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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第三章
20/55

thirst for


      1



 しとしとと降る雨を見上げながら、吐き出した息の白さに思わず震えそうになった。いや、寒いので実際に震えていた。

「参ったなあ」

 朝は晴れていたし、天気予報でも降水確率は高くないと言っていたのですっかり油断していた。

 傘もカッパも何もないのである。いっそ開き直って自転車で雨を切りながら帰るという手がない訳ではないが、出来れば最終手段としてとっておきたい。なにせこれが雪でないのが不思議なほどの冷え込みなのだ。そんなことをすれば絶対に体調を崩す。

 踵を返し、昇降口を離れ、図書室へ向かった。とりあえず時間を潰すのであればそこしかないだろう。待ったところで雨が上がるかは定かではない。もしかしたら余計に雨脚が強くなるかもしれない。そうなったら、その時はその時だ。開き直ってずぶ濡れになろう。

 受験前ということを差し引いても、図書室はいつもより人が多く、普段の静謐さが幾分失われていた。恐らく同じように天気予報に欺かれた犠牲者たちが屯しているのだろう。普段ここに来る習慣がないものだからマナーが徹底できていないのだ。やれやれ、と思いつつ俺は本棚をぶらぶらと見て回る。といっても大した蔵書があるわけでもない。所詮は中学校の図書室だ。まあ、それでも古典の文学などはそれなりに定番が抑えられている。さて、今日は何を読もうか。

「あれ、宗平?」

 とりあえず目に付いた永井荷風に手を伸ばしかけた時だった。背後から聞き慣れた声で呼びかけられて、俺は「奇遇だな」と振り返った。

「奇遇っていうか、最近はずっとここで勉強してるんですけど」

 夏井がじとーっとした目で俺を見る。

「そっか。がんばってるんだな」

「他人事みたいに」

「いや、俺だってやってるぞ。一応」

「一応、でしょ。あーあ。推薦受けれる人は気楽でいいなあ。宗平だったら多分受かるだろうし」

「判らんぞ。だから勉強もしてる訳だし」

「で、何読もうとしてたの?」

「ああ」と俺は何気なく一冊本棚から抜き取る。先ほどは永井荷風だったが、別になんだっていいのだ。「これ」

「えっと、谷崎なんとか一郎」

「谷崎潤一郎な。そんなんで大丈夫かよ」

「へ、平気だし。ちょっとど忘れしただけだし」そう言いながら彼女の目は泳いでいる。

「面白いの? それ」

「恋愛小説? だし、夏井でも読めるんじゃないかな」春琴抄の表紙に目お落としながら俺はやや惑いつつ答えた。まあ恋愛小説であることには間違いないだろう。

「私でもって、どういう意味?」

「ほら、おまえさくらさんのファンだろ?」

「そうだけど」

「さくらさんも好きだし」直接そんな話はしていないが、彼女の作品を読む限り影響を受けているのは明白だったので俺はやや確信を持ちつつ、でまかせを言った。

「へえ、じゃあ後で私にも読ませてよ」まんまとだまされた夏井は好奇心で目を輝かせる。

「ああ、後でな」

 まずは勉強だ、と俺は肩をすくめた。

「勉強かあ」と夏井はため息をつく。「なんかやればやるほど不安になってくるんだよね」

「それは判る」

「問題集解いて、答え合わせして、それで点数が良くても、本当にこれでいいのかなって。足りないんじゃないかなって、すごく怖くなる」

「これだけやれば大丈夫って、安心出来るラインってどこにあるんだろうな」

 怜が言うには、やるべきことをしっかりやりきれば不安になんてならないそうだが、そもそも頭の作りからして凡人とはかけ離れている人間の言うことだから、果たしてどこまで参考にしていいのやら。

「そういえば、席は取ってる?」

「いや、今日混んでるしどうしようかってちょっと困ってた」

「じゃあとなり来なよ。空いてるから」

 言うが早いか。夏井は俺の手を取って歩き始めた。瞬間、周囲の空気が変わった。注目が、一手に集まっている。

 夏井はこの学校でも指折りの有名人であり、見た目は間違いなく学校一可愛いので、彼女のことを意識している男子は多いし、女子からは嫉妬やら畏怖やら羨望やらそんな目で見られていた。そんな彼女が、特定の男子と仲良く話し、その上手をつないでいるというシチュエーションが注目を集めないわけがない。そして彼女がそういう計算を出来ないわけがない。

