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黎明の氷炎  作者: 雨宮麗
建国祭編

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93 「兄として四龍院家に終止符を」

 

 崇景(たかかげ)が肩を震わせながら伊助を睨みつけるその目には、絶望と虚栄だけが残っていた。

 もはや魔王の名も、龍の魔力の煌めきも、この父からは完全に失われていた。

 静かに崩れ落ちた男の、泣き出しそうなかすれ声が広間に広がった。


「伊助……私を見捨てる気か。お前は、私の息子だろう。お前は私たちの家族だろう!」


 弱々しいが酷く執拗(しつよう)な声。

 伊助は父の前に立ち尽くし、その叫びをただ受け止めていた。

 これまでもずっと、“父親”が自分を愛している証を、家族であることの温かさを、どこかで求めてきた。

 だが、この期に及んでなお、崇景の口からこぼれるのは、ただ己の救済を息子に縋る声でしかなかった。


 崇景は伊助の足元に膝をつき、なおも往生際悪く手を伸ばす。


「伊助、お前が家族だ。息子なら父を愛しているだろう? 私もお前を愛してきた。だから、助けろ。今こそ、家族として親として……」


 そう叫んだその手は、伊助からはるか遠くに感じられた。


 伊助の胸裏を一筋の冷たい痛みが走る。記憶にある幼き日の自分は、確かに父の腕に抱かれた温度を求めていた。心から、ただ一度でいいから「息子」としてまなざしをもらいたかった。

 しかしそれは、ずっと叶うことのない夢であり、父からの愛情は一度として向けられることはなかった。


 “もう、遅すぎるんだ”


 伊助は小さく息を吐く。あの日、父から向けられなかったまなざしが、今は哀れみの重さとなって胸にのしかかる。


「……俺が、貴方からその“家族”としての愛を願ったのは、もう十年以上も前の話です」


 その言葉は、崇景の心に鋭く突き刺さった。


「な、なにを……。私たちは家族だ。まだやり直すことが……!」


 崇景が低く唸った時、不意に室内の空気が震えた。

 そのとき、どこからともなく静かな声と足音が聴こえてくる。


「やり直し?できる訳が無いでしょう」


 ゆっくりと広間へ姿を現したのは、四龍院の次男で伊助の兄である四龍院初雪(しりゅういんはつゆき)だった。


 端正な顔立ち、崇景(たかかげ)鷹翁(たかひと)、伊助と同じ金の髪を持つ静かで端然とした雰囲気を纏う男。伊助とは違うが四龍院の血を引く赤い瞳はまっすぐに崇景や鷹翁へと向けられていた。

