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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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古都の大市(前篇)

 今年も大市の初日は晴れだった。

 去年も一昨年もその前も、この日だけは不思議と晴れる。

 マルセルの知る限り、それはずっと続いていることで、少なくとも曾爺さんの代からは一粒たりとも雨が降ったことはない。


 但し、寒さだけは厳しかった。晴れれば冷えるのがこの季節の道理だ。老いて痩せたマルセルは商売品の服までかき集めてぶくぶくに着膨れている。

 去年までと同じように大市が始められそうなことにマルセルは密かに胸を撫で下ろしていた。


 自分が市参事会の議長に就任した途端によくないことが起こるというのは、やはり気持ちのいいものではない。

 何せ前任のバッケスホーフは今や罪人の身の上だ。織物職人ギルドのマイスターの中で一番当たり障りがないという理由で参事会に推されたマルセルとしては、何事も大過なく終えることだけがたった一つの望みという具合だ。


 マルセルは間もなく日の出を迎える大門の階段を登りながら、女神に祈りの聖句を唱える。

 どうか今年は商人がたくさん集まりますように。

 大市の取引高は、古都(アイテーリア)の税収を左右する。なるべくなら、多くの商人に来て欲しい。

 寒さに手を擦り合わせながら階段を登り切ると、鐘楼に出る。ここで市参事会議長が鐘を鳴らすと、大市が始まるのだ。栄誉あるこの役目は市参事会議長の権利であり、義務でもある。


 マルセルにはもう一つ気がかりなことがあったが、今は大市を始めることが先決だ。

 大門の外を見ることのできる覗き窓には、今年の当番であるホルガーとゲーアノートが既に待っていた。二人とも窓から外の様子を見るのに忙しいようで、マルセルの方には気付きもしない。


「オホン」


 精一杯の威厳を込めて、マルセルが咳払いをする。六十を過ぎてなお矍鑠としているマルセルだが、市参事会では軽い神輿のようなものだ。旧バッケスホーフ派と現在の主流派の間でふわふわと漂うようにして発言力を維持している。

 それでも話を聞いてくれそうなのが、ホルガーとゲーアノートの二人だった。今回の当番をこの二人に指名したのも、そういう事情があってのことである。


 ところが、どういうわけか今日は咳払いをしてもこちらを振り向いてくれない。

 聞こえなかったのかともう一度軽く咳払いをするが、それも無視されてしまった。

 こうなっては仕方がない。マルセルは辞を低くして二人に朝の挨拶を入れることにした。


「おはよう、お二人さん。今年の馬車の列は手前の丘くらいは越えているかね?」


 この鐘楼からは街道沿いの丘が三つ見える。手前の丘、中の丘、奥の丘。

 中の丘まで馬車とその護衛の列があれば大市は大成功だが、北方三領邦問題が勃発したここ数年は手前の丘までも車列は届かなかった。

 北が落ち着いた今年こそは、とマルセルは期待しているのだが。


「ああ、議長。こいつはちょっとな……」

「少し拙いことになるかもしれませんよ」


 ホルガーとゲーアノートが揃って不吉なことを言うので、マルセルの胃がきゅっと縮まる。

 手前の丘までも馬車が集まらなかったのだろうか。そうなると税収のやりくりは思っていたよりも厳しいことになる。市壁の修理や運河の浚渫など、参事会として取り組みたい事柄は山のようにある。それに手を付けられるくらいの税収は確保できれば良いのだが。


「……そうか、ある程度は覚悟していたのだがな。で、どれくらい来ているのだ。さすがに両手の指で数えられるほどということはないのだろう?」

「両手の指で、か。数えられるかな、ゲーアノート?」

「少し難しいかな」


 実際に指を折りながら数えてみせるゲーアノートの仕草に、マルセルも肩を落とす。最近馬丁宿通りに開店したという流行りの薬屋で胃薬を買ってきた方がいいかもしれない。

 任期一年目でとんだ災難に巻き込まれた。

 大市を楽しみにしていた市民には申し訳ないが、今年は粛々と進めてその経験を来年に生かすより外ないだろう。


「しかしまぁ、紋付の馬車だけで十以上というのは久しぶりではないか?」

「少なくともここ十数年の記録にはないな」

「……紋付?」


 二人のやり取りにマルセルは首を傾げる。

 貴顕の座乗する馬車には、紋が付く。

 古都の大市に来るといえばサクヌッセンブルク侯爵とブランターノ男爵の二つが慣例だ。お忍びで来る貴族もいるが、わざわざ紋付の馬車で公的に訪問する貴族は珍しい。


「サクヌッセンブルク侯爵、ブランターノ男爵は例年通りとして……あの紋はどこの紋だ、ゲーアノート?」

「バーデンブルク伯ヨハン=グスタフ閣下だな。その次は北方三領邦のウィンデルマーク伯、カルセンマーク伯、システィンマーク伯。吟遊詩人のクローヴィンケル男爵に管区大司教か。聖王国(ルプシア)の枢機卿旗もあるな。珍しい」