 俺はやれやれと半ば辟易しつつ、しかしされるがままなすがまま、彼女について行った。変に注目されるのは居心地が悪いが、とりあえず彼女について行けば時間つぶしのための席は確保できるのだ。

「みんな見てたね」悪戯っぽく夏井は笑った。「噂になるかな」

「なってるよ、もう」俺はため息を吐いた。先ほどから既にヒソヒソ話が聞こえ始めている。が、俺が言ったのはそういうことではない。三学期が始まってすぐに、夏井の積極果敢な攻勢が始まった。ことあるごとに身体的接触を伴うスキンシップを、わざと人目があるところでするようになったのだ。

 怜の手の届かないところで、自分に有利な環境を作り上げて仕舞おうという打算もあるのだろうが、目下彼女の目標は、親友であるはずの井上に対する牽制に他ならなかった。

 どうも俺が入院したことがきっかけで、夏井と井上の間で何かがあったらしい。恐らく、と保険をかけなくても、公康が言っていたことが絡んでいるのだろう。

 その証拠に、夏井がスキンシップをとる度に、井上が間に割って入ってくるという場面が何度もあったり、あるいは運動部の女子の間では俺が井上といい感じになりつつあるという噂が流れていたりしているらしく、こんな時期に揃いも揃って受験生が、勉学と関係のないことで壮絶な情報戦を繰り広げているという展開になっていた。おまけに最近は二股をかけていたのが原因でこうなった、という噂話まで流布し始めていて、醜聞が当事者の手を離れて一人歩きをする段階にまで到達しつつあった。

 身から出た錆であることは強く否定は出来ない。思えば、夏井に対しては割とフランクに接していたし、周囲から見れば友達以上恋人未満程度には見られていたのかもしれない。だが、井上に関してはいまいち思い当たる節がないのだ。夏井といつも一緒に居るから、必然的に彼女と共にいる時間も長かったが、それだけのはずなのだ。でもそういう感情を抱かれていたということは、無自覚に何かしでかしていたということなんだろう。

 我ながら春琴抄なんて手に取ってしまったことが皮肉のように思えてきた。倒錯していても描かれる恋模様はひたすらに一途だ。いや、果たしてこれは恋なのだろうか。崇拝とも言えるし。なんてことを考えつつなんやかんや読書に熱中する。

 それからしばらくして、「ね、宗平」と隣から呼ぶ声がして、ふと現実世界に引き戻された。

「やんだみたい」

 窓の外に視線を向けると、確かに雨は降っていなかった。相変わらずどんよりと鈍色の雲が垂れ込めている。またいつ降り出してもおかしくはないだろう。俺は本のページを閉じて、席を立った。文庫本を返却用の棚に押し込む。持って居る本なので借りる必要はない。

