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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第三章
21/55

thirsty


 鍋の中でぐつぐつと湯が沸いていた。頃合いである。袋麺を、そっと斜めの角度で鍋の中に滑り込ませる。一瞬湯が冷めたその隙に、ラーメン鉢にスープの素の粉末を入れ、チューブのラードを絞る。そして間髪入れずに箸を持ち、鍋の中の麺を少しずつほぐしていく。ある程度麺がほぐれたところで火を弱め、冷蔵庫から卵を取り出す。そして煮立つ鍋の中に卵を割り入れた。湯にふれた部分から白く凝固していくその様を見つめていると否応なしに腹が鳴る。湯気に混じる卵の香りがたまらない。蓋をして、卵が半熟になったところで、火を止める。鍋を持ち上げ、湯を少しだけラーメン鉢に流し込んで粉末を溶いてスープを作る。それから一気に残りを流し込む。

「ふふ」と思わず笑みがこぼれる。

 素ラーメンでは寂しいのでちょっと一手間を加えただけ、されど侮れるものではない。琥珀色のスープに沈んだ麺のその中央に鎮座する、白と黄色の大陸。それはまさに新天地を目指したコロンブスが見た新大陸にも相当する、希望の地である。

 などとよく判らない事を考えながら彼女はいそいそとラーメンを食卓へと運んだ。それから電子レンジで温めていた宗平の弁当の余り物と、飲み物を用意して、席に着いた。

 一人だけの寂しい食事である。高校が自由登校になってからは、平日の昼はいつもこのように食事を用意して、堪え忍んでいる。一人でも大丈夫だと思っていたのだけれども、案外寂しいものだ。学校で、さくらと一緒に過ごしていた昼の時間が思いの外掛け替えのないものであったことをいまにして思い知らされていた。

 誠に遺憾ではあるが、と心の中で付け加えつつ、ラーメンを啜る。

 三島怜は料理が出来ない。が、湯を沸かして麺を茹でてスープを溶いて盛りつける程度のことはできる。なんだったら卵も茹でられる。インスタント食品くらいはどうにかできるのだ。尤もそれが限界であるので、決して胸が張れるようなことではないのだが。

 材料と調味料を用意して、それをレシピ通りに作る。言うだけなら容易い。実際ネットでレシピを検索する度に自分でも作れるんじゃないかと思う。だが、その手順を見る度に、やれ適量だの色がどうのと、明確な基準のないファジィな表現が頻出する。それが彼女には判らないのだ。センスがないということはつまりそういうことなのだろう。

 それでも、と忸怩たる思いを抱きながら、半熟の卵黄を箸で割る。流れ出た卵液に麺を絡めてすする。濃厚な味わいが口の中に広がる。

 いつかは、いつかは自分の手料理を宗平に食べさせたい。そんな野望を胸に抱いていた。

 普段は宗平に面倒を見て貰ってばかりだが、内心では尽くしたいと思っているのだ。一応、出来ることはやっている。例えば、右肩を上げると痛む彼の代わりに、高いところにあるものを取ったり、掃除をしたり。彼が疲れていればマッサージをしてあげたり、趣味と実益をかねて耳掻きをしてあげたり。諸々、出来そうなことがあればなんでもやっている。だが、どうにも自分はどちらかというと彼に尽くされている感じがしていて、そこが不満であった。そんなことを思いながら、彼が余り物という形で用意してくれていた豚の生姜焼きやきんぴらゴボウに舌鼓を打つ。

 スープの最後の一滴まで飲み干した彼女は、口の中をさっぱりさせるべくウーロン茶を飲み、それからほう、と息をついた。

 こういう食事をしている時、燃費の悪すぎる自分の体質に感謝したくなる。食べても食べても太らないというのは周囲からすれば大変うらやましいことらしく、さくらからもよく遠回しな嫌みを言われては、胸を張って煽り返していた。彼女は一時期拒食症でやせ細っていたが、実際にはとてつもなく太りやすい体質らしく、いつも糖質だのカロリーだのを気にしながら食事をしていた。

 一方で怜はどちらかと言えばそういう全うに肉が付く体質に憧れている部分もあった。なにせ余計な脂肪がつかないばかりか、ついて欲しい脂肪もつかないのだ。小学校の高学年で仄かに胸が膨らみ始めて、そこからほぼサイズが変わっていないというのは流石にどうなのだろう。さくらの胸を見る度に自分と比較して悲しくなる。なにか前世で悪いことでもしたのだろうか。巷にあふれるバストアップの為の鍛錬を繰り返したが効果はなく、最近では諦めつつある。しかしどうにかして大きくはならないものか。宗平の好みが、さくらのようなロリ巨乳であることは疑う余地はなく、今朝彼の部屋で発見したDVDもはやりそういう女優が出ていた。

