16.誰がために天使は歌う3
私の知る中で『天使』の声が聞こえる人物は三人。
一人はシーラで、もう一人は教区の信徒の老人だ。
それとなく聞いてみたが、この人は生前のダヴィデ氏の歌声を聴いたことがないそうだ。
最後の一人が、近くの音楽学校の青年教師だった。
彼ならダヴィデ氏の歌を聴いたことがあるだろう。
私は彼が再び寺院を訪れるのを待ち、質問した。
青年の名はマイケル・ジョーンズという。
「マイケルさん、『天使』の声は、声楽家のダヴィデ・リーチ氏に似ていませんか?」
「ダヴィデ・リーチ氏ですか? ああ、確かに似ている気がしますね」
マイケル青年は私の言葉を肯定したが、感触は薄い。
驚きを持って迎えられる衝撃の発言だと信じていた私は、彼の反応に少々落胆した。
「『そっくり』、という人がいるんですが」
次に私は少し誘導するような質問を投げかけた。
「歌は優劣を競うものではないでしょうが」
と前置きをした後、マイケル青年は断言した。
「私は氏の歌声より、『天使』様の歌声の方が優れていると思います」
「似ているが、『天使』の方が良い声だとおっしゃいますか? いえ、実は私は以前にダヴィデ氏の歌を一度だけ聞いたことがありまして、これほど美しい声があるのかと、とても感動したんです。ですから天使像とダヴィデ氏の歌はどちらが上手いのか、興味があるんです」
私は真摯な気持ちで言った。
あの時聞いたダヴィデ氏の賛美歌には深く心を打たれた。その声は地上に降りた天使のようだった。
「いやぁ」
マイケル青年は困ったように頭を掻く。
「先程の言葉はあくまで私の個人的な感想としてお聞き流しください。そもそも私は批評出来るほどリーチ氏の歌を聴いたことがないのです」
「おや、それは意外ですね」
彼は我が国を代表する歌手だ。
その歌声は国内に留まらず、外国でも高く評価されている。
「ははは」
青年は苦笑いした。
食堂では生徒達がお菓子を頬張っている。
彼らはお菓子と『天使』の話に夢中で、私達の会話を聞いている素振りはないが、マイケル青年は声を潜め、「神父様、お耳を拝借」と私に耳打ちした。
「お恥ずかしい話ですが、うちの音楽学校とリーチ氏の母校である音楽学校は別の流派でして」
「ああ、そういうものがあるのですね」
「はい」
近隣の音楽学校はヴァリグ、一方ダヴィデ氏の母校はナリス音楽学校といい、どちらも我が国が誇る名門音楽校である。
「宗教も同じですので、事情は分かります」
「そう言って頂けると助かります。末端の僕らにはあまり関係なのですが、氏のコンサートにわざわざ足を運ぶ機会が少なくて、僕は彼の歌声を一度しか聞いたことがないんです。そのたった一度の経験も大衆向けのオペラでして、『天使』様が歌われるのは賛美歌ですから、発声の仕方からして異なります」
「……確かダヴィデ氏は様々なジャンルの曲を歌うことが出来ることでも有名な方でしたよね」
私は以前に聞いたダヴィデ氏の歌に対する評判を思い出しながら、マイケル青年に言った。
賛美歌は『神に捧げる』という性質のため、音楽の中でもとりわけ高尚な分野とされるが、大衆はもっと分かりやすい歌を好む。
ダヴィデ氏はその圧倒的な歌唱力でどちらも得意としていた。
「はい、三オクターブ以上の音域の持ち主で、あらゆるジャンルを歌いこなせるそうです。……神父様、そのダヴィデ氏がもうすぐコンサートを開くのはご存じですか?」
「新聞に広告が載っておりましたね」
このところ外国での公演が多かったダヴィデ氏が久々に国内で歌うというので話題になっている。
広告を見てすぐに私もチケットを入手しようと試みたが、既に売り切れで手に入らなかった。
私は以前に聞いたダヴィデ氏の声を今でも覚えている。歌声を聞きさえすれば、コンサートを行うというダヴィデ氏が一体何者なのか分かるはずだ。
「よろしければチケットをプレゼントさせて下さい」
これは願ってもない申し出だ。
「よろしいのですか?」
マイケル青年は爽やかに笑った。
「はい、日頃大変お世話になっているお礼です。流派は違いますが同じ音楽の世界におりますので、少しばかり融通が利くのです。音楽学校の校長からも神父様に何かお礼がしたいと言付かっておりますので、是非」
「ありがとうございます」
私はマイケル青年に礼を言った。
「いえ、こちらこそ、神父様には感謝しております。実は少し先の話になりますが、私の留学が決まりまして」
「留学ですか」
「ええ」