「あ、待って」と夏井が後ろから手を伸ばして、春琴抄を取った。「私借りて帰る」

「俺持ってるし、貸すけど?」

「ううん。いい」と彼女は首を横に振った。「図書室に通う理由作っとかないと、どっかで気持ちが切れそうだから」

 こいつはこいつで色々考えて真剣にやってるんだな、と今更ながらに感心してしまった。

「俺はもう帰るけど、どうする?」

「私も帰る。やりたいところまではやったし、それになんか今日は煩くてあんまり集中出来ないって言うか」

「普段来ない奴が来てるからだろうな」でもその煩い雰囲気にあてられたのか、俺たちの話し声も図書室で交わす物としてはあまりふさわしくない程度には大きい。

「荷物まとめるからちょっと待ってて」そう言って彼女は早足で自習用の机に戻るとそそくさと勉強道具を片づけた。

「おまたせ」

「待ちくたびれた」俺はそう言っておどけてみせた。周囲の視線が再び俺たちに集まっていることには気づかない振りをしておく。いちいち反応していたら気疲れしてしまう。

 図書室を出た。すぐ目の前に階段は使わずに、少し廊下を歩いた先にある別の廊下を使った。俺は別に近い方でも良かったのだが、夏井が何故かそちらに拘ったのだ。

「みんな見てたね」夏井が言った。彼女は階段を一段一段丁寧に踏みしめて降りていた。「どう思われてたのかな」

「さあな」俺はため息を吐いた。「誤解されてないといいな」

「誤解って?」

「言っておくけど、俺はおまえとは付き合えないからな」

「浮気相手が一人から二人に増えるだけじゃん」

「お前なあ」

 とんとんとん、と一段飛ばしで降りて、踊り場に出た彼女はくるりと振り返り、「ずっと宗平のことが好きだったんだから」

「それは、まあ」こう言う時、俺はなんと返せばいいのか判らずに口ごもってしまう。

「相川先生なんかよりずっと前から、きっとお姉さんと同じくらい、私は宗平のことが好き。だから簡単に諦めることなんて出来ないんだよ」

「そうは言ってもだな。俺は怜が居るわけだし」

「相川先生とどっちつかずな関係続けてる人がそういうこと言っても説得力全然ないから」

 そりゃ確かにそうだ。

 踊り場に降りて、夏井のそばを通り過ぎて、先に降りた。

「待ってよ」と背後で彼女の声が聞こえた。

「早くしろよ」俺は立ち止まらずに言った。「傘持ってないんだ。止んでるうちに帰らないと風邪ひくだろ」

 足音が追いかけてくる。「それならもう手遅れだよ」

 俺は立ち止まり、振り返った。

「ほら」と夏井は踊り場の窓を指さした。吹き付けられた雨が滴になって窓ガラスに垂れている。

「そこで一つ提案があります」と彼女はにやりと笑う。「私は傘を持って居ます」

「はい」俺は相づちを打った。何が言いたいのか判っていたが黙っていた。

「宗平は持ってません」

「そうだな」

「それぞれ別に帰ると、宗平だけずぶ濡れです」

「つまり?」

「相合い傘」と彼女は言った。

「断ると言ったら?」

「うーん」と考える仕草をしてから、「きゃーって悲鳴を上げます」まじめな顔で彼女は言った。

「悪質すぎるだろ、その脅し」

 ここの階段は普段ほとんど人気がなく、昔そういうことがあったとか無かったとか噂されている曰く付きの場所なのだ。

「つまり宗平に拒否権はありません」勝ち誇ったように彼女は言う。

 最初からそのつもりだったのだ。

 ひとまず、変な波風が立たないように、やりすごそう。

 嘆息して、窓の外を見た。仄かな期待を裏切るように、雨足は強まっていた。

「判ったよ」俺は頷いた。

 そしてため息をついた。「やった」と喜ぶ彼女のことを不覚にも少し可愛いと思ってしまったことにたいするため息だ。自分で自分が嫌になる。

「傘は宗平が持ってね」

「まあそうなるな」

 相合い傘で女の子の方が傘を持つなんて聞いたことがないし、そもそも俺の方が背が高いので夏井に持たせたら傘が頭につっかえてしまう。





 靴を履き替えピロティに出た。柱にもたれてぼんやりと目の前の光景を眺めていた。雨足が強く、地面が雨のしぶきで白く霞んで見える。空気が冷えている。吐き出した息が白くその場にとどまって、ゆっくりと消えていく。

 ぱたぱたと背後からせわしない足音が聞こえてきた。

「ごめん、待った、よね」

「もうちょっと待たされたら一人で帰るところだった」俺は言った。

「今日の宗平、なんか意地悪」

「俺はいっつもこんなんだろ。お前に対しては」

 しょんぼりと肩を窄めて彼女は、「そうだけど。でも流石にちょっと傷ついたかも」

 急にしおらしくなるのは反則だと思う。判ってやっているのか天然なのかは判らないけれど。

「それにしてもなんで傘教室に持って行ってたんだよ」

「大事な傘だもん」ぎゅっと傘を胸に抱きしめて彼女は言う。

「忘れてたら世話ないけどな」

「うぅ」

「ほら」と俺は右手を差し出した。

 夏井は不思議そうに首を傾げた。

「傘」

「え? いいの?」

「いいのって、嫌ならお前の傘奪って一人で帰るぞ。マジで」

「そんなことない。っていうかそれやったら本気で怒るからね」

「おお、怖い怖い」

 夏井から傘を受け取る。女物というにはあまりにも大きく、そして渋いコウモリ傘だ。

「それ、お父さんから貰ったんだ」とはにかみながら彼女は言った。「小さい頃からこの傘が好きで、雨の日、たまに時間がある時とかにね、この傘をさして迎えに来てくれることがあったんだ。それがすっごい楽しみだったの」

