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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第三章
22/55

Écailles De Lune


「月が綺麗だから散歩しようよ」

 突然怜がそんなことを言い出した。

 俺は一体どういう風の吹き回しだ? と疑問を抱きつつ窓の外を見た。地面にくっきりと影が出来るほどの月光が、青白く辺りを照らしている。空に浮かぶのは満月。なるほど、確かに月が綺麗だ。しかし出不精の権化とも言える彼女が自分から外に出て、あまつさえ散歩しようなどと言い出すなんて珍しいを通り越して最早天変地異だ。

「なんでそんなに意外そうな顔をしてるのかな?」

 にっこりと笑みを浮かべながら怜は首を傾げた。その目はお世辞にも穏やかとは言えない感情を映し出していた。

「普段外にあんまり出たがらないのはどこの誰だよ」しかし俺はあえて茶化すことにした。下手に引くと、余計なことを考えていたと悟られてしまう。

「それはそうだけど」と彼女はバツが悪そうに視線を逸らす。どうやらうまくかわせた様だ。「月が綺麗でしょ?」

「死んでもいい?」おどけてそう言った。

「そう言うのじゃなくて」と彼女は肩をすくめた。「ほんとにただお散歩したいだけ」

 隣にやってきた彼女が俺の腕をぐいっと引っ張る。「ほら、行こうよ。雲で翳ってからじゃ遅いんだよ?」

「判ったよ」

 俺がそう答えると彼女は満足げに微笑んで、腕に抱きついて来た。

 二人くっついたまま玄関へ向かっていると廊下で父さんとばったり出くわした。彼は一瞬あっという顔をした。

「これからちょっと出てくる」俺は言った。

「まあ、ほどほどにな」

 何か余計なことを察したらしい。父さんはそう言うなりそそくさとリビングへと姿を消した。

「お父さん何を勘違いしたんだろ」とブーツを履きながら怜は言った。

「さあ。まあろくなことじゃないだろうな」俺はため息をついた。「背中押してくれるのはいいんだけどなんかズレてるからなあ」

「コンドーム事件とか」怜がくすくすと笑う。

「それはやめてくれ」怜と付き合っていることがバレてからすぐにあった事件だ。いや、事件というほどのことでもないのだが。ある日、朝起きると俺の勉強机の上に薬局の袋が置いてあって、中にコンドームの箱があった。訝しんでいるとそばに父さんが書いたらしいメモがあってそこに節度を守って云々という注意のような文言が書かれていた。そりゃまあまだまだ若いなんてものじゃないし、万が一にも間違いがあったら大変なので、お節介な感じはしたが当然の心遣いだろうと思って感謝しつつそれを机の抽斗に仕舞ったのだが、数日して怜がそのことを知ってしまった。付き合う以前から、よく勝手に部屋に入ってはベッドの下やら押し入れの奥等を検める習慣があり、付き合い始めてからは心なしかあったような気がする遠慮が完全になくなって、堂々と部屋を漁るようになった。恐らく、と前置きせずともその時にメモ書きと一緒に発見したのだろう。実の所、怜はその辺のことに関しては結構初心だ。だから、抽斗の中の物を見つけてからしばらく怜が余所余所しくなってしまい、いつもの調子に戻るまでの一週間ほどの間、その焦れったい態度にやきもきさせられた、という個人的な難事があったのでいまでもよく覚えている。出来れば忘れたい話なのだけれども。

 そんなくだらないことを話しながら俺たちは外に出て歩き出した。

 喩え街灯のすべてが消え失せたとしてもまったく困らないほどに、目に映るすべてが蒼白く照らし出されていた。

 虫の声が途絶えて久しい二月の夜は張りつめたような静寂に沈んでいて、気がつけば二人とも無言になり、互いの足音に耳を傾けるように歩いていた。

 月明かりは柔らかいように見えるが実はとても鋭い。辺りを包み込むようにその蒼白い光線で染め上げているように見えて、実は細く鋭い無数の閃光の集まりが毒毛のように突き刺さり蒼と白をそそぎ込んでいるのだ。そして万物が幽く、現実と幻想の境界が曖昧になる。月の毒だ。冬の夜の静寂と寒さはそれをより強くする。

