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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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アイテーリアの休日(前篇)

 夜通し窓を揺すり続けていた北風は明け方に漸く大人しくなった。

 この古い街には余程腕のよい硝子職人がいると見えて、木枠に嵌められたガラス窓はよく風雪に耐えている。外との寒暖差で白く曇った硝子をコンラートが手で拭うと、古い街並みが早朝の澄んだ空気の中に浮かび上がった。


 白い。

 北の海からの湿った風は古都を含む冬の帝国北部を雪で閉ざすが、間の山地に阻まれて帝都へは乾いた冷たさを運んでくるだけだ。

 石壁から這い寄る寒さに、コンラートは思わず毛布を引き上げた。その下にあるのは、着慣れた寝間着ではなく、私服姿の自分である。


 逸る気持ちを深呼吸で抑え、隣室に控えるゼバスティアンに気付かれないように、そっと行動を開始した。用意しておいた綱を、窓から垂らす。

 帝国皇帝コンラートは、長年の野望であるささやかな逃避行をついに実行に移した。


「そもそも、お爺さまもお爺さまだ」


 さくさくと新雪を踏みしめながらコンラートは口の中で不満の呟きを漏らす。

 半ば拉致されるように古都へ連れて来られたのは、見合いのためだ。それも相手は憎き仇敵である東王国の王女摂政宮セレスティーン・ド・オイリアである。

 三十代も半ばを過ぎたにしては若作りなコンラートだが、結婚を考えたことはなかった。


 子が欲しくない。

 欲しくないというのは個人的な欲求ではなく、皇帝としての欲求だ。

 皇帝は血ではなく、その能力を以って即位すべきだというのがコンラートの持論だった。


 東の空が白み始めると古都の住民はゆっくりと日々の営みに取り掛かり始める。

 散歩をする者、昨夜折り畳んだ屋台を道に広げ始める者、どこかへ勤めへ出る者。市井の暮らしを覗くために帝都の街並みを視察することはあるが、コンラートが行くところからは雑多なものが取り除かれている。自然な人々の姿を見るのは随分と久しぶりだ。


 不都合なものを目にしてはならないと周りの者から配慮される程度には、帝国皇帝というものは崇められている。

 そのことに気付いたのは、視察に出掛けた通りの道に石ころの一つも転がっていないことを見つけたときだ。石畳で舗装されてもいない道なのに、塵も芥も全てが予め拾われていた。

 過剰なまでの敬意を向けられることに帝国皇帝コンラートは長く違和感を覚え続けている。自分が今の地位にあるのは、ただ先帝の孫だからというだけに過ぎない。


 先帝のように能力がある者が、皇帝の位に就けばよいのだ。だから、家出をした。

 突然の見合いに対する抗議のつもりで思いついた家出だから、計画性とは全くの無縁だ。

 どこへ行くとも誰を頼るとも決めていない。

 古都の近くであればサクヌッセンブルク侯爵家がある。帝家と血の混じっていない古くからの家柄だが、それだけに匿って貰うには都合がよい。

 落ち着いて考えるまでもなく、そんなことをすれば帝国は大混乱に陥る。皇帝が先帝と対立して地方の諸侯を頼って逃亡。後世の史家は悪し様にそう(あげつら)うだろう。

 そんなことは分かっているが、お忍び先の窓から抜け出したのは動かしがたい事実なのだ。


 やっぱり帰ろうかな。

 莫迦莫迦しいことでも一度はじめてしまうとなかなか止められないのは生来の生真面目さからだろうか。それとも止める勇気がないからだろうか。


 宿に戻ったときにゼバスティアンらに責められても自己を正当化できる理由を頭のどこかで探している自分がいる。

 古都を視察してみたかったから?

 密かに誰かと会う必要があった?

 どれもこれも理由としてぱっとしない。まさか本心の通りに、十五以上も歳の離れた敵国の娘と見合いするのは御免蒙ると宣言するわけにも行かなかった。

 そんなことをすれば、体面を傷付けられたという大義名分を得た東王国が陪臣を招集して国境へ殺到しかねない。それはもう、戦争だ。


「そもそも、お爺さまもお爺さまだ」


 もう一度舌先に文句を転がして、川へ雪の塊を蹴り落とす。

 どうしてよりにもよって東王国、それもよりにもよって王女摂政宮なのだ。

 外交文書で言葉を交わす彼女は悪辣にして権謀術策を好み、娘らしい可愛さの一つも見せない邪悪極まる悪魔の申し子だ。帝国が国益を損なうような目に陥ったのも五度や六度ではない。