 なんでかよく判んないんだけど、と照れ笑いを浮かべた彼女はそのまま俺の腕に抱きついて来た。

「ほら、早く早く」

 俺は文句を言うのも面倒になって、されるがままの状態で傘を開いた。

「なるほど、良い傘だ」

 つくりがしっかりしている。持ち手の部分の手触りも良い。大事にされている道具特有の暖かみがある。

 屋根の外に出た途端に、耳をつんざくような雨音が傘から弾けた。

「すごい降ってるね」

「なんだって?」

「雨、すごいね!」

「もうちょっと雨宿りした方が良かったかな!?」

「そうかも! でも、これも楽しい!」

「無駄に大声だもんな!」

 あははは、と二人で笑い合う。正直すでにつま先に雨が染み込んできて指先悴んで来ているのだが、こうしてバカみたいなことをしているとそれもさほど気にならない。本当に、こいつは腐れ縁の友人としては最高の相手だと思う。

 すっかり排水能力の限界を超えているらしく、池みたいになったグラウンドを横目に校門へと向かう。しばらく歩いていると雨脚がふっと弱まった。

「一塁の辺りにめっちゃ水溜まってる。ちゃんと整備してなかったな」

「流石チームを全国に導いたマネージャーは鋭い」

「うるせえ」

「照れてる」と夏井はおかしそうに笑った。「でも、みんな宗平が居たからあそこまで頑張れたって言ってたよ」

「江島と公康のおかげだろ。ほとんどあの二人で持ってたようなチームだし」

 正直江島はなんで軟式野球部に来たのか不思議なくらいの実力者だったし、公康は公康で恵まれた体格とそれに見合ったパワー、そして江島の球をしっかりキャッチング出来る技術とでチームの大黒柱となっていた。

「けど、色々やってたんでしょ? 試合前に色々準備したり、練習のメニュー考えたりとか」

「それくらいしか出来ないからな」

 それ系の本を読んだりリハビリに通っている間に顔見知りになった病院の人や紹介して貰ったトレーナーさんに色々話を聞いて得た知識を試していただけのことだ。大したことはしていない。それにそんなことは俺がやっていたことの中のごく一部の例外であって、普段はボールを磨いたりグラウンド整備に精を出したりと諸々雑用をやっていただけだ。

「なんだっけ。レモンの砂糖漬けと、残ったシロップを炭酸で割ったレモネード」

「ああ、あれか」エネルギー補給の為に作っていたものだ。「そういや、江島の奴やたらとあれ好きだったよなあ」

 隙あらばぱくぱく食べていたので、いつの間にか、バックネット裏に置いてあった冷蔵庫には江島専用の砂糖漬けのタッパーが常備されていた。

「もうすぐ卒業なんだなあ」ぼんやりと呟いた。このグラウンドであった色んな事がもうすっかり過去の事になっている。そのことに気がつくと同時に切なさが胸に去来して俺はちょっとだけ泣きそうになる。

 でも「その前に受験だけど」と夏井が心底嫌そうな顔で言ったのでセンチメンタルな気持がすっかり吹き飛んでしまった。

「もうすぐ推薦入試あるからなあ」ここしばらくは面接の練習だの作文、小論文の練習だので放課後残ってばかりだった。今日は職員会議があるとかで久しぶりに何もなかったが、結局雨を凌いでいるうちに遅くなってしまった。そういえば怜はどうしているだろうか。自由登校になってから、普段に増して体に悪そうな生活をしているから心配だ。

「ちょっと」

 不機嫌そうな声とともに腕をぐっと引っ張られた。

「なんだよ」

「私と居るときは、私の事だけ見ててよ」拗ねた顔で彼女はそんな我が儘を言う。

「自分の婚約者の心配をして何が悪い」俺は言った。

「悪くないけど嫌なの。いまくらい良いじゃない。恋人ごっこ的な感じで」

「ごっこで済ますつもりもないクセに」

「じゃあ傘返して」

「明日学校で返してやるよ」

「は?」

「冗談だよ」

 そんなやりとりをしているとなんだか無性におかしくなってきて、二人して、傘の中でこみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、それでも耐えきれずげらげらと笑い合った。