 なるほど、怜が外に出たくなる訳だ。俺はそう一人で得心していた。彼女はこういう雰囲気がとても好きなのだ。

 どちらが言うでもなく、俺たちは少し離れたところにある公園へと向かった。かつて怜が家出をして隠れていた公園だ。

 寂れたジャングルジムとチェーンの錆びたブランコと、それから象の滑り台に、誰も遊ばない物だからすっかり固まってしまった砂場。

 すべてが当時の姿のまま夜天から降り注ぐ光の中に佇んでいた。

 辺りを見回すと、砂場のそばに背もたれのないベンチがあることに気がついた。当時からあったのか、それとも後から出来たのか。

 足は自然とそちらへと向いた。

 並んでベンチに腰掛け、白い息を吐く。どこかから、エアコンの室外機の音がかすかに聞こえて来る。

「きれいな月だね」怜が呟いた。

 俺はその横顔を見てはっと息をのんだ。

 その肌は、夜空に浮かぶ白銀の月よりなお白く透き通り、髪は漆黒より深い黒を湛え、嫋やかに月光に照り映える。夜空を写す瞳もまた黒く、潤んだような光を宿し、まるでいまから月に帰らねばならぬと、そう口にしても不思議ではないほどに、儚く可憐だった。ただ一点燃えさかるように紅い唇だけがそのすべてにあらがうように幻想を切り裂き、現実の生を主張していた。俺は彼女を強く抱き寄せ、その唇に自分の唇を重ね合わせた。

「いきなりだね」彼女は恥じらうようにはにかんだ。

「つい衝動的に」俺は言った。

「そうちゃんは月の光は嫌い?」

「まさか」俺は答えた。けれど、本心はどうだろうか。深く考えたことはないけれど、もしかしたらそれほど好きではないのかもしれない。そんな思考を巡らしつつ、「怜は?」と訊ね返した。

「私は好きだよ」と彼女は言って、降り注ぐ光を受けるように手のひらを中空に向かって差し出した。「太陽の光は私には強すぎる。私は、普通の人みたいに頑張って生きられないから。でも月光は優しいくらいの無関心さで私を照らしてくれる」

 それに私は月だから、と怜は笑った。

「俺が太陽で、怜が月」俺は冗談めかして肩をすくめた。

「そう言うこと。だから多分そうちゃんはあんまり好きじゃなさそうだなあって」

「嫌いって訳でもないけどな」俺は言った。今度は嘘を吐いていた。図星をつかれて少しばかりムキになっていた。「綺麗だし。なんていうか幻想的でいい感じ?」

「でもこの光の中に身を任せていたいって感じじゃないでしょ?」

「それは、よく判らない」俺は首を横に振った。早くも取り繕うのに限界が来てしまった。

「でしょ?」と彼女は何故か嬉しそうに笑む。「だからそうちゃんは太陽なの」

 なんだかよく判らない理屈だが、彼女がそう言うからにはそうなのだろう。深く考えるだけ無駄だ。きっと彼女も深くは考えていない。彼女が納得していて満足しているならそれでいいのだ。

 彼女が立ち上がった。

 空を見上げながらゆらゆらと歩いていく。その足取りはまるで月へと続く光の道を辿るかのように、おぼつかない割にはしっかりしていた。

 俺は不意の焦燥に駆られ、跳ねるように立ち上がり、彼女を追いかけた。そして彼女の腕をつかんで、強く抱き寄せた。

「どうしたの?」と怜は笑いながら言った。「二回目だね」

「そっか。二回目か」

「私がどこかに行っちゃうと思った?」

「そのまま月に帰りそうだったから」

「なにそれ」と吹き出して、それから腕の中で身をよじって笑った。よっぽどおかしかったらしく目に涙まで浮かべている。

「自分でも変な事言ったとは思うけど、そこまで笑うことはないだろ」

「ごめんごめん」そう言いながら彼女はまだ笑っている。

 俺はいささか機嫌を損ねた風に彼女を睨んでみた。特に気分を害した訳でもないのだが彼女がどんな反応をするのか急に見てみたくなったのだ。

 彼女は笑うのをやめ、それから俺をそっと抱きしめた。

「大丈夫。私はどこにも行かないから」彼女のその声はとても優しく響いた。「何があってもそうちゃんのそばに居る。死ぬまで一生。何がなんでも」

 背中に巻き付く彼女の腕に力が込められる。まるで遠ざかる物を引き留めるかの如く。先ほどとはまるで立場が入れ替わっていた。

 そのことに俺は内心驚いていた。見透かされている。怜が、漫画家になり、そのことを隠していたと知り、その頃から俺の中で距離感が変わったのだ。少しだけ距離が遠ざかったように感じていた。その後も俺の前では目に見えて漫画の話題を避けようとするその態度が、一層拍車をかけていた。