 流しで食器を洗いながらため息をつく。

 しかし、どこであんなDVDを入手しているのだろうか。彼に届く郵便物は逐一チェックしているから、ネットの通販で年齢を偽って購入している形跡はない。ならば、誰かから貰っているか買っているか。大方野球部のOBとかそんなところだろう。

 やっぱり自分のこの貧相な肉体では不満なんだろうか。彼がそういうものに興味を示している証拠を発見する度に不安になる。

 でも彼はこの体を好きだと言ってくれている。それがお世辞でないことは長い付き合い故に判る。それに、彼は黒髪ロングで和装をした女性が好きだ。そう言う意味で自分は彼の好みのど真ん中にいると言っていいはずだ。というよりそうなるように装っているのだから、そうでなければ困る。

 洗い物を終えて、リビングのソファに寝転がるとすぐに睡魔が襲ってきた。昨晩から一睡もせずに原稿を進めていたのでそのせいだろう。別に締め切りに追われている訳ではない。むしろ余裕があったが、一度熱中すると中断できないのだ。時々用を足すためや、小腹を満たすために席を外すことはあったが、その間も常に原稿のことを考えていて、ほぼ無意識に行動していた。

 あまり無茶をするな、とは宗平に常々言われていた。元来あまり体は丈夫ではない。油断をするとすぐに熱が出るし、そうなるとしばらく寝込むことになる。だがそれでも幼少の頃を思えばかなり頑丈になったものだ。幼い頃は病弱なことに加えて食も細かったから、昔の写真を見るとまるで生白いの棒きれの様だった。一度それが祟って死にかけたこともあった。ただの風邪だと侮っていたらこじらせて肺炎になり、それすらも拗らせて呼吸困難に陥って数日生死の境をさまよったのだ。小学生の頃のことだ。その際体が何かを悟ったのか、生還した直後から急に食欲が増大した。そうして人一倍食べるようになって、ようやく普通の病弱な体を手に入れたのだった。故に食は彼女にとって非常に重要な構成要素なのである。そして、食後の惰眠も、はやり必要なものである。


 



 ぼんやりとした霞の中に立っていた。茫洋とした白い空気がどこまでも漂っていてなにも見えない。

 足が地に着いているかどうかも定かではなく、なんとなく、これは夢だなという自覚を持つ。明晰夢という奴か。そんなことを考えながら周囲を見回すと、人影がぼんやり見えた。それが誰の者であるか、逡巡する隙すらなく、彼女は瞬時に判断して、駆け寄ろうとした。だが、その隣にもう一人、寄り添う様な人影を見つけ、足を止めた。片方は言うまでもなく宗平であり、そしてそこに寄り添っているのはさくらだった。二人は仲睦まじく、腕を組んで佇んでいる。

 希に見る夢だ。もし、宗平とさくらがあのまま付き合っていたら、自分はどうなっていたのだろうか。そんな空想の結果を実感させられるような夢。

 恐らくは、さくらに対する拭いきれない罪悪感がこういう夢を見させるのだろう。

 これまで生きてきたなかでようやく見つけた無二の友を裏切った。呵責に苛まれ悲鳴を上げる彼女を闇に突き落とした。その奈落の深さも知らずに。いくら自己正当化しようとも、罪の意識は消えてくれなかった。いや、そういう意識があるからこそ正当化しようと努めてしまうのだ。

 夢の中の二人は、こちらに目もくれず、だんだんと遠ざかっていく。

 待って、と声に出しても届かない。

 やがて霧の中に一人取り残される。


「彼を傷つけたんですから当然ですよ」


 嘲るような声が聞こえた。振り返ると、忌々しい女ーー夏井香奈がにやりと口元を歪めてこちらを見ていた。

「お姉さんは、宗平のことを何でも知ってると思っているけど、それは違う。あなたが知らない宗平も居るの。そしてそんな彼をあなたは傷つけた」

 その言葉に頭を抱えてうずくまる。あの女が夢に出てきたのは初めてだ。なんだってこんな、意味深なことを言うのか。きっとあれは自分を惑わす為のブラフに違いない。だというのに、夢で出てくるということは相当気にしてしまっているということだ。一体全体、あんな揺さぶりに動じるなんてどうかしている。

