17.誰がために天使は歌う4
「シーラ君、ボーモン夫人、支度は出来たかい?」
頃合いを見て私はシーラを迎えに支度部屋に行った。
淑女の着替えには彼女の小さな私室より、もう少し大きな部屋が必要ということで、礼拝堂の使ってない部屋を着替えのために用意した。
「まあまあ、丁度いいところにいらっしゃいました。さあ、どうぞ」
喜色満面のボーモン夫人が私を部屋に招き入れてくれる。
そこに立っていたのは、いつもの長く前髪を伸ばした顔色の悪い若い修道女ではなく、可憐な貴族令嬢だった。
「これは、見違えたな」
思わず声を漏らすと、ボーモン夫人は満足そうに頷いた。
「そうでございましょう。とてもお綺麗ですよ」
「……」
一人、シーラは落ち着かない様子でそっぽを向いている。
「シーラさん、いけませんよ、笑顔は社交界での武器です」
ボーモン夫人は貴族家の家庭教師のような叱咤を飛ばした。
「はぁい」
さすがのシーラもボーモン夫人に逆らう気はないらしく、返事して笑顔を作った。
「ニタリ」と少々不自然な笑みだが、シーラにしては頑張っている。
「ボーモン夫人、いや、ありがとう。助かりました」
「いえいえ、こんなことでしたらいつでも。あら、神父様、クラバットが歪んでます。ちょっと屈んでくださいな」
言われた通りにすると、ボーモン夫人は首に結んだクラバットを直してくれた。
襟元を整えると、ボーモン夫人はニコリと笑う。
「これで完璧ですわ。どこから見ても、気品ある紳士そのものですわ」
「そうですかな?」
私は少し気取った様子でボーモン夫人に返事した。
私もまたいつもの修道服は脱いで変装していた。
深い紺色のフロックコートをまとい、白いシャツの襟には銀色のクラバット、さらに胸元からチラリと覗くのは金糸の装飾が施されたシルクのベスト。ズボンは落ち着いたチャコールグレーのトラウザーズで、磨き抜かれた革靴が足元で光沢を放つ。指先には白い手袋が添えられ、頭にはトップハットという出で立ちだ。
フロックコートは黒色が一般的だが、普段黒色をよく着る私はあえて印象が違う深い紺色を選んだ。
「ボーモン夫人、本当にありがとう。さて、シーラ君」
と私はシーラに向き直る。
「何ですか? 神父様」
「それだよ、いくら変装してもそう呼んでは意味がない。私のことはカレルお兄様と呼びなさい」
「は? 兄さん?」
「『お兄様』だ。シンディ」
「は? シンディ?」
「そうだ。我々はコンサートに来たとある裕福な市民階級の兄妹、カルレとシンディだ」
「え、神父様と私がですか?」
「実際私達は兄妹ではないか。私は君のブラサー・カールだよ、シスター・シーラ」
「まあ、そう言えばそうですけど」
修道生活において、我々は男女を問わず、兄弟姉妹としての霊的なつながりを表す。
「きょうだいよ」と呼びかけるのは自然な敬意の表現である。
その後、私とシーラは近くの町であらかじめ頼んでいた店で一番豪華な四頭引きの貴族用の馬車に乗り込み、王都の劇場に向かった。
「ではカルレ様、シンディ様、いってらっしゃいませ」
御者のサンチョは信徒で当然私達のことは知っているが、変装と聞いて話を合わせてくれる。
「どうも、では行ってくるよ」
サンチョに一時の別れを告げ、我々はダヴィデ氏のコンサートが行われる劇場に乗り込んだ。
ロビーに入ったシーラはそわそわと周囲を見回した。
シモン劇場は、我が国随一の華やかさを誇る格式ある劇場だ。
楽器を奏でる天使や芸術の女神の壮麗な彫刻が劇場を華やかに飾り、著名な作曲家や劇作家の彫像が芸術への敬意を象徴している。そして名高い歌手達の手形が、長い歴史とともにこの劇場の歩みを物語っていた。
しかしシーラはそんな煌びやかな劇場の雰囲気に圧倒されているのではなく、ひたすら彼女を知る者がいるのではと怯えていた。
「シンディ、落ち着きなさい。……そんなにキョロキョロしている方が目立つよ」
私はこっそりシーラに忠告した。
シーラはハッとした様子で取り澄ます。
「そっ、そうですね、つい珍しくてうっかり。しん……カルレお兄様」
「そうだ、堂々としてればいいさ」
「でも私達、見られてません?」
今度はシーラが私に顔を近づけ、耳打ちする。
「豪華な服を着ているからね、我々は」
「目立ってる気がしますが」
「何者かと探っているのだよ。だが誰の知り合いでもないようだから、誰も近づいてはこない」
昨今は貴族より、新興の資本家の方が羽振りが良い。そのため社交界に新参者がよく紛れ込む。
シーラの言う通り、見慣れぬ我々を注視する者はいる。しかし視線を合わせない限り、向こうから話しかけてくることはない。
貴族に声をかけるには仲介者を介するのが常であり、これは逆もまた然り。彼らがこちらへ直接話しかけることはほとんどない。
ロビーには多くの客が行き交い、賑わいを見せていた。
その中に聖職者の集団が佇んでいた。彼らは真っ黒の修道服を着ているのでよく目立つ。
「あっ」
シーラが小さく息を呑み、硬直した。
「シンディ、大丈夫だ。ゆっくり視線を外して、私を見なさい。私はあなたの兄だ。必ず君を守ろう」
私がそう囁くと、シーラはすがるように私を見上げた。
「は、はい、お兄様」