 ゲーアノートの口にする錚々たる顔ぶれの名が俄かには信じられず、マルセルは覗き窓から外に顔を突き出す。

 そこには信じられない光景が広がっていた。

 紋付馬車とそれを先導する騎士の持つ旗幟が手前の丘まではためき、その奥に際限なく馬車が連なっている。護衛の多さは運んでいる荷物の喧伝のために誇張して語られることが多いが、今年は違う。本当に王侯貴族が臣下を率いて入城してくるのだから、その規模は例年の比ではなかった。


 奥の丘まで続く車列は少しも途切れておらず、その向こうにも更に繋がっているのはほぼ間違いない。いったい、何が起こっているというのか。


「な、大変なことになっただろ、議長?」

「公式訪問される貴族の宿も足りません。至急、参事会を呼集して、誰の家に誰をお迎えするかを割り振らねば。もちろん、あぶれた商人たちと護衛の宿ををどうするのかも」

「あ、ああ……晩餐の支度もしなければならんしな」

「いや、それは先方の都合を聞いてからでも良いかもしれませんが」


 奥歯に物の挟まったような言い方をするゲーアノートの態度を訝しむ。あれだけ貴族にまさか酒場に繰り出して勝手に飲み食いしてくださいというわけにもいかないだろう。

 ある程度の格式がある店で、今から押さえられるところとなると限られる。頭の痛い話だ。

 やらねばならないことを書き留めようとマルセルは懐に羊皮紙を探した。その拍子にバサリと一通の手紙が床に落ちる。


「なんだい議長、その手紙は?」

「随分と質の良い羊皮紙のようですが」

「そうそう、これについても二人に相談したかったんだ」


 広げて見るとそこには流麗な文字で、意味の分からないことが書かれている。


「なになに、〝貴市に囚われているダミアンという者は東王国(オイリア)の庇護下にあるものなり。至急、釈放されたし。東王国王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリア〟……?」


 王女摂政宮のセレスティーヌと言えば、東王国の幼王ユーグに代わって国政を掌る大物だ。そんな人物がどうしてわざわざ古都の一犯罪者の身柄に拘るのか。


「ダミアンという男は確かに牢獄に繋いでありますが……」

「罪状は?」

「魔女狩り騒動の首謀者ですよ。大司教の庇護下にあったようですが、絶縁されています」

「なんともよく分からん話だな」


 三人は無言で頷き合う。これはきっと、手の込んだ悪戯だ。羊皮紙は立派だが王女摂政宮の封蝋が捺されていないのも怪しさを増していた。


「なんにしても、今は大市の方が大事だな」

「それもそうです。議長、鐘を鳴らしてください」

「あ、そうだな」


 一つ咳払いをしてから、マルセルは鐘から伸びる紐に手を伸ばした。

 これを引けば、大市が始まる。

 今まで流されて生きてきたが、せめてこの紐だけは自分の意思で引こう。

 そう思ってもう一度だけ覗き窓から外に視線を彷徨わせたマルセルは、そこにあるはずのない物を見つけてしまった。

 丘の上に翩翻とはためく大旗に描かれているのは〝三頭竜に鷹の爪〟……


「せ、先帝陛下!」


 あまりのことに動転して倒れ込みそうになるマルセルは慌てて手近なものに捕まった。

 リンゴン、リンゴン……

 紐を引かれた鐘は重厚な音を響かせ、待ち構えていた衛兵隊が古都の大門の閂を外す。


 車列の先頭がゆっくりと門を目指しはじめるとそれに続く後続の流れが小波のように丘向こうまで伝わっていった。

 どこかで誰かが口笛を吹き、釣られたように鉦や太鼓が鳴り始める。


 ここに、古都の大市が幕を開けた。


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