「あなたと宗平は生きる世界が違っていますから、私が貰っていきますね」

 そう言って微笑みを浮かべた彼女の隣には、宗平の姿があった。どこか哀れむようにこちらを見る彼の姿に、背筋が凍り付いたようになる。彼が彼女の手を引いて、こちらに背を向ける。

 いや、行かないで。

 そう叫んで手を伸ばした。



 そして、その手が何かを掴んだ。



 ぼんやりとした視界が、徐々に晴れていく。なんだか、部屋が薄暗い。確か、昼寝をしていたはずだけど。と思っていると「おはよう」と愛しい声が聞こえてきて、思わず掴んでいたものを引き寄せた。それが彼の服の裾であると気がついた時にはもう、彼は倒れ込むようにこちらに覆い被さっていた。

「なにか怖い夢、見てたのか?」そう言って、彼は怜の頬にふれた。

 その手の温もりを感じながら、怜は「うん」と頷いた。彼の手に自分の手を重ねる。

 もっと温もりが欲しい。

 そんな思いに答えるように彼は優しいキスをしてくれた。でもそれじゃ足りない。彼の首に腕を回し、強く引き寄せた。その瞬間、あの女の匂いが鼻孔をくすぐり、急に冷や水を浴びせられたような気持ちになって、彼女は目を見開いた。ほんの僅かだけれど確かに感じる。問いただそうとした。何があったのか。けれど、唇を割って這うように滑り込んでくる彼の舌を受け入れると、頭がとろけたようになって、眦から滴がこぼれた。いまはとりあえず、彼が欲しい。そのままなし崩し的に、さらに彼を求めた。




 心地よい疲労感が体を包み込んでいた。彼の胸に顔を埋めて深呼吸をする。もう、あの女の匂いはしない。ざまあ見ろと思いながら、すんすんと匂いを嗅ぐ。

「そろそろ晩飯作らないとなあ」彼が言った。「なにがいい?」

「んー。なんでも」

「それが一番困るんだけどなあ」

 彼が苦笑する。

 困っている彼を見るのが怜は好きだった。だから、食べたいものがあっても必ず一度はこう答えるのだ。

 普段はそういうらしさはないけれど、こう言う風に困っていると年下らしい可愛らしさがかいまみえてついつい意地悪をしてしまうのだ。

「何か暖かいのがいいな。体が温まるような料理」

「さっきよりは具体的になったな」と彼は笑った。「がっつり食べたい気分?」

「どっちかというと」

「じゃあ豚汁にしよう」

「やった」

 えへへ、と笑みがこぼれる。

 やっぱり大丈夫だ。

 彼は自分から離れていったりなんかしない。

 キッチンに立つ彼の後ろ姿を眺めているとそんな確信めいた何かが浮かび上がってくるから不思議なものだ。

 夢で抱いた不安などもう、どこにもない。

 ないはずだ。

 それなのに胸の中ではなにかがざわざわと音を立てて揺らめいていた。まるで、窓の外で風に揺れる木々の枝葉のように。

 彼から漂ってきたあの女の匂いが気になっていたからだ。

 きっと、あちらから彼に抱きつくなりなんなりしたのだろう。こちらに対する嫌がらせだ。

 そのはずだ。

 だったらどうしてこんなに気分が落ち着かないんだろう。

 目の前に居るはずの、彼の背中が急に遠く見えて、思わず悲鳴を上げそうになった。

 まさかそんなことはあり得ない。だって彼はあんなに自分を愛してくれたのだから。そう、この疲労感がその証左。落ち着け。また、つまらない揺さぶりに翻弄されてしまっている。

 怜は彼に気づかれないように何度も深呼吸を繰り返した。それから厭な考えを振り払うように、着々と完成に向かっていく料理に思いを馳せた。今日の豚汁もきっとおいしいに違いない。彼が作って、彼と一緒に食べるのだから。

 それは疑う余地もなく幸せなことで、だからそれを待っているいまこの瞬間も幸せで、不安なんて何もないのだ。そう言い聞かせるように、何度も何度も念じながら彼の背中を遠く眺めた。

 不意に、得体の知れない違和感が襲ってきた。怜は目を瞬かせ、その原因を探した。そうせずには居られないほど、その違和感は胸の中に、嵐が襲来する直前の様などろっとした風を吹かせたのだ。何か嫌な感じがする。じっと彼の背中を見つめて、ようやくその理由にたどり着いた時、彼女は竦み上がり、茫然自失とし、悲鳴を上げそうになった。

