無機質な木霊
【福島県北塩原村 温泉宿『磐梯荘』内 午後8時過ぎ 曇りのち雷雨 気温9.0℃】
その日、磐梯山は麓の宿から発せられる異常な音を黙って返し続けていた。
雨の中、暗い中、寒い中、その無機質で鋭い音を粛々と受け止めては、低い地鳴りのような木霊をひたすらに作り出す。
最後に聞いたのは5年ほど前であろうか、国内で戦争が起きていた時、同じ国の人間が争っていた時…… ここ、北塩原村という片田舎でも小さな衝突が所々見えていた。その時以来であろう、村を響き渡らせるその音は。 けれどそれは決して周りに懐かしさを与えるものではなかった。
その音は人から発せられるものでは無いのにも関わらず声と表現される。銃と言う人や動物を傷つける為に作られた存在が産み出す声…… その声に合わせるが如く、休息を得ていた鳥達が高い鳴き声を残しながら枝を離れてゆく。
宿の柱を大きく揺らす銃声が一つ──
それとともに藺草で編み込まれた黄緑の畳が鮮血に汚れた。深紅い…… ヒトのソレと違わぬ色、粘力に思わず冬香は口元を手で隠すように覆った。
生臭い、鉄混じりの臭いが鼻を掠める。具合が悪くなる不快な臭い、できれば忘れたかったその臭い。
自身の思い出になってはいけない臭いだ……
強い香へ対抗を見せるかのように冬香は顔を強張らせ、覆った右手を振り払った。
大量の銃弾を受けて沈黙するのは黒色の異形。
身体に大きな穴を開けられ多量の血を流しながら黄緑の床を赤へと染め上げようとしていた。
「くっ、なんなんだこいつらは……!!」
突如として現れた得体の知れない生物。鋭い爪といくつかの目を持つこの存在に対して、理解をするまでの時間が冬香には全く無かった。
だが、それでもこの存在が自身の命を脅かす存在ということは辛うじて心得ることが出来た。それは、人としての本能であろう……
息が大きく荒くなるのを実感する。やっていた事は大したことではないのにも関わらずだ。敵に向けて散弾銃の引き金を引くだけ、誰でも出来るその行為だけならここまで息を荒げる要因にもならない。
そのはずなのに、吐息は絶えなかった。
起きている事態は明らかな異常である。この宿の女将である自分が落ち着いて対応しなければ他の誰ができると言うのだ。
だが…… それでも……
「はぁ…… はぁ……」
息を整える時間が欲しい…… ほんの1分だけでも……
冬香に交錯されるその思考は相手に当然に通じるものでは無かった。むしろそれを隙と捉えたのか、もう一体の化物が疾速く冬香の懐へ入り込もうとする。
──このタイミングで……!!
瞬時に、銃口を持ち上げトリガーに指をかけた。
雨に打たれ続ける窓が轟く音に合わせ大きく振動し、小粒の雫が振るい落とされた。
ほぼ同時であった。
その音とほぼ同時に黒色の化物は四方八方に上半身の肢体を散らしていく。散らされた肉塊が襖屏風に埋め込まれ、描かれた磐梯山の屏風絵が一瞬にして赤の地獄絵へと変化を見せた。
「くっ……」
散弾銃から身体へと伝わる衝撃に耐えきれず冬香は咄嗟に膝を折る。冬香の口から食いしばられた歯が露出し、細い息が歯間から流されていった。
閑散な北塩原村では一切聞くことが無かった音…… 耳に電撃が奔ったかのように痺れる銃声。永遠に耳にすることは無いと思っていたはずであった……
平和な山奥で長いこと暮らしすぎたのだろうか。
軍にいた時は嫌と言うほど聞いていたはずなのに、久々に聞けば心臓が飛び跳ねそうな気分だ。
何年振りかに味わった銃の衝撃にも年齢を重ねた影響かかなり堪えるものがある。
あんなにも、撃ち込んだ筈だったのに……
離れて10年以上も経てば何もかも鈍る。だが、冬香にとって今までがそれで良かったはずであった。
「はぁ、何体いやがるんだ…… 」
頬に付いた返り血を拭いながら冬香は顔を上げる。気がつけば自身の作務衣も赤の斑点模様に様変わりしていた。
まさか野生動物を撃退する為に置いておいた散弾銃がこんなところで役立つとは思いもよらなかった。