私はシーラをエスコートし、何食わぬ顔でロビーを横切り、客席に向かった。
劇が始まるまで誰も我々に話しかけてくることはなく、私とシーラは目的のダヴィデ氏のコンサートに集中出来た。
長時間のオペラやコンサートもあるが、今夜は一時間半ほどの比較的短い公演だった。そのため、コンサートが終わるや否や、私とシーラは急ぎ足で劇場を出て、待ち構えていた馬車に飛び乗った。
夜も更け、街道とはいえ、真っ暗な道で馬を走らせるのは危険なのだが、サンチョさんは腕のいい御者だ。
このままアーチボルト寺院まで連れ帰ってくれるという。
「シーラ君、コンサートはどうだった?」
馬車の中で私は早速シーラにコンサートの感想を聞いた。
「あー、すごいですね。あんまりコンサートって聞いたことがなかったんですごいなって思いました」
シーラはよほど感心したのか「すごい」を連発した。
コンサートはオペラの一幕がメインにしたダヴィデ氏の独演会だった。彼の圧巻の歌唱力が観客を魅了し、コンサートの最後はアンコールの声が鳴り止まなかった。
「ですが……」
とシーラは眉をひそめる。
「ダヴィデさんとあの人、よく似てます」
「ああ、私もそう思った」
私も強く同意する。
姿形も声もまったくよく似ている。
「うり二つって言っていいくらい。でもなんか違う気もしますし、あー、どっちが本物のダヴィデさんなのか分からない!」
シーラは頭を抱えた。
「やはりそうだったか」
私は考えていた仮説が正しかったことが分かり、満足だった。
舞台の上で歌う『ダヴィデ氏』は堂々としていて、貫禄があった。
あの風格は一朝一夕に出せるものではない。
そして彼の声は、素晴らしい歌唱力で皆を圧倒した。
それは私がかつて聞いたダヴィデ氏の歌声とよく似ていた。
だが、わずかに違う。
それは、「その日の声の調子」程度のごくごく些細な差異で、だからおそらく誰も『それ』に気付かなかった。
シーラは顔を上げ、じっとりとした視線で睨んでくる。
「神父様、何が『やはりそうだった』んです?」
「生者のダヴィデ氏と死者のダヴィデ氏、どちらも本物なら、導き出される結論はただ一つだよ、シーラ君。ダヴィデ氏は二人いるんだ」
***
生者のダヴィデ・リーチ氏がアーチボルト寺院を訪れたのは、コンサートの夜からひと月あまりが経ったある日のことだ。
彼の公演は大盛況のうちに幕を閉じ、再度の公演が熱望されているが、しばらくコンサートを開く予定はないと発表されている。
「お呼び立てして申し訳ありません、リーチさん」
にこやかに彼を出迎えた私に対し、談話室に入った後で、被っていた分厚いフードをようやく外したダヴィデ氏は不機嫌そうに私をにらみつけた。
「こちらは来たくて来たわけじゃあありません」
背の高い小太りの男性だ。音域が非常に高いため、男性なのか女性なのか一瞬判断がつかない。
コンサートが終了した後、私はダヴィデ・リーチ氏宛てに手紙を出した。
『あなたの秘密を知っている。アーチボルト寺院までお越し下さい』
脅迫めいた文面である。
たちの悪いいたずらとくずかごに放り込まれないために、私は老神父の手記の一部を同封した。
これはダヴィデ氏の秘密に触れた部分ではないが、老神父がかつてナリス音楽学校の教師をし、学長のギュスターヴ・デュプレと浅からぬ因縁があることはうかがい知れる内容だ。
彼は私に会うことを了解したが、会談の際、正面玄関の礼拝堂を通らず、寺院の裏口から入ることを所望した。
彼が指定してきたことはまだある。
同席するのは、私と彼の二人だけ、そして二人が会うのを神に誓って秘密にすること、である。
ダヴィデ氏は勧めた椅子に腰掛けもせず、私に一枚の紙切れを投げた。
「先に用件を済ませましょう。あなたの目的はこれでしょう、神父様」
紙切れは小切手で、庶民なら一生遊んで暮らせる程度の大金が書き込まれていた。
「本来なら法廷で戦うべきところだが、今は色々忙しいのでね。これで解決したい」
ダヴィデ氏は忌々しげにそう言った。
ダヴィデ氏は近々母校であるナリス音楽学校の学長に就任する予定だ。
前学長のギュスターヴ・デュプレが一年ほど前に急死し、それ以来、学長職は空位となっていた。
伝統ある音楽学校の学長の座を巡る争いは水面下で熾烈を極めた。
しかしデュプレ前学長は、ダヴィデ氏の才能を見出した育ての親ともいえる存在であり、かねてより彼を自身の後継者と公言していた。その経緯に加え、ダヴィデ氏のこれまでの実績と知名度が高く評価され、今度行われる理事会の承認を経て、正式に学長の座に就くこととなった。
ダヴィデ氏は名実ともに我が国の音楽家の頂点に立つことになる。
私は小切手を丁寧に彼に押し戻す。
「この程度の金では人の心は買えませんよ、ダヴィデさん」
「なんですと!」
ダヴィデ氏は一瞬顔を真っ赤にして怒ったが、すぐにつまらなそうに言った。
「ではいくら欲しいのです? ああ、もしや位階を上げるのが目的ですか? 司教にでもなりたいと?」
私は彼を見つめ、静かに言った。
「私が欲するのは亡くなられた方の魂の安寧と正義です。ダヴィデさん、あなたのお兄さんのダヴィデさんの死にはあなたが関わっている。彼を殺したのはあなたではありませんか?」