マイケル青年ははにかみながら、頷く。
「私も、『天使』様にレッスンをしていただいて」
「そうでしたか」
「改めて音楽というものの楽しさを『天使』様から教えて頂いた気がします。もっと上手くなりたい、もっと沢山の人に自分の歌を聴いてもらいたい。そんな気持ちになったんです」
「それは、立派なお志です」
「ありがとうございます。これも『天使』様と温かく我々を見守ってくださる神父様のおかげです。このご恩は一生、忘れません」
マイケル青年と彼の教え子達と別れた私はふと、今は亡き一人の老神父のことを思い出した。
音楽に造詣の深い人で、ヴァリグ音楽学校の校長とも交友があった。
老神父が残した手記に何か書かれているかもしれない。
***
マイケル青年は私にダヴィデ氏のコンサートのチケットを二枚くれた。
「シーラ君! ダヴィデ氏のコンサートのチケットが手に入った! 行こう!」
ダヴィデ氏を巡る不可解な状況のヒントを得られる以上に、素晴らしい歌声が聞ける絶好の機会である。
私同様、シーラもこの妙なる好機を喜ぶかと思ったのだが、彼女は嫌そうに顔をしかめた。
「私、行きたくないです」
「そんなことを言わずに力を貸してくれ。今、寺院にいるダヴィデ氏とコンサートを開くダヴィデ氏、どちらの声も聞こえる数少ない人間が君なんだ」
私はシーラに懇願した。
「そんなこと言ったって……」
シーラは不機嫌そうに横を向き、小声で言った。
「場所は王都なんですよね、知り合いに会いたくないです」
「そうか、奇遇だな。私も会いたくない」
「えっ? 神父様もですか?」
シーラは驚いて顔をこちらに向ける。
私は大きく頷いた。
「そうだ。故に変装して行こう。これならどうだ?」
「はあ、まあそれなら」
シーラは不承不承に了承した。
「シーラ君、これを着てくれ」
私はコンサートの日の朝、シーラに変装用の服を渡した。
「えっ、これですか……?」
私が彼女に渡したのは貴族の令嬢が着る豪華なドレスだった。
「そうだ。古いが手入れはしてあるので綺麗なはずだ」
「なんで修道院にこんなものが?」
シーラがそう聞くのも無理はない。
上半身はタイトに絞られ、繊細な金糸の刺繍が華やかに輝く。対照的にスカートは贅沢に生地を用いた襞入りのデザインだ。
深紅の絹には金糸や銀糸を織り込んだブロケードの華やかな模様が施されている。繊細な職人技の結晶である。
さらに所々に縫い付けられた色石は宝石だ。
生地といい仕立てといい、庶民が手にすることなど到底叶わない代物だった。
「記録によると半世紀以上前、この修道院でとある令嬢をかくまったことがあるらしい。その時にお礼にと贈られたものだそうだ」
「へー、色々あるんですね」
一時はシンプルなデザインが好まれていたが、はるか昔に流行したこの繊細で華やかなスタイルが、再び注目を集めつつある。
そのため、シーラの衣装は決して古めかしくは見えない。
「本物の貴族令嬢のイブニングドレスだ。一人では着られないので、マダム・ ボーモンに着付けを頼んでおいた。頼みます、ボーモン夫人」
アーチボルト寺院から少し離れたところに町がある。
宿屋を中心とした宿場町で、早朝や昼の遅い時刻の葬儀に参列した者は、ここで宿を取るので、季節を問わず一定の需要がある。
ボーモン夫人はその町の宿屋の女将さんで、着付けが上手いことでも知られている。
町と寺院は持ちつ持たれつの関係なので、ボーモン夫人は私の頼みを快く引き受けてくれた。
「はい、お任せを」
ボーモン夫人からは頼もしい返事が返ってくる。
「えっ、ちょっと! 私は、聞いてません!」
一方シーラは何事かわめいていたが、私も着替えねばならない。
「私も支度があるから、文句は後で聞くよ」
私はその場を後にした。
変装用の服に着替えた後、私は確認のためもう一度、老神父の手記を手に取った。
手記によると老神父は元々音楽学校のゆかりの人であった。
アーチボルト寺院近くのヴァリグ音楽学校ではない。
ダヴィデ氏の母校であるナリス音楽学校である。
伝え聞いた話ではかなり厳しい教育方針で知られている学校だ。
老神父は昔、音楽家であり、ナリス音楽学校で教師をしていたが、ある時学長と対立し、教壇を離れ、信仰に生きる道を選んだ。
ナリス音楽学校の学長の名はギュスターヴ・デュプレ。
手記にはこう、書き記されていた。
――ギュスターヴ・デュプレが音楽にかける情熱は誰より真摯なものだ。だが彼は生徒を音楽の道具としてしか見ていない。




