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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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ハンスの課題(前篇)

 腕を組んだハンスはじっと俎板を見つめている。

 もう随分と同じ姿勢のまま、考え事を続けていた。頭の中を占めているのは、トリアエズナマのキレと微かな苦味のある味わいだ。


 先日めでたく父親のローレンツと和解したハンスに、タイショーから一つの課題が出た。

 新しい品書きに加える品を一品、考えろというものだ。

 まだ店に出すものを作れる立場になったわけではないが、品書きを考えることができるというのは大きな進歩だ。それだけタイショーが認めてくれていると言うことである。


 お題は“トリアエズナマに合う肴”だ。

 期限は特に定められていないが、なるべく早い内に完成させたい。そう思って最近は連日、営業後の居酒屋ノブでこうして腕を組んで考えているのだ。


「何かいい考えは浮かんだかい?」


 タケツルのピュアモルトに浮かぶ氷をリオンティーヌが指先で撫でると、グラスの中でからりと心地の良い音が奏でられた。最近ノブで新たに扱い始めた酒だ。リオンティーヌはこれが甚く気に入ったらしく、専らタケツルとタンタカタンを晩酌の友としている。


「何も」

「何もってことはないだろう。もう何日もそこに突っ立っているんだからさ」

「全く新しいものが作ってみたいんだ」

「そいつはまた大きく出たね」


 全く新しい料理を作りたいというのは、考えなしに言っているわけではない。

 居酒屋ノブの料理はどれも美味しくて洗練されている。その中で品書きに加えられるためには、何か新しさが必要なのだ。

 タイショーの料理を真似て少し工夫を加えるようなものでは、せっかく与えてもらった機会を活かす事ができないし、なによりも自分が納得できない。


「せめて材料だけでも決めてみたらどうだい? トリアエズナマに合いそうな材料ならいくつか思いつくだろう?」

「豚肉を使ってみたいと思ってるんだ」


 豚肉は古都でも広く親しまれている食材だが、居酒屋ノブでは驚くほど扱いが少ない。トンカツやクシカツ、それとカクニなどには使われるが、鶏肉ほど活躍の機会が与えられているわけではなかった。

 ブランターノの森で放し飼いにされている豚は秋の間に二瘤団栗や薬椎の実を食べて今の時期に市場に並べられる。その豚を使って、何かを作りたい。


「豚ね。煮ても焼いても揚げてもトリアエズナマに合いそうだ。良い選択だと思うよ」

「問題はどう調理するかだなぁ」


 煮ても焼いても揚げてもトリアエズナマに合うとリオンティーヌがすぐに断言することができるのは、煮ても焼いても揚げてもこれまでに存在する料理にしかならないということでもある。

 居酒屋ノブでは置いていない料理でも、古都の他の店で食べられるものならハンスがわざわざ考える意味はない。


 さて、どうしたものか。

 レイゾウコから豚肉を取り出し、目の前に置いてみる。生では絶対に食べられない豚肉である以上、必ず火は通さなければならないが。

 煮る焼く揚げる以外に、何かないだろうか。そんなことを考えながら豚肉を色々な向きから眺めていると、ノブの硝子戸がコツコツと敲かれた。


 思わずリオンティーヌと顔を見合わせる。

 ノレンはとっくに仕舞っているし、タイショーは上でケイジドラマを見ている。シノブが何か忘れ物をして取りに来るなら裏口からだし、エーファがこんな時間に来ることはありえない。