 校門を出てしばらく歩くとバス停が見えてきた。屋根の下には同じように天気予報に騙されたと見る学生の姿があった。その中に俺たちも加わった。

 傘を閉じて、水気を払ってそれから丁寧に巻いてネームで止めた。

「傘、ありがとな」傘を持った手を夏井の方に差し出した。

「え? うん」と彼女は不意をつかれたようにぽかん、と口をあけて、それから寂しそうに「もうおしまいか」と呟いた。「バスが来るまで、私も一緒に待ってていい?」

「いいけど、なんで」

「見送りだけしようと思って」

 バス停の屋根の下はまるで水底のように静まり帰っていた。そこに立つ誰もが他人に無関心で、各々本を読むなり参考書を開くなり、はたまたこっそり持ってきていたスマホをいじっていたりして、狭い空間の中で確保した最低限度のパーソナルスペースに引きこもっていた。

「ねえ宗平」と雰囲気にあてられたらしい夏井が声を潜めて「静かだね」

「雨音はやかましいけどな」また雨が強くなったようだ。「お前一人で帰れるか?」

「平気。流石に歩いて帰るのはしんどいから、バスで帰るつもり」

「そっか。方向違うのにつきあわせて悪いな」

「いいよ。どうせ反対方向にちょっとあるけばバス停あるんだし」

 バスの到着まであと十分はある。学校の近くにバス停があるのはありがたいが、本数が少ないので少々難ありだ。尤も、10分程度ならまだ良い方だ。先客たちは一体どれだけ待っているのだろうか。何せこの時間帯は一時間に一本しかない。

 とはいえ、こうしてある種閉塞的な空間で自分の世界に集中して時を忘れるのも悪くはないのかもしれない。

 なんてことを考えつつも夏井が隣にいるのでそうも行かない。喜ぶべきか、嘆くべきか。彼女は少し遠慮がちに「あの」とまた話しかけてきた。

「なに?」

「奈々子のことなんだけど」

「井上がどうかしたのか?」

「結局、宗平は受け取ったの?」

「受け取ったって?」

 何を? と聞き返そうとして、しかし彼女の唖然とした顔を見てそれを飲み込んだ。

「バカじゃないの」と夏井は言った。「なんで渡さなかったの。私を裏切っておいて」

「おいおい、何の話だ」

 あんまり穏やかな感じではない。

「ねえ、宗平。本当に、受け取らなかったの? 宗平が入院してた時に奈々子が一人で来たでしょ?」

「ああ、それがなにか」

 そこで俺はふと、彼女が紙袋を持って居たことを思い出した。ついでに、あの日公康と交わした言葉が再び脳裏を過ぎった。

 やっぱりあれはそういうものだったのか。川面に消えた紙袋を今更のように思い出す。

「宗平ってさ」と夏井は目の前の道路に視線を漂わせながら、「昔はただ鈍いだけだったけど、最近は気づいても見て見ぬ振りしてるよね」

「否定はしない」

「でもすぐに流される」

「はい」

「奈々子は、宗平のこと好きなんだよ」

「知ってる」

「いつから?」

「入院中に知った」

「やっぱり鈍いね」

「どっちだよ」

「だって、ほら、一年の時の夏祭り覚えてる?」夏井は俺を見た。「ナンパされて変なのに絡まれたところを助けられたり、必死になって景品とったり。あの時からずっと、奈々子は宗平のことを好きですって目で見てたんだよ」

 本人は隠してるつもりだったみたいだけど、と彼女は笑った。

 俺はその話を聞きながら、思いの外記憶がはっきりしていないことに困惑していた。怜と一緒に行ったことは覚えている。二人で花火を見たことも。しかし夏井と井上と何をしていたのか、という部分がすっぽり抜け落ちたように思い出せなかったのだ。

