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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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船上の密談(前篇)

 葦の原を縫うように進む平底船の縁を水が打った。

 一面の湿地の中でも、この辺りにはまだ水の流れがある。櫂を動かす船頭に止まるように手を挙げて指示を出し、ラインホルトは水路を記した地図に水流の向きを書き込んでいく。


「本当にここに水路を通すつもりかねラインホルトさん」


 まだ陽も高いが酒を呷っているゴドハルトが訝しげに尋ねた。

 古都から北へ少し離れたこの湿地は水量こそ多いが、交易用の船が通ったという記録はない。

 地元の漁民がボルガンガやセッコ、ボウズギョラのような雑魚を採るための漁船を入れることはあるが、それだけだ。


「これまで少しずつ調べを進めてきましたが、不可能ではなさそうです」

「不可能ではない、か。便利な言葉だな」


 嘲るように呟いたのはもう一人の船客だった。

 マルセル。

 織物職人ギルドのマイスターであり、現在の古都参事会の議長でもある。

 参事会に席を持つ議員の三人が平底船でこんなところにまで出張ってきているのには理由があった。この湿地に、水路を通すことができるかどうかという調査だ。


「ここを通せば、古都への利が大きいことは先日お話したとおりです。マルセルさん」

「話には理があった。だが実際にここを見ると、な」


 三人と船頭の乗る平底船は連絡用に参事会が所有する小船だ。喫水も浅く、交易用の船よりも浅いところを通ることができる。この船がいくら通れたからといって、すぐに水路を設定することができるわけではない。


「多少の浚渫が要ります。それは間違いない。しかし、完成すれば利が大きい」


 ラインホルトは湿地の底の土を掘り返す必要があることをあっさり認めた。大変な工事だ。できないことはないが、越えなければならない課題は多い。


「そうは言うがな、ラインホルトさん。人手をどうするつもりかね。古都参事会は大市の成功で懐に余裕があるが、人手の方は集めるのが難しいぞ」


 他に人がいないという消極的な人選で選ばれたはずのマルセルは、急速に政治家としての実力を身に付けつつある。古都という環境のせいだ。年末の大市に先帝をはじめ帝国の重鎮と相次いで面会をし、時には交渉することになったマルセルはこの歳にして成長せざるを得ない千尋の谷に突き落とされたのだ。

 才能があったかどうかはともかくとして、これほど理想的な政治の学校もない。


「傭兵を使います」

「傭兵、か。そう来るとは」


 マルセルがラインホルトの返答に唸ったのは理由のないことではない。

 古都が現在抱える問題の中で、傭兵の問題はとても大きな比重を占めている。

 北方三領邦の問題が片付き、魔女狩り騒動は未然に防がれた。

 結局、今の帝国北部は平穏すぎるのだ。


 一度流れ込んだ傭兵は戦がなくなれば移動を開始する。ただ移動するだけなら退去料でも払ってやりたいくらいだが、行きがけの駄賃に小さな村々を襲う不届きな傭兵もいないではなかった。


「傭兵の多くは元々良民です。仕事がないから傭兵になる」

「仕事を与えて良民に戻るとは限らんよ。ただただ傭兵をこの地に縛り付けるだけかもしれない」

「縛り付けたとしても、水路が完成すれば古都は豊かになります。豊かになれば傭兵との付き合い方も今とは変えることができる」


 ラインホルトの言葉にマルセルが低く唸った。

 仕事を与えれば傭兵の内のいくらかが武装を捨てて農民なり市民なりになるであろうことは、マルセルも分かっているのだろう。ただそれに諾と答えられないのは、マルセルが古都参事会の議長だからだ。


 古都の利を増やすよりも、古都を安定させなければならない。それが議長の務めだ。下手に利殖を目指せば、先代議長のバッケスホーフのように道を誤るという恐れを抱いていることは、ラインホルトにもよく分かった。


 水路は、利を産む。

 悠久の大河であるベルフラウ河に抱かれた古都は水運によって栄えた都市だ。遥か昔、古帝国時代にこの地に築かれた時から、流通の要衝であり続けてきた。

 その繁栄に、陰りが見えている。

 この船に乗り合わせている三人の議員は全員がそのことを危惧しているはずだった。


「確かにここに水路を通せば、河川通行税は支払わなくてよくなるな」


 酔眼で寝転がっていたゴドハルトが呟くように言った。

 ラインホルトだけでなく、マルセルも頷く。

 古都から北へ向かうベルフラウ河の流域にはいくつもの貴族が封じられている。必ずしも懐具合が頼もしいと言えない彼らはここ数年、相次いで古都の下流に河川通行税を課していた。

 一家一家への支払いは大したことがないが、纏まれば意外にも大きな額になる。


 これまで古都の荷揚げを中心に商ってきたラインホルトは商人たちの苦情としては問題を知っていたが、自分で蛸の取引に関わるようになって問題の深刻さを改めて痛感していた。

