第六四話 いつもの日々
「ただいまー…っと。…早いな、もう帰ってきてるのか」
──自宅の鍵を開け、いつものように学校の授業を終えた彼…悠斗は軽く溜め息を吐きながらもようやく自由な時間となったことを素直に喜ばしく思う。
だが、そんな中で玄関先に並べられていたサイズが大幅に小さめな一足の靴が置かれているのを悠斗は目撃する。
もちろん彼のものではない。悠斗では明らかに足のサイズが合わないし、まず履くことすら叶わないだろう。
では、この家にいる悠斗以外の身内の物かと問われればそれもまた外れ。
そもそも悠斗には兄弟姉妹など一人としておらず、家族も親は仕事の関係上ほとんど家に帰ってくることがないため必然的にその選択肢も消える。
まぁ前提として悠斗の両親はどちらもここまでサイズの小さな靴など履かないのでどちらにしても当てはまらないのだが。
となれば残るのは…やはり、彼女以外にあり得ない。
実に一か月近く前。明らかに短い期間にも関わらず彼の懐へと潜り込んできた少女。
悠斗の方も、自宅へと上がり込んでいる人物の正体には既に見当もついているためさして驚くことも無く自身も上がっていき、見慣れたリビングへと扉を潜って足を踏み入れていく。
すると、そこには………。
「…やっぱり、もう帰ってたんだな。夕飯の準備でもしてくれてたのか?」
『悠斗、お帰り。今日は手間がかかるから先にやってた』
…リビングへと入って行った悠斗を出迎えたのは、本来誰もいなかったはずの家に居座る一人の少女。
長い濃紺色の髪を揺らしながら夕飯の支度でも進めていたのかエプロンを身に纏い、ポニーテールにしながら結っている様は何とも破壊的なまでの愛らしさを醸し出す。
加えて、どう考えても同い年だとは思えないほどに小さな背丈が目立つが…このような姿でも彼女が誰よりも頼りになるというのは悠斗自身も身をもって知らされていること。
むしろそんな要素すらも自分の魅力に変換してしまっている彼女の容姿は信じられないほどに整いきっており、一目見ただけでも強烈な保護欲を刺激されること間違いなしだろう。
しかし、そんな目を引き付けまくる要素満載な中であっても何より注目されるのは…その手元にある文面が打ち込まれた携帯と共に言葉を発しない彼女の姿だ。
何も知らない第三者からすれば奇特な特徴として映るだろう光景。
けれど悠斗にとってはもはや日常の一部とさえ言い切れる程に見慣れたもので、そんなところすらもこの少女の魅力なのだと捉えられる。
「そっか。…なんか悪いな。そっちに負担押し付けるようにしてて…」
『気にしなくていい。元々そういう約束だし、それに…悠斗に作るのは、嫌いじゃないから』
「…っ! …咲がそう言ってくれるならいいんだけどさ」
それに、たとえ言葉などなくとも目の前にいる少女…咲にとってはデメリットにすらなっていない。
彼女が放つ言葉であれば無機質な文字だろうと生身の感情を宿した声に変わり、そこに込められた意味とも相まって容易く彼の心臓を揺さぶってくる。
…これこそが、今の彼らの関係性。
一か月前に奇妙な縁から関わりを持ち、紆余曲折を経つつも二人で積み上げてきた…日常の一端なのだから。
唐突な話になるが、これまで悠斗と咲はこの家で時間を過ごす際に保っていたスタンスはお互いの好きなようにするというのが暗黙の了解でもあった。
たとえば咲が熱心に勉強をしている傍らで悠斗が怠惰に携帯を弄っていようとも彼女から小言を言われるようなことはなく、どんなことでも明らかな害でもなければ過干渉はしないことが基本的な心持ちとしてある。
この生活スタイルは今も変わっていない。咲が何をしようとも悠斗が過剰に立ち入る権利はなく、あくまでそうするのは彼女の自由なのだから。
……だが、その上でだ。
近頃…というよりつい最近の話にはなってしまうが、そんな咲の行動にも一つの変化があったのだ。
その変化というのは………。
(…これは気のせいなんだろうか。何となく、咲の距離がこう…近くないか?)
