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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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あさりの酒蒸し

 いつの間にか霙交じりの雪は小止みになっていた。

 厚い雲の合間から、微かに夕陽さえ射しはじめている。硝子戸を通して晩秋の柔らかな光が店内を明るく照らしていた。


 ロドリーゴはイングリドの隣にゆっくりと腰を下ろす。二人きりで座る居酒屋ノブのカウンターは綺麗に片付いているのに、数十年前の聖王都の雑然とした酒場のことを思い出すのはどういうわけだろう。


「あの頃は金がなくていつも安酒場で水割りばかり飲んでいたね」

「ロドリーゴはいつもミルクばかり飲んでいたけどね」


 イングリドの方でも同じ時分のことを思い出していたらしい。


「あれはもう良いんですよ。背も伸びましたし」


 ワインを搾った後の残りカスを発行させた蒸留酒は貧しい学僧たちの味方だった。元の度数が高いから、水で割ってもそこそこ酔える。正規に流通している酒ではないので、誰かに飲酒を咎められても言い逃れがしやすいという利点もあった。いいこと尽くめだ。

 ロドリーゴとイングリドは、そういう不良学僧の間でも少し名の知れた存在だった。


「あの店のツケ、先輩がいなくなった後にエトヴィンさんが全部払ってくれたんですよ」

「へぇ、あのエトヴィンさんがねぇ。髪と説教だけは長い先輩だったって記憶はあるけど、いいところもあるじゃないか」

「真面目な人でしたからね。今はどこで何をしているのやら」

「前に古都(アイテーリア)で似たような人を見たんだけどね。あの人がまだ助祭ってことはないだろうから、たぶん見間違えだろうよ」

「助祭ということはないでしょう。ヒュルヒテゴット枢機卿の懐刀ですから」

「そうだよね。何にしても打算なしで奢ってくれる人はいい人だよ」

「その代わりぼくが後で研究の手伝いをさせられましたよ。たっぷりと」


 ぼくと言ってしまって、しまったと口元を押さえる。管区大司教として猊下と呼ばれるロドリーゴが〝ぼく〟はないだろう。

 だが、イングリドは気にした風ではない。口元がほころんでいるところを見ると気付いてはいるらしいが、それをからかうつもりはないようだ。

 居酒屋の中を満たす懐かしい空気に、二人して浸かっている。今のイングリドとロドリーゴは魔女と枢機卿ではなく、あの頃の〝先輩とぼく〟だ。

 あの頃の淡い気持ちまで蘇りそうになって、小さく深呼吸をした。今の自分にその資格は無い。

 ジョッキがいつの間にか空になり、二人とも二杯目に移る。


 柔らかな空気と懐かしい沈黙を堪能すればするほど、ロドリーゴの中にある胡椒粒のような罪悪感が段々と大きくなり始めた。

 イングリドに、詫びねばならない。

 大司教としてだけでなく、ロドリーゴとしてだ。今回のことも、そしてあのときのことも。


 魔女探しにダミアンのような小者を使ったのは、ロドリーゴの失策だった。公務とは言い切れない魔女探しに、正規の部下を使うわけには行かなかったということもある。それよりも、枢機卿選挙に打って出るために、気が逸っていたということが大きい。


「……先輩」


 意を決したロドリーゴだったが、イングリドは笑って掌をひらひらと振って遮る。


「ロドリーゴ、酒の不味くなる話はまたにしようや」


 微笑みながらラガーを呷るイングリドの姿は、あの頃のままだ。老いたというよりも、美しく年を重ねたというべきだろう。こういう風に時を経るということがあるということに、ロドリーゴは不思議な感動を覚えている。


「先輩、どうでしょう。店を変えませんか」

「店を変える?」

「ええ、今泊まっている宿の食堂が、古都の店としてはなかなかでして。東王国(オイリア)風の品書きです。魚はまぁ内陸なのでアレですが、肉は美味いですよ」

「へぇ」


 あの頃はいい店でいい物が食べたいということだけ言い合っていた気がする。

 イングリドが聖王国(ルプシア)を去ってから必死に勉強し、それなりの地位に就いた。扶持も、人に羨ましがられる程度には貰えている。それでもいつも満たされないのは、一人で食べているからだ。

