてなにより後悔が先にたって、何度も後ろを振り向かせるのだ。そしてその度に漠々として何かが視界に移り込む。なんども繰り返していくうちにそれが段々はっきりとしてくる。それは薄明かりに縁取られた陰のように佇み、こう訊ねてくるのだ。


 おまえは本当に彼女の相応しい男なのか、と。


「そうちゃん?」

「ああ、悪い。ぼーっとしてた」

 あわてて俺はお粥を掬おうとした。しかし、レンゲの先が器の底をこするばかり。いつのまにか、すべてなくなってしまっていたらしい。

 変なの、と笑ってから彼女は粉薬を水で一気に飲み込んだ。

「じゃあちょっと片づけてくる」

 お盆を持って立ち上がろうとした。

「待って」と彼女は俺の服の袖を掴んだ。「いかないで」

 縋るような指先に胸がざわつく。

「一緒に居て。お願い。なんだか今日は、心細くて。このまま一人でいたら、誰にも気づかれずに死んじゃうんじゃないかって、すごく怖いの」

 縁起でもないことを、と思ったが体調が悪いときは得てして心細いものだ。彼女のその懇願もきっとそういう物なのだろう。その瞳の中にちらつく薄ら寒い媚びのようなものから目を背ける為、俺はそう思いこむことにした。「判った。とりあえず、これだけ片づけてきてもいいか?」

「うん。あ、ごめん。肩、貸してもらえる? その、トイレに」

「りょーかい」俺は苦笑しつつ彼女に肩を貸してやって立たせた。

 左肩に彼女が掴まり、右手でお盆を抱え込むようにして持つ。とても窮屈だが仕方ない。それから俺たちは一歩一歩慎重に階段を下りた。ふらふらとおぼつかない足取りを見ていると心配で仕方がない。最悪の場合お椀を犠牲にしてでも彼女を守らなければならない。なんてことを考えつつもなんとか無事階段を下りきることが出来た。

 ほう、と怜が息をつく。

「そういえば、お母さん遅いね」玄関の方を見て彼女は言った。「お仕事大変なのかな」

「大変だと思ってないと思うけどな。夫婦揃って熱心だから」

「その気持ちは、判らない事もないかな」

「今日はとにかく大変だから、休むように」

「うん」と怜は頷いた。「反省してます」

「よろしい。あ、トイレ、一人で大丈夫か?」

「流石に」と彼女は苦笑した。

 台所で、ささっと食器を洗って乾燥棚に並べる。それから廊下に出て、階段に腰掛けて怜を待った。ぼーっと足下に視線を落としていると、ドアの開く音が聞こえた。ぺたぺたと不安定な足音が近づいてくる。俺は立ち上がった。

「おまたせ」と彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。

「そうでもない」俺は言った。「さっきここに座ったばっか」

「嘘」と彼女はおかしそうに口元に手をやって、それから何か言おうとしたが咳き込んだ。俺はあわてて彼女の体を支えながら背中をさすってやった。

「早く部屋に戻ろう」俺は言った。

 彼女は俺の腕の中で小さく頷いた。

 彼女を支えながら上る階段は普段よりもずっと長く、もどかしく感じられた。そしてお互いに顔色を窺い、言うべき事が言えない、そんな沈黙に支配されていた。

 部屋に戻ると彼女は力つきたようにベッドに体を横たえた。

「まだ居た方がいいか?」

 そう言ってから俺はびっくりした。先ほど一緒に居て欲しいと彼女が言ったばかりだと言うのに。どうやら俺はよっぽど逃げたいらしい。

「うん」と彼女は頷いて、俺のシャツの袖を引っ張った。「私が眠るまででいいから、そばに居て」

 そう潤んだ瞳で見つめられては逃げることも出来ない。今度のそれは間違いなく本当のお願いだったからだ。

「判った」と俺は頷いて、彼女のベッドに入った。

 布団の中で、おでことおでこをくっつけ合うようにして、向かい合う。「えへへ」と怜は照れたように笑う。

「なんだよ」

「なんとなく」

「早く寝ろよ」

「うん。あ、そうだ。ねえ、背中をこっちに向けて欲しいな」

 言われるままに俺は寝返りを打つ。するとその背中に彼女が抱きついて来た。

「ふふ。そうちゃんの背中だ」嬉しそうに彼女は言う。「やっぱりおっきいね。それに、いいにおいだし、あったかい」

「そりゃどうも」

「照れてる」

「照れてない」

「やっぱり照れてる」

「いいから早く寝ろ」

「あのね。そうちゃん」

「なんだよ」

「私はずっとここに居るから。そうちゃんは、どこにも行かないでね」

「急になんだよ」

「なんとなく」

「なんとなく」俺はそう繰り返した。

 けほけほと軽い咳が背中に響いた。それからあくびも。

「風邪薬が利いてきたみたい」

 どこかぼんやりとした口調でそう言ったきり、彼女は静かになった。耳を澄ますと寝息が聞こえる。

 やれやれと、そこでようやく一息つくことが出来た。思えば朝から気を張りっぱなしで、いまになってどっと疲れが押し寄せてきた。彼女の寝息を聞いているとなんだかこっちまで眠くなってくる。だが眠りに落ちる直前に、ふと彼女の言葉が脳裏に蘇った。俺には判らないと言ったあの声が。

 彼女の放ったあの一言はきっと自然に出てきたものなのだろう。無意識に放たれたそれは、鋭い棘のようになって胸に突き刺さったまま疼痛をもたらし続けている。

 俺は本当に怜に相応しい人間なのだろうか。

 三度問う。

 いまこうして、彼女は俺を拠り所としてくれている。

 きっとそれだけで十分なのだ。

 だが、胸に兆した迷いは、そう信じることを許さなかった。見つかるはずのない答えを求め、同じ問いを何度も何度も繰り返し、深い深い惑いの淵に沈み、いままさこの心は懊悩の獄に閉ざされた。無間地獄の如き自問自答の檻の中で、俺はただ途方に暮れていた。

 



             続く

一ヶ月ぶりです。次はまた、来月末くらいか、もしくは中旬ぐらいに何か更新出来たらと考えてます。

今回のサブタイはGargoyleの2ndアルバム収録の名曲から拝借しました。いつの間にやら曲名からの拝借が定着しつつある今日この頃です。それではまた6月に

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