今度こそ深森に
おそらく、浮かれてたせいだろう。
普段ならブレーキが間に合ったはずだけど、その時の僕は深森のことで頭がいっぱいで、路地から飛び出してきた車に気付くのが遅れた。
……幸か不幸か痛みは感じず、ただ気付いた時には歩道まで飛ばされ、倒れていた。最後の瞬間、覚えたての能力を使い、なんとか回避しようとしたが……下手すると車の方を事故らせてしまうかもと一瞬思った。
深森が持っていた力は、それほど強力なのだ。
一瞬のためらいのせいで、結局のところ、激突は避けられなかった。
あの子に連絡しないといけないっ、と殊勝にも意識を失う前に思った。
再会の約束をしていたから、多分すっぽかしてしまうかもと考えたのだろう。
まあ、そんなこと考えていたと思い出したのは、夢を見ているたった今であり、当時の「僕」が次に目覚めた時、あいにく記憶はさっぱり残っていなかった。
まず見えたのはベッドの脇に座るおばさんであり、その人が自分の母親だと思い出すのに、苦労した。というより、あの時あの瞬間は、他の全ての記憶が吹っ飛んでいたような気がする。
肝心の母は、僕が目覚めているのを見つけた途端、慌てて先生を呼びに走ったらしい。
僕はといえば、またそのまま眠り込み、本格的に起きたのは、その夜のことだった。
今更のように頭部を包帯でグルグル巻きにされていて、うんざりした。しかも、後頭部が少し痛むし。
「まあ、有り得ないほど幸運だよ、君は」
母親と並んで初老の先生がベッド脇に座っていて、にこにこと微笑んだ。
「車のダメージからして、本当ならこれほど軽い怪我で済むはずがないんだ」
そう語ってくれたが、その時の僕は、みるみる胸に込み上げてくるものがあって、ひどく狼狽していた。
自分でも気付かないけれど……絶対になにかを忘れた気がする……自分的には必要な記憶は揃っている気がするんだけど、自転車に乗って外出してから後のことが、全く思い出せない。
しかも……その後に、僕の人生が大きく変わるようなことがあった気がするのだ。
「なにを泣いてるんだかね、この子はっ」
母さんが慌てて僕の手を取った。
「まさか、傷がそんなに痛むの?」
「いや……傷はうずく程度……でも、僕は忘れてしまった」
先生と母さんが顔を見合わせた。
構わず、僕は繰り言のように声に出す。
次から次へと涙が溢れ、我ながら情けなかったけど、どうにも哀しくて止めようがなかった。それに、僕自身は本当に確信していたのだ。
――僕は、大事なものをすっかり失ったと。
「母さん……僕、忘れちゃった……絶対に忘れちゃいけないことを忘れちゃった! 約束したのにっ……あんなに約束したのにっ」
約束したのだけは覚えているのに、その約束が思い出せない。
これほどじれったいことはなかったし、喪失感が凄まじかった。
母さんも先生も、困ったように目を瞬くばかりで、なにも言ってくれない。
事実、二人にはどうしょうもなかったのだろう。
当時、僕は頭を打ったショックで、いろいろなことが曖昧になり、忘れてしまったことは他にも多かった。
でも、先生が「時間が解決するはずだよ」と言ってくれた通り、他のことは日を追うごとに記憶が戻っていった……ただし、なぜか僕は、「肝心なことは思い出せてないっ」と確信していた……実際、その通りだったのだ。
病院へ担ぎ込まれた翌々日、僕に見舞客があったと、かなり後で母親に聞かされた。
「なんと、可愛い女の子よ! なんなの、あの天使っ」
目覚めた時に、母親がそう教えてくれたが……その瞬間、確かに僕の胸は騒いだ。
ただし、「どうせ僕のことだから、可愛い子と聞いて気になってるんだろう」としか思わなかった。
忘れた約束のことはまだ気になっていたけど、そのことと今回の見舞客のことを、重ねて考えはしなかったのだ。
「その子、どうしたの?」
「それがねぇ、あたしが勧めたのに、病室までは入ってこなかったのよ」
母はやたらと残念そうに言う。
「事故の顛末を話すと、しばらく俯いて考え込んでいたけどね、すぐに顔を上げて『片岡君に、ずっと幸せな人生を送ってね! とお伝えください』って言ったかと思うと、走り去っちゃったわあ。名前も訊いてなかったから、よほど追いかけようと思ったけど」
相手がわからないし、僕としてはなんとも言い様がなかったが、最後に母はこう付け加えた。
――でもあの子、最後は泣いてたように見えたねぇ。
また少し心の奥で、なにかうずくような感情が芽生えたけど……回復しつつある僕は、最初よりは鈍くなっていた。
見舞客なら、また学校で会えるなぁと……そう考えていた。
その瞬間、深森がどんな思いで走り去ったのかを知っていれば、呑気に寝てる場合じゃなかったのに。
――長い夢は終わろうとしていた。
ようやく昔の光景が儚く消え、「今現在の」俺として目覚めたその瞬間――。
俺は飛び起きた。
「お、思いだしたっ」
思わず呻く。
もちろん、今でもまだ謎は残っている。深森がここに二人いることなんか、その最たるものだ。ただ、異なる世界や時間軸が無限に存在するとするなら、なんとなく説明はつく気がした。
仮に推測が間違ってても、本人に訊けばいいだけだっ。
それより、今は先に出たあの二人を追わないとっ。
「ちくしょうっ、今回こそ深森を捕まえないとっ」
――また手遅れとか勘弁してくれっ。
僕はとるものもとりあえず、部屋を走り出た。行き先はわかってる!
藤原の妹であるカグヤがくれたあのメモ書きの場所――あそこだっ。