 まさか盗人か。

 既にリオンティーヌは箒を片手に身構えている。扉に対して半身に構える姿勢はさすが歴戦の傭兵と思わせる美しい構えだ。

 リオンティーヌに頷きかけ、ハンスは姿勢を低くして硝子の引き戸に手を掛けた。

 呼吸を整え、一気に引き開ける。


「誰だ!」

「うひゃあ」


 裂帛の気合を載せたリオンティーヌの誰何に、訪問者は尻餅を付いた。

 その顔に、ハンスは見覚えがあった。というよりも、毎日顔を合わせている。


「……兄貴?」


 情けなく雪の<馬丁宿>通りにへたり込んでいるのは、ハンスの兄であるフーゴだった。


「ハンス、この時間はもうやってないのか?」

「そうだよ。ノレンがもう出てなかっただろ?」

「でもまだ中が明るかったし、腹も減ったし、ひょっとしたらって」


 上目遣いにそう言う兄をとりあえず中に入れ、ハンスは焜炉に火を入れた。ユキヒラナベに湯を沸かすと冷や飯を放り込む。

 閉店後に来たのだから、フーゴは客ではない。ハンスが何か調理して出しても問題ないだろう。

 指の傷ももう、治っている。


「今度からはもう少し早く来てくれよ」

「うん。なるべくそうする。でもここのところちょっと忙しくてさ」


 聖堂のトマスから請け負った仕事が、意外に難航しているらしい。フーゴとハンスの父親ローレンツは古都で一番の硝子の専門家だが、客の指定し通りの厚さに研磨するというのは並大抵のことではなかった。今はフーゴと二人掛かりでこの仕事に専念しているという。

 普段会話と同じように話してしていると、リオンティーヌがにやりと笑う。


「仲の良い兄弟じゃないか。ハンスがそんなに打ち解けているのをはじめて見た気がするよ」

「そうかな?」


 自分では分からないが、どこかに壁を作っているのかもしれない。

 幼い頃から、旅から旅の生活だった。

 言葉も通じない場所でも友達はできたが、一番仲がいいのはなんと言っても兄のフーゴだ。だからこの歳になっても、兄とは仲がいい。

 卵を割り入れて、卵粥にする。胃弱の気がある兄にはこれくらいの軽いものの方がいいだろう。


「さ、どうぞ」

「ありがとう」


 美味そうに粥を啜る兄の顔を見ていてふと思い出したのは、西へ旅をした時のことだ。その頃にはもうハンスの母親はいなくなっていて、ローレンツの兄弟二人の旅だった。

 確かあれは、フーゴの伯父という人に会いに行く旅だった筈だ。

 見渡す限りの草原を、馬に乗って何日も進む。胡椒を買い付けにいく交易団(キャラバン)と同道したが、子供は兄とハンスの二人だけだった。

 四方を地平線に囲まれた満点の星空の下で食べた羊肉が妙に美味かったのを今でも憶えている。

 粥を食べて満腹したのか、フーゴの表情が和らいできた。初対面のリオンティーヌに一通りの挨拶を済ませると、自然と雑談が始まる。


「ハンス、最近帰りが遅いみたいだけど、何か困ってるのか?」

「うん、新しい品書きがなかなか思いつかなくてね」


 豚肉を使おうと思っているということもまで伝えると、フーゴは木匙を加えたまま思案顔になった。まるで身動ぎしない。

 昔からの癖で、フーゴは考え込みはじめるといつもこうなる。


「これは暫く帰れないかな……」

「そういうものなのかい?」

「ああ、こうなると長いんだ」


 何でも器用にこなす自慢の兄だが、これだけは困りものだ。何かに集中すると周りのことがなにも気にならなくなる。声を掛けても反応しない。

 帰るのを諦めると、いろいろと試したいことも出てくる。豚肉の切り方を変えてみるというのはどうだろうか。ベルトホルトが持ってきた烏賊の燻製も、裂けば随分と食感が変わった。豚肉を薄切りにしてみるというのも面白いかもしれない。


 リオンティーヌももう少し付き合ってくれるつもりか、タケツルのロックをもう一杯作っている。

 静かな時間がゆっくりと流れていく。

 今日は雪も降っていないからか、どこかで犬が遠吠えする声もよく聞こえる。


「……挽き肉はどうかな?」


 フーゴは思ったより早くこちらの世界に帰ってきた。朝までの居残りを覚悟していたので、少しありがたい。


「挽き肉? 腸詰でも作るの?」

「違う違う。ハンスは憶えてないかな? あの、羊の包み焼き」

「ああ、ペリメニ!」


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