もしもの時は、わたしと逃げて……お願いだから
「……雪乃?」
心配して尋ねたが、雪乃は氷像化したように動かない。
先に我に返ったカグヤが、ふいに尋ねた。
「そいつらって、片岡さんを訪ねてきたわけ?」
「いや……多分、違うと思う」
俺はあの時の二人組の様子を思い出し、首を振った。
二人とも、職員室? の方へ向かって歩いてた気がするけど、俺を見ても過剰な反応なんかしなかったしな。
むしろ、二人揃って挨拶してくれたほどだ。
「じゃあ、一体誰の――」
そこまで言いかけ、カグヤはふいに口を噤んだ。
じっとテーブルを見ていたかと思うと、いきなり席を立つ。
「どうした?」
「別に」
やたらと低い声で答える。
「ちょっと、ソーダお代わりしてくるわ。不在の間に、いちゃいちゃしないようにっ」
「俺はしてない――待てよっ」
カグヤは待たなかった。
さっさとドリンクバーの方へ行ってしまった。
本当なら、俺はこの時にカグヤを追いかけるべきだったかもしれない。
しかし、いつも気丈な雪乃が横で微かに震えているので、そっちの方に気を取られていた。
「本当に、大丈夫なのか雪乃?」
「……大丈夫」
大きく深呼吸してから、雪乃は弱々しい笑みを浮かべた。
「もしかしたら、シュン君を拘束しにきたのかと思って、どきっとしたの」
「それはないと思うよ」
俺は肩をすくめた。
なぜか、カグヤを尾行してた黒服男の手帳に、俺の名前があったらしいが……多分、なにかの勘違いだろう。
あいにく俺には、本当の意味でのボーダー能力なんかない。
「しかし、そうすると誰が」
考えたところ、ふいに嫌なことを思い出した。
そういや、カグヤがあえて姿を消したのは、家族のことを心配したからじゃなかったか? もしや、連中の目的があの藤原(兄)だとは考えられないかっ。
「――! しまったっ」
ぱっと前の席を見ると、一応、まだカグヤの鞄は置いたままだが――。
「ちょっと、ドリンクバーの方を見てくるっ」
俺は弾かれたように立ち上がり、カグヤが去った方へ走った。
……俺の嫌な予感が当たったらしい。
カグヤはドリンクバーのコーナーにいなくて、念のために店員さんに尋ねると、「その子なら、ついさっき反対側の出口から出ていきましたよ」と言われた。
慌てて店の外まで出てみたものの、もう影も形もない。
「ちくしょう、早まってくれたな!」
自己嫌悪に塗れたし、藤原にどう報告したものか悩んだが、この際、正直に教えてやるしかあるまい。
スマホを出しつつ席に戻ると、雪乃は置き去りになっていたカグヤの鞄を調べていた。
止めようと思ったが、よく考えたら、もうそんな場合ではないだろう。
「やっぱり逃げてたよ、あいつ! なにか見つかった?」
「走り書きの地図と、電話番号書いたメモが」
雪乃が首を振る。
「他にはなにもないわ。財布や携帯は、こっそり先に抜いてあったみたい」
「そうか……そのメモ、後で見せてくれな」
雪乃に断りを入れ、俺は藤原に連絡を試みた。妹のことを、教えてやらないと。
しかし……いつものように即座に繋がらず、聞こえてきたのは素っ気ない「この電話番号は、現在使われていません」というメッセージのみ。
「電話番号、変わったのか……」
「通じないの?」
「通じないどころか、番号自体が存在しないらしい」
俺は率直に答え、雪乃を見た。
「……まさかこれも、カグヤの言う連中のせいなのか?」
「わからないわ」
否定はしたが、雪乃の瞳はひどく心配そうに見えた。
「ただ、もし実際に藤原君になにかあったとしたら……シュン君もそろそろ危ないかもしれない。もしもの時は、わたしと逃げて……お願いだから」
冗談を口にしている雰囲気ではなかった。
雪乃は心底本気で、俺に「わたしと逃げて」と頼んでいるのだ。
……いつの間にか、俺のよく知る日常は、微塵に砕けていたらしい。




