91 「夕月家から朱雀家へ」
あまねの殺気に、ホールの空気がさらに冷える。
崇景は、その冷気と圧力に一歩も動けず、しかし決して怯えきった姿は晒さない。
“軍部を牛耳る覇者の余裕”を作りながら、あまねの心を抉る言葉を選ぶ。
「病気か何か知らないが、あの様な醜女のために必死だな?哀れなのは貴様だろう、婚約者はもうとっくに殺されたというのに!……いや、あの魔物のような醜女なら、共喰いの果てに死んだと言った方がいいか」
その言葉に、普段穏やかなあまねの素を知る楪と宇佐は心臓を止めそうな程体を強張らせた。
「な、なぁ楪……。止めるべきか?総隊長を」
「……良いんじゃないかしら、もう止められないのは、宇佐隊長も分かってますよね」
言い終え、勝ち誇ったように崇景は唇の端を吊り上げた。その瞬間のこと。
空気が、音を立てて凍りついた。
あまねの表情から、一切の感情が消える。
人たらしの柔和な笑みも、優しさの気配は微塵も残っていない。
目に浮かんだのは深い哀しみと、それを遥かに凌駕する激烈な怒り。
「黙れ」
その一言が、すべてを蹂躙した。
普段どれほど温厚であろうと、底に沈みこんでいた“本質”が、崇景の浅ましい言葉によって引きずり上げられていく。
ホールにいた者たち、翠蓮、楪、宇佐も、体が固まる。
息すらできないほどの気圧と、殺意。今まで見たあまねとは、明らかに別人。
翠蓮は、あまねへ手を伸ばそうとして、恐怖で指が震えて止まる。
宇佐と楪の喉も、ごくりと固く鳴ったまま動かない。
あまねの声は、今やまるで氷の刃。
そのまなざしに、全員が息を潜めるしかなかった。
「お前ごときが、僕の婚約者の名前を口に出すな。
お前の下劣な口が、もう二度と彼女の名に触れないように、その身ごと切り落としてやろうか?」
全身から溢れる殺気。
崇景でさえも、余裕と笑いの仮面が剥がれ落ち、恐怖に顔が引きつる。
だがあまねは止まらない。
「自分でも思ったことはないか?......お前みたいな奴が上に立つ国が、どんな地獄になるかを」
一歩、二歩と歩み寄りながら、
その一歩ごとに、誰もが無意識に後ずさる。
「茉莉花は魔法があろうとなかろうと、一度も下を向かずに生きた。心の美しさを理解できない人間なら、それこそ生きている価値もない。……この国にも、お前にもな。」
殺意の籠った怒りがその声に鋭く重なる。
「お前みたいな価値のない人間が、僕の前でこれ以上語る資格はない。自分が作り出した悪夢の中で、醜く終わるといい。」
崇景は、その威圧に膝をついてしまう。
翠蓮や楪、宇佐、そしてその場の全員……。
“あまねの怒り”を目の当たりにし、ただ震え、目を逸らすこともできずに凍りついていた。
これが、“穏やかなはずの朱雀あまね”の、本当の怒りなのだと誰もが、理解せざるを得なかった。
あまねが神にも似た鋭さで崇景を見据えたその瞬間。何者にも触れさせぬ気配が大広間を一瞬にして支配する。
張り詰めた空気に、誰もが一歩たりとも動けず、ただ息を詰めていた。
偉ぶることはしなかった。ただ、婚約者を侮辱し、国を乱そうとする者たちの愚かさに、あまねは静かに怒りを燃やしていた。
「国をこのまま混乱させるつもりか?だったら、手っ取り早く“帝に戻る”しかないね。反逆者は野放しにできない」
しんと静まり返る空間に、あまねの声がよく通る。
しかし崇景が、嘲るように声を上げた。
「戻れるとでも思っているのか!?お前にはもう、“帝”の資格など……!」
二人の会話の間で言葉にしようもないざわめきが起こる。
天井の魔法紋、重厚な結界、古の神器――そのすべてが、朱雀あまねという存在にのみ呼應するかのように光を放つ。
「……な、なんだ……?」
誰かが絞り出す声すら、空気に飲み込まれてかき消える。
王宮の玉座の上空に、深紅の紋章――代々“帝”だけが継げる唯一無二の赫々たる印が、淡い光となって浮かび上がる。
その光はただあまねを中心に、王宮すべてを従わせていた。
それは、朱雀あまねが帝となった証拠。
四龍院家は知らなかった。
あまねが何故帝位を夕月家に譲ったのか。
そして、その帝位は夕月家に"何か"が起こり帝が殺された際には朱雀あまねに戻ることも知らないでいた。
あまねはゆっくりと口を開く。
「帝という地位にいれば殺しは出来ないだろうし色々と制限されるだろうからね。茉莉花を殺した者への復讐に、帝位は邪魔でしかなかった。だけど、今ここでお前たち反逆者に鉄槌を下せるのなら、帝に戻るのも良いかもしれない」
崇景の叫びが響く。
「お前は帝ではない!今更戻れるとでも思っているのか!?」
だが、その言葉の途中で、嗄れた声が割って入る。
ずっと静かに控えていた老侍従が、あまねの傍らに進み出る。
「……崇景殿。夕月の現帝は、貴方の謀により命を落とされました。正式な位は、夕月家に何かがあり帝が殺された場合にのみ、自動的に本家に還る。即ち前帝が殺された時より、朱雀家に帝位が返還。いま目の前にいる朱雀あまね様こそが、帝となっておられるのです」
崇景の目がまるで見開かれたまま動かなくなる。
大広間の隅々まで、沈黙が波紋のように広がる。
周囲の将兵も、傍らに立つ翠蓮も、ただ唖然とあまねを見つめていた。
翠蓮は口元を押さえ、楪や宇佐は目を見開く。
ひとりひとりがその事実を呑み込みきれずにいる。
だが、すでにこの広間は、彼のただ一人の気迫によって、まるで本当の“帝”が戻ったかのような、揺るぎない空気に満たされていた。




