親子丼(後篇)
翌日は開店時間を狙って出掛けることにした。
今請け負っているのは聖堂のトマスという若い坊さんに頼まれた硝子の研磨だけだから、早く上がることができる。最近聖王国で広まっている遠眼鏡というのを作りたいらしいが、ローレンツにはよく分からない。
「親方、そろそろ出ましょうか」
「そうだな」
工房を出ると、夕陽の照らす道なりに南へ下る。昨日の雨で凍りついた道も溶け出し、今は少し泥濘むだけだ。職人街と<馬丁宿>通りとは目と鼻の先にある。
「お前と居酒屋に行くのははじめてか」
「飲めないからね、酒自体が」
「そう言えばそうだったな。でも、ノブは料理も美味いぞ」
「それは楽しみだな」
ありふれた茶色い髪のハンスと違い、フーゴの髪と目は濃い暗褐色だ。ハンスとは母親が違う。遥か西の遊牧民に出自を持つフーゴの母は、一滴も酒が飲めなかった。氏族全体がそうだというから、そういうものなのだろう。
新しく雇い入れた職人の出来不出来の話をしていると、あっと言う間にノブの前に着いた。
ちょうどシノブがノレンを出している。
「ローレンツさん、いらっしゃいませ! お久しぶりですね」
「ああ、少し御無沙汰だったかな」
「そちらは?」
「シノブちゃんははじめてか。こっちは息子のフーゴ。ハンスの兄だな」
「はじめまして、フーゴです」
「いらっしゃいませ、フーゴさん。さ、どうぞ中へ」
案内されるままに店の中に入ると、ハンスが一瞬驚いた顔をした。だが、特に何か言うわけでもなく目礼するとすぐに手元の作業に視線を戻す。
「……らっしゃい」
包丁を拭うタイショーに軽く挨拶をすると、ローレンツはカウンター席に座った。
トリアエズナマと、フーゴには酒精のない飲み物をと頼む。
運ばれてきたジョッキで喉を潤すと、店内の品書きをぐるりと見回した。ここの食べ物はどれも美味いが、今日は別の目的がある。
「シノブちゃん、ちょっと聞きたいんだが」
「なんでしょう?」
「ここの品書きの中でうちの息子でも作れるのはどれかな。今日は息子の料理が食べて見たいんだ」
簡単に教えてくれるだろうと思ったのだが、返ってきたのは予想外の答えだ。
深々と頭を下げると、シノブはきっぱりとした口調で宣言した。
「申し訳ございませんが、ご注文にはお応え致しかねます」
「え、それは、どういうことだ?」
「当店のハンスは本日、お客さまに料理をお出しすることができません」
お出しすることはできないなんていう莫迦な話があるか。ハンスは料理人としてこの店に雇われていて、給料も貰っている。そのハンスが料理を出せないなら、何のために雇っているのか。
「でも、昨日作ってくれたシチューはなかなかの味だったぜ」
「それでも、お応えできません」
「シノブちゃんも意地悪なことを言わないでくれよ。せっかく長男もはじめてノブに連れてきたことだし、な?」
それでも、シノブは首を縦に振ろうとしない。
自分も息子のハンスも筋金入りの頑固者だが、このシノブというお嬢さんもかなりのものだ。
「いえ、それでも……」
「分からないなぁ。客が食べたいと言っているものを、店が出せるなら、出してくれるのが人情と言うものじゃないのかい? それともこの店ではハンスに何も教えていないっていうことなのか?」
ああ、ダメだ。
ついつい感情が高ぶって言うべきではないことも口にしている。そのことは分かっているが、自分では止められそうもない。
「そうではありません。当店のハンスは仕事の憶えも早い自慢の店員です」
「なら!」
「……父さん、止めなよ」
消え入るような声で横から言ってきたのは、フーゴだ。
口調こそ弱々しいが、目には力がある。
「だがよ、フーゴ」
「うちの工房だって、大事なお客さんには徒弟の作ったものは売れないだろう」
「う……」
それはそうだ。例えば聖堂のトマスが仕事を依頼してきたのは、ローレンツの腕を見込んでのことだ。研磨の腕がそこそこあったとしても、徒弟に任せることはできない。
大事な客は、大事な客だ。
一度でも疎かに扱えば、次から仕事は入ってこなくなる。
文句を言ってくれる客なら汚名を雪ぐこともできるだろうが、粗略に扱われたと感じた客の多くは何も言わずに去っていってしまうし、時として周りに悪い評判を振り撒きもするのだ。