かつて冬香が本軍に所属していた時に支給されたものであり、今となっては土産がてら護身用に置いていたものであった。
火を吹く日が訪れるなんて当然に思ってもいない…… まして相手が動物でなく異形の化物。皮肉にも自分が信じることができないと離れた軍からの代物によって命を救われるとは……
……離れられないとでも言うのか。
切れない縁を感じてしまい、冬香は複雑な感情を抱いてしまっていた。
気がつけば至る所で悲鳴が聞こえるのを感じる。誰の声かも把握できない、宿の子か客に間違いないが、何とか助けださないと…… そのような思考を覚えながら冬香は残りの弾数を確認した。
「4発か……」
かなり少ない。元々持ち帰った当時から弾数は少なかった。訪れた野生動物を撃退するのにそう何発も要らない。ここまで派手に何発も放つ予定など無かったからだ。
とにかく、皆が無事かどうか確認しないと……
「おい皆! 大丈夫か!」
張り上げられた冬香の声は壁の破れるような鈍い音により一瞬でかき消されてしまった。
気づかれたって、襲われたって構わない。雑音に負けじと冬香は何度も、何度も叫んだ。見渡しながら安否の確認、そして索敵も兼ねていた。
軍で得た索敵技術…… そんなに難しい技術ではない。物音で敵の数を把握するだけだ。ただ一般人よりも正確性は高く、この状況下であれば殆ど差異なく計数可だ。
少なく見積もって4体……
命を脅かす存在が4体も…… この宿周りにいるというのか……?
その数、そして変わり果てた温泉宿の絶望的な状況に声帯が思うように振るわず、ついに冬香は俯きそうになる。
──なんなんだよ、これ……
辺りを見渡せば鮮血に塗れた壁、絶え間なく聞こえる人の叫び声、惨殺を繰り返す異形の化物…… 閑静な村に位置するただの温泉宿がたった一瞬にして殺戮現場に成り代わったのだ。
人々の憩いの場所が、落ち着いて物語れる場所が、皆と過ごした大切なものが…… 壊されていく。
誰が今日この日、こんなことが起きると予測できた……?
自然豊かなこの地で何もなく一日を終えるはずじゃなかったのか……?
何もなく、零佳や茉里達と一緒に明日を迎えるはずじゃなかったのか……?
夢とも思えぬその光景を冬香は呆然と受け止めることしか出来なかった。唖然と受け止め、抱く望みが秒を追うごとに削られていくのをひしひしと感じていた。
「女将! ここにいたのか!」
彷徨いかけた意識を取り戻すが如く、気勢の良い女性の声が冬香を呼びかける。目を覚ますかのように声元へと振り返った。
「睦か! 怪我は無いか!?」
はだけた青色の和服を身に纏いながら背丈が低めな女性が一人……駆け足で向かって来る。 黒色の髪は肩まで短く切り揃えられており大和撫子を彷彿させる容姿だ。しかしそれに反し血の気は盛んな性格を持つ人物である。
名を墓留 睦。彼女もまた冬香と同様に軍上がりであり、こういった状況には多少慣れているのであろうか、他の者とは異なり目がしっかりと据わっていた。かなり度胸もあり怖気も感じられず、皆が逃げられるように率先して動いてくれていたようだ。
「アタシはなんとかな。とにかく女将、こんな所で突っ立ってたら殺される、早く逃げるんだ!」
睦が手を引っ張り冬香に対し強く逃避を促した。
こんなところに居たら殺されるのは目に見えている。彼女の言う通りこの場を離れるという手段が最善の策であるのは冬香も同意であった。
それは、あくまでも自分自身の命が救かると言う意味での策だ……
だが、冬香はこの宿の女将。逃げる以前にやらねばならない事がある。
「待て睦、他の宿の子は!? 他の宿の子は皆無事なのか……!?」
即座に首を縦に振ってほしい。
しかしながら睦の反応はその願いと反するものであった。
「それがさっきから零佳と茉里の姿が見当たらないんだ、それ以外の子は皆無事だ」
「な、なんだと……!? 零佳と茉里が……!?」