 どうして隠して、いまも頑なに口を閉ざそうとするのか。それは俺には判らない。彼女がそうするのがいいと思っているからそうしているのだろう。でも、こればっかりは、それならそれで構わないと割り切ることが出来なかった。

 そんな思いが俺の手を宙にさまよわせた。彼女を抱きしめ返すでもなく、肩を押し返すでもなく、心の迷いをそのまま具現化したように、中途半端に指を曲げ、中途半端に腕を上げ、そして中途半端に肘を曲げて、ゆらゆらと揺れていた。

 彼女が俺を見上げる。その瞳には不安の色が浮かんでいた。そして彼女は背伸びをして、俺の首に腕を回してキスをした。

 痛々しいほどに積極的な口づけだった。

 唇を離した時、月明かりに映し出された彼女の表情はとても打ちひしがれているように見えた。

「寒いね」彼女は言った。「帰ろっか」

 俺は頷いた。「風邪を引いたら大変だ」

「そうちゃんはもうすぐ受験だもんね」

「怜の方こそ、体調崩したらなかなか治らないんだから気をつけないと」

「そうだね」彼女は微笑んだ。何事もなかった、という仮面を被っているかのようにその頬は固く強ばっていた。

 帰路、再び俺たちは沈黙の静寂を歩いていた。行きとは性質を異にするそれは、とても重苦しく、まるで深い水底に居るかのように、あらゆる方向から押し寄せてきた。

 怜はずっとうつむいたまま歩いている。

 繋いだ手のひらから伝わってくるのは彼女の体温だけで、それ以外にはなにも判らない。普段はひんやりとしている彼女の手もこの寒さでは暖かい。

 心の中に飢餓感があった。

 きっと俺の中で彼女の立ち位置が微妙に変化したせいで、いままでなかった空白が発生して、そこを埋めるための何かを欲しているのだ。だから俺は彼女の体温に意識を集中する。そこに求めているものがあるかもしれないからだ。

 でも結局なにもなく、家に着いてしまった。

 本音を言えば判っているのだ。

 何が足りていないか。

 どうすればいいのか。

 つまりは、彼女に問いただせばいいのだ。

 何故黙っていたのか、何故その話題を避けるのか、と。

 だが、それが出来ない。

 もしかしたら俺は恐れているのかもしれない。何か底知れない答えが彼女の口から出てくることを。

 ブーツを脱いで、そのまま彼女は自室に引きこもってしまった。きっと原稿を進めるのだろう。俺は風呂に入った。それから部屋で明日の用意をして布団に入った。





 夜半。ドアが開く音で目が覚めた。体を起こさず眼だけで音の主を確認すると、寝間着姿の怜が不安そうにドアノブを握ってゆっくりと押し開けているところだった。彼女はこちらを見たまま後ろ手にドアを閉めた。そして抜き足差し足、どんくさいなりに足音を殺しながらこちらに向かって歩いてくる。どうやら彼女は俺が起きたことに気が付いていない様子だった。どうしようか迷ってから俺は狸寝入りを決め込んだ。薄く開いていた目を閉じると、不思議なほど彼女の存在を感じることが出来た。それは目で見るよりも鮮明で強烈な物だった。だからいま、彼女が俺の顔を間近で見つめながら起きていないことを確認していることも判っていた。彼女は「よし」と小さく呟くと俺のベッドに潜り込んできた。ひんやりとした足が臑の辺りに触れて思わず声を上げそうになった。彼女は、仰向けに寝た俺の右腕を両腕で抱き込むようにし、足を絡ませて、それからじっと俺の横顔を見つめている様だった。強烈な視線を感じる。

