尽くす人2(終) どうすれば、この時間跳躍に気付くんだっ
しかし、まるで俺のそういう質問を拒むように、深森はもはやお馴染みになりつつある、儚げな微笑を広げた。
そっと組んでいた腕を外し、ふいに問う……真剣な声で。
「ねえ、片岡君……なにか、わたしにして欲しいことない?」
「えっ」
なんだ、その質問? どういう意味だろうか。
笑顔なんだから、もしかしたらジョークのつもりだろうか。こちらもそれに合わせて、ふざけるべきか?
とはいえ、いきなり「おっぱい触りたいっ」とかいう下ネタジョークは、嫌われるだろうな。いや、半ば本気の願望だけど。
なぜか深森がじっと返事を待っているのようなので、やむなく俺は付き合うことにした。
「普通の人間の望みって、だいたいはお金とかじゃない?」
「お金でいいの?」
笑顔のままだが、真面目な声で言われ、俺はちょっとうろたえた。
……この子、まさか本気で言ってるのか?
「ごめん、冗談だと思って、わざと合わせたんだ。俺はなにもいらないよ。いきなりそんなこと考える必要ないって」
こちらも真剣に答えた。
「だいたい、俺は告白を受けてもらったし、こっちこそ、深森になにかしてあげるべき立場じゃないか」
「ありがとう」
やたらとしみじみした声で言われ、なぜか手を握られた。
……と思ったら、手の甲にキスされた! 結構、長くっ。
いちいちこちらの意表を衝くので、こっちは驚きっぱなしだ。
「でも、片岡君はいいのよ。そこにいてくれるだけで、わたしは今日も生きていけるんだから」
思わぬ言葉に絶句してしまう。
俺の事情を知っているのかと一瞬、思ったが。それなら、昼間の告白の時も、早々に俺の意図を悟ったはずだ。
だから、今のは単なる本心なのだろう……それも驚きだけど。
しかも深森は、そのまま軽く抱きついてきて、頬と頬を一瞬だけ合わせた。
「また明日、ね」
しっとりした声で俺の耳元に囁くと、ようやく踵を返して今来た道を歩いて行く。
数秒ほど呆然として見送り、俺もようやく歩き出した。
いや……今まで見ていた深森雪乃と、俺が告白した後の深森雪乃は、まるで別人みたいだな。それとも、俺だけに優しくしてくれているのかもだが。
ちなみにマンションの前でもう一度だけ振り返ると、なんと深森は遠くからこちらを見ていて、目が合うと手を振ってくれた。
――この後、俺はかなり後になってから、この時の深森の「なにか、わたしにして欲しいことない?」という言葉を、何度も思い出すことになる。
そう、本当に何度も……何度も。
精神的にかなり疲労していたが、それなりの満足感を持ってエントランスに入った俺は、ホールにある集合ポストを確かめた。
どうせ大したものは入っていないだろうと思ったが、今日に限って折り畳んだ便せんが入っていた。薄青い便せんで、女の子が使いやすいようなタイプだ。
「誰宛だよ、これ?」
エレベーターに乗って十階のボタンを押し、俺は便せんを広げて読んだ。
誰に宛てたものかわからない以上、しょうがない。
……正直、見なければよかったかもしれない。
『深森雪乃を助けようとしてはいけない』
「うっ」
十階で降りたところで、その短い文章を読み、俺は背筋に冷たいものが走った。
三度読み返したところで、やっと上の空で歩き出したが、危うく廊下の突き当たりにある、自分の部屋のドアに頭をぶつけるところだった。
鍵を開ける前に、しつこくもう一度読み返して、ようやく自分が何に恐怖したのか、きちんと把握できた。
あまりに有り得ないことなので、すぐに考えが及ばなかったのだ。
これを書いた奴が誰であろうと、有り得ないことにこいつは、俺の目的と深森の事情を知っているらしい!
そんなことってあるだろうか!? どうすれば、この時間跳躍に気付くんだっ。