だからこそどんな時も気を抜かず、工房としてできる最善の仕事を提供するように心がけている。
ただ、それでもローレンツには言いたいことがある。
「その気持ちは分かる。店としてはお客を大切に扱わないといけないということは、オレにも分かるよ。でも、それじゃ職人はどうなる。自分の仕事に値段が付いてこそ、できる成長もあるんじゃないのかい?」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて……」
慌てたのはハンスだ。
参ったなと頭を掻く指に、何かが貼り付けてある。
「どうしたんだ、ハンス。その指は?」
「……今朝、仕込みの途中に指を切っちゃったんだよ。だから今日は料理をしちゃいけないんだ」
「……オレは料理には詳しくないんだが、怪我をしたら料理しちゃいけないものなのか?」
タイショーとシノブが無言で深々と頷く。
そういえばこの店では料理人でもないシノブが時々手製料理を振舞ったりしていたはずだ。
なんだか肩透かしを食らったようになって、ローレンツは前のめりになっていた身体を椅子の背もたれに預けた。全てが莫迦莫迦しい。張り詰めていた何かが抜け落ちたような気持ちだ。
フーゴも忍び笑いを漏らしている。
「そうならそうと先に言ってくれよ……」
「言う機会がなかなか掴めなかったんで」
てへへと笑われるとシノブを怒る気も何処かへ失せてしまう。
「ま、そういうことならしょうがないな。とびきり美味しくて腹に溜まる料理を頼む」
「はい、畏まりました!」
注文が通るとすぐに、タイショーが手馴れた仕草で鶏肉を切り始めた。ハンスは丼を用意している。こういう呼吸で仕事ができるというのは、大したものだ。
「ハンス」
「なんだい、じゃない、なんですか?」
「お前、いい店を見つけたな」
口調は努めて冗談めかしているが、言葉はローレンツの本心だ。
「……どうしたのさ、急に」
「急にも何もないさ。親が息子の働き振りを見て店を褒めるなんて当たり前のことだろうが」
「まぁ、そりゃ当たり前のことだろうけど」
当たり前のことをせずにしてきた親子、いや、家族だった。
フーゴもハンスも、勝手に大きくなって勝手に大人になったという気がする。勝手に大きくなったのだから、勝手に仕事を選ぶのも本人の自由のはずだ。
くつくつと鍋からいい匂いが立ち上りはじめた。タイショーは煮込んだ鶏肉を卵で手早くとじていく。音と香りとが仕事疲れのローレンツの胃袋を刺激する。
「シノブちゃん、今日のはなんて料理なんだい?」
「今日のメニューは親子丼です。鶏が親で、子が卵ですね」
「へぇ、オヤコドンね」
タイショーの口元には気持ちのいい笑みが浮かんでいる。
粋な心配りと言うわけだ。
運ばれてきたオヤコドンを木匙で掬い、頬張った。
まだ少し半熟の玉子が米にとろりと絡む。鶏肉と卵の相性が、実にいい。
なるほど、確かにこれは親子だ。
出汁の染みた米飯もまた、良い。玉子がふわふわとろとろとしているのはそれだけでは頼りないが、米と一緒に口に含むと良い塩梅になる。
こういう食べ方もあるというのを、ローレンツははじめて知った。
遍歴職人として諸国を旅していると、古都で暮らし続けるよりもずっと多くの事を知っているつもりになる。これはこうなるだろう、あれはそうなるに違いない。物を知ったつもりになると、決めつけることが自然と多くなる。
そんなものは思い込みだと、若い頃の自分なら嗤っていたのではないか。
居酒屋で出てくる飯一つに驚いているのだ。世界は広い。
木匙で米を掻き込んでいると、何だかいろいろなことがどうでも良くなってきた。美味い飯を食うと、幸せな気持ちが湧きあがってくる。
フーゴがどういう職人になろうが、ハンスが料理人になろうが、それは本人たちの決めることだ。
自分自身、十二の時に家を飛び出して遍歴硝子職人になったのではなかったか。比べてみると、今の息子たちの方がよほどしっかり将来の事を見据えて働いている。
「タイショー、お代わりを貰えるかな」
「はい、できますよ」
丼の底に残った飯粒を集めて木匙へ口に放り込みながら、鶏と卵の親子を想う。
少し変則的だが久しぶりの親子揃っての夕食は、ふんわりと優しい味がした。




