未来に期待する
俺は深森が素早く窓際に移動するのに合わせ、カグヤにメモ書きを押しつけた。
「なにこれ?」
「あとで読めばわかる。まあ大したこと書いてないが、逃げた後で余裕あったら頼む」
母親への伝言は、わざと見つかるように、前から机の中に入れてあるので、後は未来において火事で死ぬ谷垣への伝言である。
迷ううちに最後の最後になってしまったが、ここではスマホが通じないので、やむを得ない。
「あのねぇ、あたしだって今後は逃亡生活で」
「広げて読むなよっ。あと、どうしてもとはいわないけど、公衆電話からちょっと電話できたらって話だ。無理にとは言わない。歴史を曲げるのは、本当はやらない方がいいんだろうからな」
俺達はもう手遅れだが、という言葉は言わずにおいた。
そこで、深森が凜とした声で告げた。
「――始めます!」
「わかったっ。気をつけて」
深森に答え、俺はカグヤに頷いた。
「タイムリミットだ。深森が注意を引きつけてる間に、俺が移動させる。ここから見える範囲で、場所を見繕っておいてくれ」
「ええっ!? そんな適当な」
カグヤが抗議しかけた途端、下界で一斉に喧噪の声が上がった。
見れば、窓際に立つカグヤの長い黒髪がふんわりと浮いて、うねうねとなびいている。おまけに全身がオーラのごとき光に包まれていて、まさに天使の降臨のようだった。
カグヤと二人で急いで斜め背後から覗くと……俺は生涯忘れようがない光景を目にした。
なんと、あれだけ都庁前にぎっちり集まっていたパトカーやら灰色をしたバスみたいな大型車やらが、一台の例外もなく浮かんでいた。
そう、宙に浮いたのだ、深森の力で。
何十トンどころか何百トンの総重量だか不明だが、それらの全てを、両手を広げた深森が宙に浮かべていた。
この距離でも、PKにはさほどの影響は出ないらしい。
当然、包囲していた警官隊達も、手足をジタバタさせて空中で暴れていた。
深森がその気になれば、彼ら全員を殺すことだってできるだろう……おそらく俺が死にでもしない限り、やらないだろうけど。
「よし、注意が逸れたぞ! 今のうちだっ、決めたか!?」
「え、ええっ。じゃあ、あそこに見えるタワーレ○ードのビルの屋上へ移動させてっ。エレベーターで地下に下りられて、逃げやすいから」
そんなの都庁のそばにあったか? と思ったが、よく考えたら、ここは俺の知る東京ではない。今いる都庁の場所だって、全然違うしな。
とうとう最後まで慣れなかった。
「あのでかい看板のビルだな。よし、行くぞっ」
言下に、カグヤの身体がふわりと浮いた。
「だ、大丈夫でしょうねっ」
「安心しろ。深森の負担に比べりゃ、余裕だ」
早口で答えた途端、またカグヤが口走った。
「待って!」
「なんだよ、急げよっ」
「……二人とも、無事でね」
深森は、一瞬だけこちらを見て頷いた。
「貴女も」
「……兄貴によろしくな。俺が謝っていたと伝えてくれ」
「わかったわ!」
それを最後に、俺はPKで保持したカグヤを、盛大に割れた窓から外へと移動させた。それも一瞬で遙か向こうまで飛ぶような勢いで。
見えない腕でがっちりホールドしているような感じで、俺的には不安はなかったし、無事に指定された遠くのビルの屋上に降ろしたが、運ばれている間、カグヤは気が気ではなかっただろう。よく悲鳴を上げなかったものだ。
ちゃんと屋上に下りた時は、ほっとしたに違いない。
最後に手を振り、カグヤは素早く屋上の階段口へ駆け去った。そちらはここからは見えないが、あいつなら鍵がかかっていても、お得意の衝撃波でなんとかするだろう。
「いいよ、深森。中坊は逃げてくれた」
「わかったわ」
途端に、ズシンズシンッと肺腑に響く音がして、警察車両と警官が叩き付けられていた。とはいえ、せいぜい二メートル程度の浮遊だったので、痛みに転げ回る程度だ。
いずれにせよ、俺達はもう外なんか気にしてなかった。
「あとは……わたし達?」
「そう、俺達」
俺は肩をすくめ、深森に手を差し出した。
「すぐに突入してくるだろうけど、エレベーターは止まってるし、転移の時間はあると思う。ただ、途中で離ればなれにならないようにさ。タクシー移動とは訳が違うしな……なにしろ、時間だけじゃなくて世界線すら越える、特別なタイムリープだ」
そこで一つ思いつき、提案した。
「もう過去はたくさんだから、この際、未来に期待しないか?」
「ええ……わかったわ」
幼女のように素直に頷き、深森は俺の手を取った。
それどころか、そのまましっかり抱きついてきた。
「もう決して、離れない」
「じゃ……じゃあ、転移は深森にお願いできるかな? どう見ても、今やそっちの方が余裕ありそうだし」
「跳ぶことは可能だと思うけど、どこへ転移するか、わからないの。それでもいい?」
「そんなの俺がやっても同じさ」
俺は苦笑して答えた。
今から思えば、あの幼いもう一人の深森だって、少なくとも一度は力及ばず、俺を助けることができなかったのだ。
事前に警告されながらも、榊先輩に襲われたというのは、そういうことだろう。
どれほどのボーダー能力を持とうが、完全に世界の変貌に対処することなど、神ならぬ人の身では、誰にもできないということだ。
しかし俺はもちろん、そういう余計なことは言わない。
代わりに、笑顔でこう言っただけだ。
「でも、二人いればなんとかなるんじゃないかな。大事なのは、そこだろ?」
「少なくとも、わたしはシュン君さえいれば、どこだって平気……準備はいい?」
最後の瞬間、俺は深呼吸した後、大きく頷いた。
「うん、やってくれっ」
「シュン君、愛してる!」
まるで発動の合図のように深森は叫び、次の瞬間、俺達二人はまばゆい光に包まれた。
今までいた世界は俺達の眼前で陽炎のように揺らぎ、そして跡形もなく消えてしまった。
おそらく、俺達にとっては永遠に。