 それだけ、当時の俺は取るに足らないことと感じていたことだろうか。

 だが、それにしたって妙な感じがする。

 胸の奥がざわざわとして、急に得体の知れない不安が襲ってきた。

「それはそうと」と声色を不自然なほど弾ませて彼女は、「変なところ怪我したんだね」

「え? あ、ああ。これか」

 急に話題が変わったので、戸惑いながらも、俺は苦笑を浮かべて首筋の絆創膏に指で触れた。

「ニキビ潰したんだよ。うっかり」とっさに俺はそう答えた。

「へえ。ちょうどいい場所だから私はてっきり」そう言って彼女は意味深に微笑んだ。

 俺はため息を吐いた。「想像してる通りだよ」

「相変わらず、独占欲が強い人なんだね。まるで私に対する嫌がらせみたい」

「怜の奴お前のこと大嫌いだからなあ」

「私も大嫌い」にこやかに彼女は言った。「小さい時なんてさ。宗平が見てないところで結構いやがらせされてたんだから」

「マジか」

「そう。すっごいくだらないの。でっかいからって私の頭の上に葉っぱとかカナブン乗っけて遊んだりしてて、それ見てぷーくすくす、って指さして笑うの。だから私もやり返してた。トノサマガエル投げつけたらキャーッて悲鳴上げて田圃に落ちたときは面白かったなあ」

「おい。あれお前のせいだったのか」

 幼い頃の怜が田圃に落ちたことなんて一度や二度なんてもんではないが、なんとなくその時のことは覚えている。

「確か顔面から行って全身泥まみれでのたうち回ってたんだよな」

 ドロをまき散らしながら水が張られたばかりの田圃の中をのたうち回る美少女というとんでもない絵面にしばし困惑して、それからまたか、と公康と顔を見合わせてから一緒になって怜を抱えて田圃から引きずりだして、畦に寝かせてやったのだ。その時、かっちゃんこと夏井は確か何もせずに見ていたはずだ。どうやら何もしていなかったのではなく、何もせずに笑いを堪えていただけだったらしい。

「そうそう。あれ顔面にカエルがべちゃってぶつかったから」

「カエルは無事だったのかよ」

「そっちの心配?」

「怜が無事なのは現在進行形だからな」

「あーうん。どうだろ、多分大丈夫だったんじゃないかな」困ったような顔で夏井は言った。「なんかげこげこーって逃げてったような覚えがあるし」

「なら良かった」

「良いんだ」不服そうに彼女は、「もっと怒ったりしないの?」

「いや、怜も悪いしなあ」俺は言った。「あいつ俺の前では何となく取り繕ってるけど、結構性格悪いし」

「そこは気づいてたんだ」

「小学生の頃とか凄かったぞ。周りに手下みたいなの従えて完全にお姫様ななんかみたいになってたからな」

 中学以降、というよりもあの事故があってからは何故かあまり学校のことを家で話さなくなったのでよく知らないが、さくらさんの話を聞く限りでは高校でも薄倖の美少女キャラとして周囲に人を集めては花よ蝶よともてはやされて前人未踏の高嶺の花としてスクールカーストの頂点に居たらしい。自分の容姿から相手が抱く幻想をよく理解していてそれを利用している辺り、性悪さは順調に成長しているらしい。

「それなのに宗平はあの女が好きなんだね」

「まあ昔からずっとだからなあ」

「私がかっちゃんだったときから?」

「多分」

「年季入ってるなあ」夏井はため息を吐いた。「それに一途な浮気性とか面倒くさいなあ」

「幻滅してくれていいんだぞ」

「生憎」と夏井は俺の手を握って、「私の恋も、相当年季が入ってるから、そうは行かないんだなあ、これが」

「そりゃどうも」

 寄り添ってきてこちらに体を預けてくる。その体重を、受け止めきるでもなく、はねのけるでもなく、ただぼんやりと感じていた。

 それとなく周囲を見回してみたが、誰もこちらに興味を持っている風ではなかった。図書室での胃がしくしくしてくるような衆目とは打って変わって、ここは平穏だ。

 それからしばらくしてバスがやってきた。先ほどまで自分の世界に没入していた連中が我先にと飛び乗っていく。まるで訓練された軍隊か何かのようだ。

「それじゃ、また明日」と言って夏井ははにかんだ。

「ああ、気をつけて帰れよ」俺は言った。

 最後に俺が乗り込んで、席に着いたところでバスは走り出した。

 雨足は依然として強い。

 雨に濡れた町並みをぼんやりと眺めていると、ふと大事なことを忘れていたことに気がついた。

 目的のバス停に着いたからと言って、そこが家である訳がないのだ。

「くそ。あのまま何食わぬ顔で傘借りとけば良かったな」

 独りごちて苦笑する。

 最寄りのバス停から自宅までは徒歩数分だが、これではどのみち濡れ鼠だろう。帰ったらすぐに着替えてシャワーでも浴びよう。

 