 初雪が広間中央へと歩み寄ると、凛とした空気が満ちる。

 その手には磨き抜かれた刀が握られていた。


 崇景が泣きそうな声で縋る。


「初雪……貴様まで私を裏切るのか?」


 しかし初雪はそんな声には返事すらせず、父の前で静かに伊助を庇うように立ちふさがり、その刀を崇景の首もとへと添えた。


「伊助、下がって。この場は俺が引き受ける」


 低く、深みのある声だった。

 伊助の目が大きく見開かれる。その一瞬、幼い頃の兄の優しい横顔が脳裏をよぎる。消えていた記憶が蘇っていく。


 初雪。伊助にとって、四龍院家の中で唯一、嘘偽りなく自分を気遣い、愛してくれた人だった。

 幼かった伊助を昼夜問わず見守り、こっそりと本を読み聞かせ、熱を出した夜は静かに背をさすってくれた兄。

 だが、その兄とて家の長である父、崇景の前では、その優しさを表に出すことを許されていなかった。


 それでも初雪は、幼い弟が自分に縋ってくれることを心から嬉しく思っていた。


 しかし伊助が家族の前で初雪に懐くたび「四龍院家の血を汚すな」と父や兄の鷹翁から、伊助は陰で厳しい折檻を受けていた。

 初雪に寄り添えば寄り添うほど、伊助を苦しめてしまう。その事実に気づいた時、初雪が選んだのは伊助の“記憶”を改ざんすることだった。


 彼は魔法で、伊助が自分に懐いた温かな日々の記憶だけを弟から静かに消した。

 その上で、伊助自身が「もうこれ以上傷つかなくていいように」と遠ざかることを決めた。


 伊助が七歳、初雪が十七歳の冬のことだった。

 初雪は龍華大国(りゅうかたいこく)へ、“魔法強化”と"外の知識の吸収"を名目に父の元を離れた。

 本当の理由は、弟の苦しみを根絶やしにしたかったからだ。初雪は伊助の苦しみの原因である龍の力について調べるために、龍を国の象徴として建国された龍華大国にいたのだ。


 初雪は、これまでも陰から伊助のことを見守っていた。だからこそ、伊助が顔に火傷を負わされた際には自分の手が及ばず助けられなかったと後悔し、強い魔道士を探しているという朱雀あまねの噂を聞いて、彼が伊助と出会うように仕向けた。


 あまね自身も、四龍院家の一連の動きに違和感を抱き、初雪が国外へ出た理由を独自に調べていた。

 そして初雪が兄として、家族の中で唯一伊助に対して愛情を持つことを知っていたあまねは、確信めいた推測で、建国祭が近付いてきた頃に初雪へと極秘の連絡を送っていた。


 建国祭で、何かが起こるだろうと。


 そうして弟を守るために、兄は日本帝国に帰ってきた。


「兄さん、どうして……」


 驚く伊助を、初雪は優しく見据えた深いまなざしで見返す。

 その瞳の奥には、弟をどんなことがあっても守り抜くという決意が浮かんでいる。


「家のこと、お前のこと。ずっと見ていた。もう、伊助の手は汚させない。……ずっと苦しかったな。本当に、ごめんな」


 伊助は言葉をなくして突っ立っていた。 綺麗なオッドアイに浮かぶ涙を、本人も気付かないふりをして。

 崇景はそのやりとりを見て、耐え難い怒りと絶望を湛えながらも、なおも足元から立ち上がろうと体をよじる。


「初雪、お前は私を裏切るのか……?弟を庇って家を裏切るのか?この家を、父を、見捨てるつもりか!」


 初雪の刀が、静かに崇景の首筋に当てられた。


「父上、もうやめてください。あなた自身が、家族を利用し、伊助を傷付け、やってはならないことをしてきた。その報いを、今日受けるだけです。俺は弟を守るために、貴方を殺す。それに対する迷いはもう既にありません」


 その信念のこもった声にさすがの崇景も息をのむ。

 初雪はこれまで、父の期待にも応え家の誇りを守ろうと精一杯努めてきた。だが、その努力が守るべきものは弟の微笑みであると確信するに至った。

 もう、父が伊助を愛する日は、来ないだろうからと。悲しくも、兄として長く生き、伊助よりも父を見てきたからこそ確信した。


 伊助は、初雪の背中を見つめながら、静かに涙を流した。

 自分のためにここまでしてくれる兄がいる。その心を思うたび、胸に熱いものがこみあげた。


 広間の空気が一瞬、張り詰める。


 あまねは黙って深いまなざしで、兄弟を見守っていた。

 これまで初雪の動きをずっと注視し、四龍院家の陰謀を暴くため密かに布石を打ってきていた。


「……初雪。その覚悟を僕は信じるよ」


 あまねのその声で、広間を見守る国家十隊や他の一族も静かにうなずいた。


 初雪は一度、大きく息をつき、


「四龍院初雪、ここに我が父と兄の最期を」


 と、小さく宣言した。


 崇景はなおも断末魔のように叫ぶ。


「伊助!初雪!お前たちは私を見捨てるのかあああ!!」


 だが、その声はもう虚空に消えるばかりだった。

 刀がじりと崇景の首元に食い込む。


「今こそ、お終いにしましょう、父上。……伊助、お前はもう前に進んでいい。お前はもう何にも縛られない。自由なんだ」


 初雪のその声に導かれ、伊助はうなずいた。


 兄の背中。

 かつて温もりを知ったその背中に守られ、伊助の胸には、今ようやく家族の真の愛情、過去に手が届かなかったはずのものが、確かに灯っていた。


 四龍院崇景、鷹翁。

 二人の敗者は、初雪の静かな意志の下、ゆるやかに運命の幕引きを迎える。


 広間に満ちていた長い夜の闇は、ようやく新しい光を予感させる静寂に満たされていた。


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