 彼女の手が俺の肩を撫でた。労るような優しい手つきで、「痛くない?」と囁いた。

「前と比べると逞しくなってるね」彼女は語りかけるように言った。「鍛えてるんだよね」

 俺は相変わらず寝たふりを続けていた。

「お医者さんに言われたのにね。鍛えるのは良いけど無理なトレーニングはしちゃだめだって。知ってるんだよ。私に隠れてリハビリ以外のトレーニングしてるの」

 肩を撫でていた手が再び腕を抱きしめる。

「私はね。いまのそうちゃんも大好きなの。だからそんな無茶はして欲しくないの。前に、腰が痛くて救急車呼んだことがあったでしょ? あのときね、すごく怖かったの。もし悪化していまよりも酷いことになったらって考えたら、心臓が潰れそうなくらい苦しかったんだよ」

 あのときは、睡眠不足と前日に腰周りの筋肉を鍛えるトレーニングをやりすぎたのが祟って、突然ぎっくり腰のような症状に襲われて大変な目に遭った。しかも運悪く怜の目の前で倒れたものだから、彼女が泣くわ叫ぶわで家中大騒ぎだった。痛み止めを打ってしばらく安静にしていたらどうにかなったが、医者からこっぴどく叱られてしまった。

「私のせい、だよね」沈痛な声で彼女は言った。「私が漫画家になったことをお母さんが話した時くらいからだよね。トレーニングの量が増えたのって」

 確かにそうだ。それは間違いない。俺は考えたのだ。どうして彼女が黙っていたのか。本当の事は判らないけれど、なんとなくだが、好きなことが出来なくなった俺に対する後ろめたさのようなものがあったのではないだろうか。だから俺は決めたのだ。何が何でももう一度野球をやってやると。元々そのためのトレーニングはしていたが、あくまでそのうち出来るようになればいいと思ってのんびりとやっていた。それこそ数年後に、というレベルである。だがこの一件から俺は早晩どうにかしなければいけない、という焦燥感に駆られ、そしてその結果病院送りと相成ったのである。我ながら間抜けな話だ。彼女を安心させてやりたくて頑張ったのに、逆に不安をあおるなんて。

「いつか話そう、話さなきゃって思ってた。思ってたけどそう考えれば考えるほど、どうやって打ち明けていいのか判らなくなっちゃってた。バカだよね。ふつうに話せばいいのに」

 自嘲するように彼女は小さく笑った。

「そうちゃん。私はね。凄く臆病なんだ。もう大切な物を何も失いたくないから。だから慎重になって、それこそバカみたいに石橋を叩いて叩いて、罅が入るくらいに。そうしないと何も出来ないの。怖かったの。そのことを打ち明けて、そうちゃんとの距離が変わることが」

 泣いているのだろうか。少し声が震えている。

「でも、話さなかったせいでちょっとだけ遠くに行っちゃった。ううん。私の方から遠ざかっちゃったんだよね。きっと。ほんと、バカみたい。こんなにそうちゃんのことが好きで大好きで愛しているのに。どれだけ伝えても押しつけても、埋められない隙間が、そうちゃんの心の中に生まれてしまっている。判るの。だって私の心の中にも満たされない部分が出来たから。苦しいよ。切ないよ。ごめんなさい。お願いだから、どこにも行かないで。私はずっとここに居るから」

 彼女の懺悔を聞きながら、俺は釈然としない物を感じていた。どうしてそう言うことをちゃんと向き合って話してくれないのだろうか。きっと俺が目を覚ましていたら話してくれなかったはずだ。

 静かになったな、と思っていると安らかな寝息が聞こえてきた。うっすらと目を開けると、俺に抱きついたまま彼女は眠っていた。その無防備な寝顔を見ていると胸の中に蟠っていた物がほぐれていくのが判った。きっといまだけのことだ。朝が来て、時間が経てば元通りになる。けれど、もしかしたら明日には、彼女が先ほどの内容をちゃんと向き合って話してくれるかもしれない。そんな期待を抱きながら俺は眠った。



 そして朝日とともに訪れた新しい朝は、しかし何も変わらず、互いに問わず、語らず、そして伝えず、上辺だけのいつもの日常が始まるのであった。





                      続く

今回は短いです。タイトルは例によって大した意味は無いです。Alcestのアルバムのタイトルから拝借しました。困ったときの聴いてた音楽からの借用って感じです。来月は多分二話くらい更新します。それでは、また来月

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