     2


 冷えた体に熱いシャワーが実に心地よかった。

 帰宅してすぐに着替えを用意すると、一目散に風呂場へと向かった。こんな大事な時期に体調を崩すのはごめんだ。

 体も温まったところで風呂場から出て、部屋着に着替え、とりあえず何か飲み物でも飲もうとキッチンへと向かった。暖房で暖められた空気が柔らかく全身を包み込む。

 そう言えば怜はどうしているのだろうか。そんなことを考えつつココアを入れてリビングに行くと、彼女はそこに居た。

 よくよく考えれば暖房が効いているのだから居るに決まっている。物音一つなく、気が付かなかったのは、彼女がソファの上で安らかな寝息をたてていたからだ。

 裾や襟元が無頓着に乱れた寝姿は、見慣れていても思わずどきっとしてしまう。というより悶々としたものが沸き上がってきた。正直なことを言うと夏井にくっつかれているときからそれは溜まって来ていたのだ。最近の彼女はとてもボディタッチが多いし、妙にいいにおいがするし、やたらと胸を強調してくる。今日だって相合い傘の間、ずっと押しつけてきていたのだ。修行僧のような心持ちでそれをずっと耐えていた。耐えなければならない相手だからだ。

 しかし怜は、間違いなく恋人であり、婚約者であり、そういうことは何度もしている相手である。が、流石に寝込みを襲うなんて言う野蛮なことは出来ない。

 テーブルにマグカップを置いて、それから反対側のソファに腰掛けて、彼女をじっと見守っていた。

 不意に、彼女の眉根がぐっと寄って、苦悶の表情とでもいうのだろうか、何か苦しそうに呼吸を乱し始めた。

 俺は心配になって彼女のそばに行き、手を握ろうとした。だがそれより早く彼女の手が伸びてきて俺のシャツの裾を掴んだ。

 ゆっくりと彼女の瞼が開いていく。

 ばっちりと目があったところで俺は言った。

「おはよう」

 怜がぐっと裾を引っ張った。

 彼女の上に覆い被さるようにソファの上に倒れ込んだ。

「何か怖い夢、見てたのか?」

 怜はとても怯えた目をしていた。

 俺は彼女の頬にそっと手を添えた。

「うん」と答えて、彼女は俺の手に自分の手を重ねた。手の甲に感じる彼女の少し低い体温。それをしみじみと噛みしめていたら、不意にそれが消え去り、はっとした瞬間にはもう、強く抱き寄せられ、息苦しい程の接吻が始まっていた。

 彼女のその艶めかしい息づかいが耳朶をくすぐった瞬間、理性がどっかに吹っ飛んだ。



     3



 夕飯を作りながら今し方のことを反省していた。つまるところ欲望に負けたのであるが、自分の中に、夏井と親しくしていたことに対する埋め合わせのような、言い訳がましい何かがついて回ってきていて、それでなんだか怜に対して申し訳ないというのか、後ろめたいというのか。

 つまるところ自己嫌悪に陥っていたのである。

 しかしながらダイニングのテーブルに頬杖をついてこちらを眺めている彼女の機嫌はさほど悪くなさそうに見えるのでそこまで気にすることではないのだろう。

 それにしても彼女は一体、どんな夢に魘されていたのだろうか。以前からこういうことはあった。やはり、両親を亡くし、いままで顔も知らなかった親戚の家を転々としていた日々の悪夢を見ていたのだろうか。正直な所あの頃の怜がどんな目に遭っていたのか俺は知らない。彼女が話さないからだ。父さんは何か知っているらしいが、怜が話さない以上それを口にするつもりはないらしい。

 へたれですぐに甘えてくるくせに、肝心なことは一人で背負い込んで、話してはくれない。きっと何か意図はあるのだ。つらすぎる過去だからこそあまり思い出したくないのかもしれない。

 けど、そこでどうしても考えてしまう。

 俺に何か足りないところがあるから、頼ってもらえないんじゃないか、と。

 いや、現状を考えればそれも致し方ないのかもしれない。さくらさんとのことも、結局何も解決出来ていないし、夏井や井上のこともある。どうにかしなければならない問題は山ほどある。