 政略結婚、政略結婚、政略結婚。

 先帝の外交政策の一つとしてコンラートは近隣諸国へ帝国の血をばら撒いていたが、まさか自分自身が政略結婚の駒になるとは思ってもみなかった。

 自分は結婚するつもりはない。

 結婚するとしても、王女摂政宮のような政治的化け物とではなく、もっと可憐でお淑やかな。


「きゃっ!」

「す、すまない」


 考え事をしていて、不意に人とぶつかりそうになる。

 思わず助け起こすような格好になったのは、美しい銀髪の娘。銀縁眼鏡の奥に潤む瞳を見て、コンラートは衝撃を受けた。口が勝手に開く。


「お嬢さん、名前はなんと?」

「セレス、と申します」


 帝国皇帝コンラート、齢三十七にして生涯はじめての一目惚れであった。


「すみません、こんなものまで奢って頂いて」

「いえ、こちらの方こそすみませんでした。先ほどのお詫びです」


 屋台で売っていたウナギの漁醤(フィゾーサ)焼きというものをを二人で齧りながら、川辺に積まれた木材に腰を下ろす。見てくれはあまり良くないが、意外に美味い。


「へぇ、これは存外に美味いな」

「でしょう? 知り合いが報告書……じゃなくて、お手紙で教えてくれたの」


 セレスという娘はときどき変な言葉遣いをするが、コンラートにはあまり気にならなかった。それよりも、頭の回転の速さと言葉の端々に見える機知にすっかり魅了されている。もちろんその可憐さにも。


 本当はすぐにでも家に送り返してやるのが紳士としての嗜みなのだろうが、コンラートは超人的な努力を払ってその常識を無視し続けている。普段のコンラートからは考えられない行動だ。

 これほどの勇気を振り絞ったのは連合王国の許認可を受けた海賊艦隊が北の海に現れたのを撃ち払う決定をしたとき以来かもしれない。


 出会ったときは少し陰のあったセレスだが、コンラートと話をしている内に段々と表情が明るさを帯びてくる。何か悩みがあったのかもしれないが、気が紛れたのならそれだけで嬉しかった。


「じゃあセレスさん、あの米の価格の乱高下はクルヴァルディア商会が裏で糸を引いていたと?」

「そうみたいですよ。見せ掛けの安い方の値段で上手く買うことができた幸運な仲買人もいたみたいですけど」


 知識豊富なセレスとの会話はあちらからこちらへ、こちらからそちらへと縦横無尽に飛び回り、全く飽きさせるということがない。

 政治向きの話にも応じることができるところをみると、どこかの貴族の娘なのだろう。商人の娘かとも思ったが、それでは身に纏う高貴さに説明が付かないのだ。


 この辺りの諸侯の顔を思い浮かべるが、あまり面影の似た者は思い出せない。とは言え帝国三百諸侯と一千貴族の全てを憶えているわけではないから、どこかのだれかの娘であるという可能性は十二分にある。

 ああ、結婚相手がこの娘だったら。

 そんなことを考えながらコンラートはウナギの最後の一口を串から食べ終える。


 あちらもセレス、こちらもセレス。同じセレスでどうしてこうも違うのか。

 王女摂政宮の方のセレスに直接会ったことはないが、あの悪逆非道ぶりを見る限りではどう考えても毒婦の類だろう。

 いっそ身分を明かしてこの娘を帝都へ招こうか。


 祖父である先帝は妻に一途な人だったが、代々の皇帝には英雄らしく色を好むものも少なからずいた。さすがに西の大君(タイクーン)のように千や二千の規模で妻を揃えた者はいないにせよ、公には女友達としながら、第二婦人第三婦人を囲っていた皇帝は枚挙に暇がない。


 だが、それはやはり無理なことだ。

 眼鏡のセレスが心を開いているのは皇帝コンラートではなくただのコンラートに対してのこと。

 身分を明かせばその態度は硬直し、他の多くの女官たちと同じになるだろう。

 “王は孤独だ”とガームリヒは歌ったが、王の王である皇帝はさらに孤独なのだろうか。


 楽しい時間は無情にも過ぎていく。

 朝は昼になり、昼は夕になり、やがて陽は傾き始めた。

 歩きながら喉が痛くなるほど語り合った二人だが、話題は尽きないのに自然と言葉少なになっていく。二人とも、別れの時が近づいていることを知っているのだ。


 また、会えますか。

 そんな無責任な問い掛けはできない。コンラートは皇帝であり、公人だ。私人でああったことなど、即位をしてから今日を除いて一日もなかった。

 幸せな今日は思い出として、心の内へ納めておこう。そう自分を納得させようとしたとき、セレスが上目遣いにコンラートを誘った。


「不躾なんですけど、もう一軒だけ奢って頂けませんか?」


 頬が赤らんで見えたのは夕陽の照り返しだろうか。コンラートは人生で一番の勇気を振り絞り、精一杯の笑顔で応えた。


「ええ、喜んで」


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