キスの日(前篇)
「この店に来るのも結構久しぶりだな」
ガラスの引き戸を前にして、ハンスは思わず呟いた。
居酒屋ノブ。
漆喰と木で建てられた風変りな居酒屋は、今では古都でも知る人ぞ知る店という扱いになっている。
本当なら毎日でも通いたい店なのだが、街の衛兵の給料がそれほどいいわけもない。ノブは良心的な店だが、そんな店でも今のハンスの稼ぎではちょっとした贅沢だ。
折角食べにきた時には懐具合を気にせずにたっぷり食べたいという気持ちもあって、ハンスはこの店に来る回数を自分で制限していた。
そして今日は給料日。
訓練にもいつも以上に気合いを入れ、ベルホルト隊長から居残りを命じられないように細心の注意を払ったのはこの店に来るためだった。
お陰でまだ陽も暮れていない時間にここに来ることができたというわけだ。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
引き戸を開けると、シノブの明るい声とタイショーの渋い声が響く。
席はほとんど埋まっているが、運よくカウンターにはまだ空きがある。
「あらハンスさん、お久しぶりじゃないですか」
そう言って顔を綻ばせるシノブにハンスは小さく手を振って応えた。
どうせ顔も忘れられているだろうと半ば諦めていたのだが、この店の看板娘はハンスの顔をしっかりと覚えている。こういう小さなことが、どういうわけだかとても嬉しい。
「や、シノブちゃん」
「元気にしてました? ささ、カウンターが空いてますよ」
席に着くと流れるような手際でオトーシが運ばれてくる。
予め用意していたわけではない。引き戸を潜る客の顔を見て、タイショーが用意するのだ。
仕事帰りの客には心持ち多めに。もうできあがっている客には普通に。盛りの多さにも違いがあるということに、常連は薄々気付いていた。
今日は豆ではなく、鶏肉と里芋の煮込みだ。
甘辛い出汁でじっくりと煮込んだ料理を小振りな器に盛りつけてあるのだが、器までほのかに温かい。
冬も終わり春に近付いているとはいえ、夜ともなればまだまだ肌寒さを感じる季節だ。ちょうど温かいものが食べたいと思っている時にこういうものが出てくるのは、この店ならではの心遣いだった。
「ハンスさんはとりあえず生でいいですか?」
「うん、トリアエズナマで」
エールを注文しながら、器の中身を口に運ぶ。使うのは、“箸”だ。
最近ではニコラウスだけでなくベルホルト隊長まで箸の使い方を覚えたので、ハンスもこっそり家で練習したのだ。
まだまだ不器用だが、何とか鶏を掴むことはできた。
「……柔らかい」
鶏肉と言えば硬くなった廃鶏のものしか手に入らない古都だ。煮込んだとしてもこれほど柔らかくなりはしない。しっかり味の染み込んだ鶏肉は口の中で繊維がはらりと解けていくようだ。
そして、芋。
扱い慣れない箸から滑り落ちそうになるが、何とか口に運ぶ。
“サトイモ”という名前だと前に教えて貰ったこの芋は、ねっちりとした舌触りが何とも言えず、面白い。食べ飽きるほどに食べた馬鈴薯とは一味違う食感の芋だ。
こちらもしっかり味が染みていて、思わずもう少し食べたくなる。
だが、この量が絶妙なのだ。
多過ぎもせず、少な過ぎもせず。このオトーシで腹を少し落ち着かせるからこそ、ゆっくりと今日の注文を考えることができる。気にいれば、同じものを注文すればいい。とてもよくできた仕組みだ。
「はい、生お待たせしました!」
「おっ、ありがと」
運ばれてきたジョッキの中身をハンスはぐいっと呷った。これだ。
口の中に広がった冷たい苦みが一気に喉に駆け抜けて行く。
この一杯のために、この店に来たのだ。
トリアエズナマのお代わりを注文しながら、ハンスは壁の御品書きを見回す。以前はタイショーの故郷の言葉で書かれていたメニューも、今ではすっかり古都の言葉に書き改められている。
今日は何を頼むべきか。
オトーシの煮込みもいいが、久しぶりに来たので色々食べてみたいという思いもあった。オデンもいいし、ドテヤキというのもそそられる。
メニューの数は日に日に増えているようで、ハンスが見たことのない料理も一つや二つではない。
「シノブちゃん、今日のおすすめは何?」
「はーい、今日のおすすめですか。そうですねぇ」
シノブの声はいつも通り明るい。いや、今日はいつにもまして喜色が滲み出ているようにハンスには見える。
「シノブちゃん、何か良いことあったの?」
尋ねてみるとシノブは手にしたお盆で顔の半分を隠し、えへへと微笑んだ。
「分かりますか? 今日はですね、“キスの日”なんです」