 帝国議会にもこの問題を訴えていたが、貴族たちの反応は驚くほど捗々しくない。

 考えてみれば当たり前のことで、議会に席を持つ古都のような帝国直轄都市の数は少ないのだ。議席のほとんどを諸侯に占められていれば、貴族有利の議論になるのは当然だった。


 むしろ、自分の領地で河川通行税を取り入れようという動きすら広がっている。貴族としての体面を保つのに掛かる費用は毎年大きくなるが、金の卵を産む鶏はどこにもいないからだ。

 だから、水路だ。

 蛸や魚の干物を仕入れたいからというだけではない。ここを通じて北の港町へ商品を送れるようになれば、青息吐息の各ギルドは息を吹き返す。


 何故ならば、この湿地は無主の土地なのだ。採れるのは雑魚と質の悪い泥炭のみ。

 帝国直轄領といえば聞こえがいいが、誰もここを納めたがらないというのが本当のところだ。

 領地が増えるのはほとんどの場合は慶事であるはずだが、こんなところに封じられては末代までの恥と避けられている土地の一つがここだった。

 ここに水路を通して既成事実を作ってしまえば、ゆくゆくはこの土地も古都の附属地として帝国議会に認められるだろう。そういう種類の土地だ。


「河川通行税の負担がなくなれば、古都の織物ギルドは助かるよ、確かに」


 搾り出すように言うマルセルの立場は難しい。

 古都参事会の議長だが、織物ギルド全体の代表というわけではなかった。三つあるギルドの仲の一つの代表でしかない。議長として振舞うべき立場だが、ギルドのマイスターとして利益を誘導していると取られたくないのだろう。


「マルセルさん、これは古都全体の利益の話です」

「それは分かっているさ。私も生粋の古都っ子(アイテーリアン)だからね」


 ラインホルトの差し出した手を、マルセルが握り返す。二人の手を包むのは、ゴドハルトの大きくゴツゴツとした掌だ。

 賭けに勝った。

 マルセルも水路の件に同意したがっていることはラインホルトも確信に近い予感があったが、問題は彼の政治家としての立場だった。

 自分のことを参事会議長としてではなく、古都っ子と表現した時点で、勝利は漸く確定したのだ。

 このままでは、古都は緩やかに衰退する。

 だが今ならまだ、間に合うはずだ。


「……さて、ラインホルトさんの議題が終わったなら、次はこちらだな」


 咳払いをしてマルセルが話を切り出す。

 大した長尾狸だ。ラインホルトとゴドハルトの誘いに乗ってのこのこ出掛けてきたように見せかけて、本当は自分の方も密談を持ってきたらしい。


「なんですかね、マルセルさん。あまり物騒なことじゃなければいいんですが」

「むしろめでたいことですよ」

「ほう、めでたいことなら大歓迎だ」


 持って来た酒を全て飲み干したのか、ゴドハルトが座り直す。


「まだ内々の秘密ではあるが……実は古都で見合いをしたいという打診があった」

「見合い、ですか?」


 見合いくらい珍しいことではない。古都はその名の通り古くから栄えた街だから、由緒ある宿や食事どころも数多く存在する。貴族が見合いをするのは日常茶飯事だ。


「マルセルさんがわざわざ断るということは、余程大物ということかな。例えば、侯爵とか」


 侯爵といえばゴドハルトが思い浮かべているのはアルヌ・サクヌッセンムだろう。歳から考えても見合いをするのに不自然さはない。

 古都と隣接する領地の主だけあって、市政に影響はある。確かに事前に留意しておいたことは多いだろう。


「アルヌの若殿なら良い夫になるでしょう」

「……誰がサクヌッセンブルク侯爵の話だと言った?」

「違うんですか、マルセルさん」


 侯爵より見劣りするとなると貴族の顔は無数に思い浮かぶが、それ程重要とは思われない。

 大袈裟に言っただけかと拍子抜けしそうになったとき、マルセルは呟くように言った。


「見合いの主は、皇帝陛下その人だよ」


 事の大きさに、ラインホルトとゴドハルトは二人とも力なく笑うことしかできない。

 確かに今上の皇帝陛下は、独身だ。

 奥手だからとか、不能なのではないかと不遜な噂も立っていたが、いつかは妻を娶るのだろうとは漠然と考えられていた。来るときが来たというだけなのだがよりにもよって古都で見合いとは。


「ならばそれなりの格式は整えねばなりませんな」

「そうは言うがな、ゴドハルトさん。格式の前例がない」

「前例がないということはないでしょう。調べ物が必要なら聖堂にも手伝いを頼みましょう。こういう慶事であれば嫌とは言わないはずです」


 ラインホルトとしては、ここで失敗するわけには行かなかった。ゴドハルトに古都の漁業権の勅許は譲り渡したが、古都で見合いが成功したとなれば何かしらの恩典があるかもしれない。

 今更漁業権には何の未練もないが、何か勅許なり勅状なりを手に入れたいという思いはずっと燻っている。


「それで、相手は誰なんですか」


 ゴドハルトの問いにマルセルは力なく首を振り、力なく答えた。


「セレスティーナ・ド・オイリア。東王国の王女摂政宮だ」


 二人は、今度こそ、黙った。


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