「ねえ、そうちゃん」落ち着けと胸の中に念じながら、丁寧に舌を転がし、彼に問いかけた。

 自分では普段通りに声を掛けたつもりだったけれど、どうやら上手くごまかせてはいなかったらしい。彼は何か異変を感じ取ったように背筋を緊張したように突っ張らせてから、ゆっくり、ぎこちなく振り返った。

「どうかしたか?」

 彼の表情には不安の色が浮かんでいた。何かしでかしたか。どこで地雷を踏んでしまったのか。そんな焦りが見て取れる表情だった。

「絆創膏貼ってるね」

 違和感の正体。それはすなわち、昨夜自分が彼に刻みつけたはずの刻印が隠されていたことだった。渦巻く感情は怒りなのか失望なのか。あるいは喪失か飢えか渇きか絶望か。彼がしまった、という顔で首元を抑えたとき、彼女の理性は胸中で暴れ回る感情の荒波の中で、丸太一つに捕まって漂流しているような有様であり、いつ飲み込まれてしまってもおかしくない危機にあった。

「ああ、これ」と彼は表情こそ後悔しているように見えたが、その実、声は軽かった。

 その刹那、ついに理性は荒れ狂う波間へと飲み込まれて言った。

「じっとしてて」

 怜は、彼に命令をした。お願いではない。そうしなければならないという楔を彼の胸に打ち込んだのだ。声をいつもより低くして抑揚を殺すだけでいい。そうすれば彼は必ずその通りにしてくれる。普段生意気な彼がこうしているだけで、少しだけ胸がすく思いがした。そう、自分が年上なのだから、本来はこうあるべきなのだ。そうして一時の満足を得ると、すぐに新たな飢えが、渇きが押し寄せて、彼女は立ち上がり、固唾を飲んで立ち尽くす彼のそばに行き、彼の肩に顔を埋めるようにして抱きついた。

 唇に触れる首筋の皮膚。

 いっそ咬み破いて、そこから溢れる血を舐め啜り、自分の舌を噛んで溢れ出した血を塗り込んで、何かも一体になってしまいたい。そんな欲求に駆られながら、強く吸い付いた。そして吸い上げて少し膨らんだ部分に軽く歯を立てた。彼の首筋の筋肉が一瞬びくりと躍動してから硬直する。痛みに耐えているのだ。

「これで、よし」

 唇を離すと、そこには美しく痛々しい自分の刻印が刻み込まれて居た。昨夜つけた物とは比にならないほどくっきりとしたそれは、きっともう少し時間をおけば腫れてきてじんじんと痛み始めるに違いない。痛んでいる間はきっと、間違いなく、自分のことを考え続ける。そう考えただけで体が熱を帯びたように暑くなった。ああそうだ、彼にもこの素晴らしい刻印を見せてあげなければ。いつも持ち歩いている手鏡でそれを彼に向けて映し出した。

「綺麗についたでしょ?」高揚感で頭がとろけてしまいそうになりながら、怜は彼を見つめた。

「ああ」彼はどこか困ったようにうなずいた。きっと、これをどうすればいいのか考えているのだろう。彼が困っている。ただそれだけで嬉しかった。そう、困ればいいのだ。生意気で、すぐに余所見をするあなたへの、これは私からの罰。怜は満足げに微笑んでいた。

「そうちゃんは、私の物だから。誰の物でもない。私の物」

 そう口にするのと同時に、彼に強く抱きしめられた。

「怜は俺の物だ」

 耳元で囁かれる当たり前の事実。けれど、それを改めて彼が口にすることに意味がある。これは、いわば確認の為の儀式なのだ。

「私はそうちゃんの物。そうちゃんが居ないと生きていけない出来損ないの生き物なの」

 だからこうして、今更のような事実を口にする。

 お互いがお互いを、何もであるかを知らしめ合うために。

 けれど、箍を失った感情は、意図していなかった言葉まで唇から零れさせた。

「だから、絶対に、私のそばからいなくならないでね」

 きっと、あの悪夢が原因なのだ。不意に飛び出した懇願のその必死さに、自分でも驚いていた。急に不安が胸の中に広がっていく。先ほどまであった充足感は一体なんなのか。まるで穴の空いた桶だ。どれだけ満たしてもすぐに枯れていく。

 不意に強く抱きしめられた。息苦しさを覚えて顎を上に向けた瞬間、空気を求めて喘いだ唇を強引に奪われた。普段の彼がしないような乱暴な舌遣い。こちらの舌を吸って絡めてしごいて。息継ぎをする暇さえ与えられない。頭がぼーっとしてきて、視界が白く霞み始めた。もし、このまま死ねたら。そんなことを考え始めたところで、漸く彼の接吻から解放された。足腰が立たなくなっていて、その場に力なく崩れ落ちた。しばらく肩で息をして、必死に酸素を取り込んだ。苦しい。けれど、それがどこか心地よかった。彼が与えてくれた苦しさなのだから、当然だ。