 漫画家になったことを話してくれなかったのもそれが原因だったのだろうか。

 胸の奥にわずかな痛みが兆した。それは母さんの口からその事実を知った日から、ずっと疼き続けていた物だった。

 俺が頼りないから、俺に遠慮して、彼女は自分が夢を叶えたことを隠していたのか。あるいは他に何か理由があるのか。

 本人がすぐ後ろにいるのだから、訊ねれば良いのだ。過去のことと違って、これはそこまでデリケートな問題ではないはずだ。

 そう思って振り返り、彼女と目が合うと、俺はただ微笑み返すだけで、肝心な言葉は何も出てこなかった。

 俺は怖いのだ。

 もし本当に彼女が俺に遠慮していたら、と思うと。

 いや、本当に恐れているのは、彼女が遠慮していたことよりも、俺が彼女にそんな遠慮をさせてしまっていると言う現実の方だ。そんなある種の哀れみとも言える感情を、俺に対してもし抱いていたら、これまでのことがまるで道化のように思えてしまって、だから怖いのだ。

「ねえ、そうちゃん」

 俺は一瞬、びくりと身を固くして、それからゆっくり振り返った。

「どうかしたか?」

「絆創膏貼ってるね」

「ああ、これ」シャワーを浴びた後もなんとなく貼り直してしまっていた。怜の不満げな表情を見て、これは失敗だったな、と反省する。

「じっとしてて」彼女は少し低くて固い声色で命令した。

 俺は黙ってその通りにする。

 彼女は俺の前にやってきて、そして、まるで吸血鬼が首筋に噛みつくように、その赤い唇で吸い付いた。

 仄かな痛みが走って、俺は一瞬顔をしかめた。

 唇を離した彼女は満足げに「これでよし」と呟いた。それから手鏡を持ってきてつけたばかりのキスマークを見せてくれた。

「綺麗についたでしょ?」

「ああ」

 確かに、誰にも言い訳できないような正真正銘のキスマークが首筋に刻まれていた。

「そうちゃんは、私の物だから。誰の物でもない。私の物」

 俺は彼女を抱き寄せた。

「怜は俺の物だ」

「うん」と嬉しそうに彼女は頷いた。「私はそうちゃんの物。そうちゃんが居ないと生きていけない出来損ないの生き物なの」


 だから、絶対に、私のそばからいなくならないでね。


 まるで近い将来、そういうことが本当に起こるんじゃないか。そんな不安を抱かせるほど彼女のその懇願は必死だった。

 彼女がつけたキスマークはさながら魔女の刻印のように、甘い疼きを放ち、抱き寄せたままの彼女の体を強く抱きしめて、その唇を貪るように求めた。

 彼女の苦しそうな呻きが聞こえて、ふと我に返った。

 唇を離すと、彼女はその場に崩れ落ち、荒い呼吸を何度も繰り返した。

 上下する彼女の肩を見ているうちに、罪悪感が沸き上がってきた。

 感情のブレーキが上手く作動してくれない。

「キスで殺されるかと思った」

 俺を見上げてそう言った彼女の顔は、恍惚としていて、言葉とは裏腹に悦楽に満ちていた。

「ごめん」俺は言った。

「ううん。すごく良かった」そう言って彼女はゆらりと立ち上がる。「大好き、愛してる」

 俺は彼女の態度に何か薄気味悪い媚びのようなものを感じながらも、それがなんだか妙に心地よくて、だからもう一度彼女を乱暴に抱き寄せて、息の根を止めるつもりで唇を合わせた。

 背中に回された彼女の手が、もがくように爪を立て、ばたばたと暴れまわり、不意に脱力した。

 けれど問題はない。

 俺はそう確信しながら唇を離した。

 足腰が立たなくなった彼女は、再びへたり込み、肩をゆらしながら、くつくつと笑い始めた。

 次第に大きくなっていくその笑い声を聴いていると、段々訳も判らず可笑しくなってきて、気が付けば二人して笑い合っていた。

 互いに抱いた不安に土をかぶせるような、そんな上辺だけの狂気が二人を包み込んでいた。俺たちはそれから目を背けるように、とにかく声がかれてしまうまでひたすらに笑い続けた。




  

                      了

一ヶ月ぶりです。お久しぶりです。本編の更新も多分かなり久しぶりですね。次も多分一ヶ月後くらいになります。多分

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