…いつものように咲が作ってくれた夕食を味わい、片付けまでしっかりと済ませた後。
もはや半ば習慣と化してきているソファでの食休みを挟んでいた彼らの距離感。
以前までなら少し間を空けて腰掛けていたはずの彼我の距離が…少し近づいているのだ。
気のせいではない。なまじ一か月も同じような暮らしを続けてきただけあって悠斗も違和感には気が付いている。
この変化が起こったのは本当についこの間のこと。
具体的な時期を述べるのであれば、少し前に彼女の母──美幸が来訪してきて以来の出来事だったように思える。
二人で元々約束をしていた一か月という期限付きの共同生活。
その期限が間近へと迫った際に美幸が咲を迎えに来た一件を終えてから彼女の距離感がやたらと近いものに変化し始めたのだ。
…まぁ、振り返ればあの時の事は二人にとってもかなり大きな区切りだったために何かしら心境に変化が起きていても不思議ではない。
事実、悠斗もあそこで咲と離れることは望んでいないという本心を明かしているのでその言葉を聞いた咲も色々と考えることはあったのだろう。…きっと。
(ま、そこは別に気にするほどでもないか。いや、気になると言えばそうなんだけど…というかそれよりも近いせいで、心なしか甘い匂いがするような………っ!)
どちらにせよ、悠斗から何かを言えるような筋合いはない。
気になるとは言えど、言ってしまえば単なる悠斗の自意識過剰だという線も捨てきれないし過度に反応などすればそれこそ咲に不審感を抱かれかねない。
だからここは大げさなリアクションを取ることも無く表面上はあくまでも冷静に、気にすることなく忘れようとして……不意にふわっと漂ってきた甘い匂いが彼の意識を掠める。
…考えてみれば当然なのだが、今の二人の距離感は拳一つ分のスペースが空いているかどうかといったところ。
であれば必然的に、普段よりも咲からもたらされる魅力も強く感じ取れるというものであって…彼自身がそう意識したわけではないとしても咲の身体から放たれる香りが嗅覚を刺激してきてしまう。
(…馬鹿か、俺は! 何を変態的なことを考えようとしてるんだよ……! …これは流石に言っておかないとマズい、よな…)
両者の位置が近づけばそれだけ彼女の存在は明瞭なものとして感じ取れてしまう。
無論、当人にそのつもりがなくとも悠斗には色々と感じ取れてしまうため…いくら何でもこれは咲にも忠告はしておいた方が良いと判断した。
「…咲、さっきから言おうと思ってたんだけどさ……なんかこう、距離が近くないか?」
「………?」
このままの状態が続けば悠斗の内心で悶々とした感情が湧き上がり続けかねず、心情的にも黙って彼女のどこか甘く思える香りを嗅ぐというのは耐えられなかった。
なので少しぎこちなくはなりつつも、さりげなくお互いの位置が近すぎないかと告げてみれば…それにコテンと首を傾げた咲のリアクションが返ってくる。
まるでその反応は『何がおかしいのか分からない』とでも言わんばかりの感情を宿しているかのようで、頭には疑問符すら浮かんでいるように見える。
『確かにちょっと近いかもしれない。でも、私は悠斗とこのくらい近い方がいい。…悠斗は私と近いのは、嫌?』
「…別に嫌とまでは言わないけどさ。ただ少し気になったから…」
『なら問題もない。…まだ時間はたくさんあるから、このままでいさせてくれる?』
「……いいよ。でも嫌になったらすぐに離れろよ?」
「………!」
しかしながら咲から語られた真意は至極単純。
何故か理由も分からずに縮められていた二人の距離。
彼女がそうしていた理由はひとえに…彼女がそうしたかっただけだからと言う。
…そう言われてしまうと、悠斗は拒否することも出来やしない。
何か隠している事情があったり理由があるというのならそれを盾にして言いくるめることも出来ただろうが、ただただ咲自身の意思でそうしたということであれば断りようもなくなるのだから。
そして何より…悠斗もまた、咲がこうして近づいてくれることを。
そんなことをしてくるくらいに心を許してくれているのだという事実を知れたことを嬉しく思っているのだ。
…彼女には決して言えないが、それは事実。
ゆえにこそ、彼女の言う事にも苦笑はしつつもそれ以上は強く言い返すことも無く適当に嫌になったら離れるように伝えておくだけで済ませる。
そうすれば、暗に彼の至近距離に居ることへの許可が下りたことを察した咲がその瞳を強く輝かせ…何度も首を縦に激しく振っていた。
──以前までと何一つ変わらない、二人だけの空間。
だがそこに形成された彼らだけの世界では…どこか、二人でさえも気が付かないほどに仄かな甘さを感じさせる空気が作り上げられつつもあった。
ここから第三章!
更に距離を近づけた二人の日常をお見守りくださいませ!