「キスで殺されるかと思った」彼を見上げながら怜は言う。

「ごめん」

 彼は申し訳なさそうにしていたが、その実、こちらを見る目はどこか優越感に歪んでいて、見下されているような気がした。

 体の芯がじんじんとうずき始めた。

「ううん。すごく良かった」笑いそうになる膝を押さえつけて、ゆらりと怜は立ち上がる。もっと、もっと欲しい。その愛が。その苦痛が。

「大好き、愛してる」

 だから今度はこちらから求めた。

 視界がぐるりと回るほど乱暴に抱き寄せられた。一瞬、胸中に怯えが去来した。いままで見たこともない暴虐な彼は、その唇と舌で一切の息継ぎすら許さないほど、激しく愛を押しつけて、同時に貪った。

 苦しい。息が出来ない。苦痛と法悦がいっぺんに押し寄せてきて、頭がパニック状態になった。彼の背中に爪を立て、バタバタと乱暴に叩いて。けれど、段々苦痛が悦楽に塗り替えられていき、体からふっと力が抜けた。唇が離れると同時にその場にぺたんとへたり込んだ。内股に生暖かい物を感じたのと同時に、笑いがこみ上げてきた。最初は微笑程度だったものが、肩を揺らし、やがて哄笑へと変わっていった。いつの間にか彼も一緒に笑っていた。

 違う。本当は、こんな愛し方がしたいんじゃない。もっと普通に、ただ二人で幸せになりたい。ただそれだけなのに。

 どうして。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 付け焼き刃の狂気など、一瞬でも冷静になってしまえば、後に残るのは捨て犬のような孤独な正気だけだ。

 だから笑い続けた。このまま本当に狂ってしまえばいい。そうすれば、何もかも放り出して彼のことを永遠に縛り付けられるのだから。

 けれどそう願えば願うほど、夜の帳が降りてくるように正気は訪れる。

 気づけば胸中に吹き荒れた嵐は収まっていた。凪いだ中で、どんよりと暗い夜の海のような暗黒のなかに居た。

 彼もとうとう笑い疲れて、黙り込んでしまった。

 内股の生暖かさもすっかり冷えてしまって、濡れて張り付いた下着の感覚が酷く不快だった。家の洗濯機で洗えるポリエステルの着物で良かった、などと冷静に考えている自分が嫌になりそうだった。自己嫌悪と羞恥がいまさらになって押し寄せてきた。彼に粗相の後始末を押しつけて、逃げるように風呂場へ向かった。

 シャワーを浴びて台所へ戻ると、夕飯は用意されていたが、彼の姿が見えなかった。食事も一人分しかない。気を遣って、先に食べたのだろう。ありがたいような気もするし、気まずくてもいいから一緒に食べたくもあった。

 一人惨めな気持ちになりながら夕飯を食べた。

 自分でリクエストした料理なのに、味気なく感じてしまう。

 ぽろぽろと涙が零れて、豚汁のお椀の中に落ちた。

 あれだけの事をしても渇きは潤せなかった。

 理由は判っているのだ。認めたくはなかった。彼なら、言わずとも理解して、忖度してくれると思っていた。何より、自分の行動が彼を傷つけたしまったという事実が受け入れがたく、ずっと逃げ続けていた。

 彼も自分と同種の渇きを覚えているに相違ない。だからこそ、あんな風に乱暴に押しつけて、貪ったのだ。今頃、同じように煩悶しているのだろうか。

 自分が逃げたせいで二人の距離が変わったしまった。そうして生まれた隙間をなんとか埋めようとしてこうなった。

 全部自分のせいだ。

 判っている。

 でも怖い。

 逃げずに向き合った時、彼からどんな感情が返ってくるのかが。

 もし愛想を尽かされたらどうしよう。

 考えただけで奈落の底から月明かりのない夜空を見上げるような、果ての無い絶望が押し寄せてくる。

 今日もまた、その幻想に打ち勝てなかった。

 食事を終え、食器を流しに片付けて。

 部屋に戻るとすぐに原稿に取りかかった。

 そうして彼女はまた目を背けた。


               つづく

順番がちょっと前後しました。ちょっと描写が過激だったかも。数日中にもう1話更新したいです

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