 イングリドと二人で食べて、はじめて飢えが満たされるという気がする。


「でもね、私はここがいいよ、ロドリーゴ」

「どういうことですか、先輩?」

「ここの雰囲気はあの頃に似ているからね。それに、この店は肴が美味い」


 イングリドの思わぬ言葉にロドリーゴは思わず首を竦めた。

 そんなことがあるものだろうか。この店のある馬丁宿通りは古都でも外延にある。普通の町ならば、料理といえる代物が出てくるような立地ではない。

 からかっているのだろうかとも疑ってかかるが、当のイングリドにそのような気配はなかった。

 ただただ美味そうにラガーを啜っているだけだ。


「シノブちゃん、何か美味い肴を頼むよ」

「はい、分かりました!」


 イングリドの注文に、シノブと呼ばれた給仕が元気よく応える。

 頼んでしまったものはしょうがない。美食に慣れたロドリーゴの舌には合わないかもしれないが、イングリドの勧めだ。貧しい学僧時代に戻ったつもりで、安い肴に舌鼓を打つ振りをしてみるのもまた一興だろう。

 それに、今の気持ちなら何を食べても美味しく感じるだろうという確信がある。

 ずっと探していた人に会えたのだ。こんなに嬉しいことはない。


 きのこ事件。

 ロドリーゴのしでかしたあの大失態を庇って聖王都を去ったイングリドがどこかで魔女をしているということしか、手がかりはなかった。最初は簡単に見つかると思っていたのが、これだけ長い年月がかかってしまったのだ。それでも、嬉しいことに変わりはない。


 これは吉兆だ。

 資金面での後援者だったバッケスホーフを失ったが、枢機卿選挙を戦い抜く活力がロドリーゴの中に湧いてきつつある。

 長年探し続けた人と再会できたということは、運が向いてきているということに違いない。神の定め給うた運命にも、予告くらいはあるだろう。

 この邂逅は、今まで雌伏の時を過ごさねばならなかったロドリーゴにとっては、反撃の烽火になるはずだ。

 枢機卿の座に就き、聖王国に返り咲く。そして、古典回帰派を束ねてヒュルヒテゴットの改革派と雌雄を決するのだ。


「お待たせしました!」


 シノブの運んできた皿には見慣れた物が盛られている。


「アサリ(ヴォンゴレ)か」


 口を突いて名前が出たのは、懐かしさからだった。アサリは貧乏学僧の定番の肴だ。

 海岸の多い聖王国では、アサリが山のように取れる。旬の時期に熊手で砂浜を浚えば桶をいっぱいにするのに然程時間はかからないほどだ。

 学僧は海辺に思索を遊ばせると称して出掛けて行っては、桶にアサリをどっさり取ってきて、それを酒場に二束三文で売りつけるのだ。支払いは金ではなく、酒でお願いする。桶いっぱいのアサリが杯に数杯のワインに化け、学僧たちの思索と議論を飛躍させる燃料となった。肴はもちろん、大量のアサリだ。


 懐かしい。

 あの頃は食べ飽きて、もう見るのも嫌だと思ったアサリが、今では無性に懐かしく思える。

 帝国出身のイングリドと違い、ロドリーゴは帝王国の海辺の出だ。

 大司教としてこの地に赴任してから、内陸の物ばかり食べているということもあるのだろうが、アサリを一目見ただけで郷愁が呼び起こされる。


 とは言え、アサリはそれほど美味い物ではない。

 それはありとあらゆるアサリ料理を食べ尽くしたロドリーゴの結論だった。

 鮮度が良ければ美味く食べる方法もあるだろうが、内陸の古都では望み薄だ。

 いっそパスタにでもしてしまえば目先も変わって楽しめるのだが、さすがに帝国の北辺で聖王国名物のパスタを常備している酒場などあるはずもない。


「こいつは美味そうだ。アツカンを貰えるかい?」

「はい、アツカンですね」

「おチョコは二つ頼むよ」


 イングリドの頼んだアツカンとは酒の銘柄だろうか。貝料理なら、ワインの白かもしれない。

 帝国のワイナリーは東王国や聖王国に比べるとまだまだだという話だが、イングリドなら安くていい銘柄を知っている可能性もある。

 こういう趣向もたまにはいい。

 美食に飽きたロドリーゴには却って新鮮ですらある。


 懐かしさを調味料に昔食べた安い貝料理を食べ、値段と量だけが売りのワインで強かに酔う。

 聖職者にあるまじき振る舞いだが、逆に言えばそんなことを愉しめるのも最後かもしれない。

 枢機卿として聖王都に職を奉ずることになれば、こういう莫迦な遊びもできないだろう。


「さ、改めて乾杯しようか」


 しかしイングリドが差し出したのは明らかに白ワインではなかった。

 小さな素焼きの杯に注がれる酒は無色透明で、酒精の香りが漂っている。

 鼻腔をくすぐるその芳しさに、ロドリーゴは思い当たる節があった。アサリだ。

 嗅ぎ慣れぬ匂いは何かと考えていたが、この酒のものだったらしい。


「乾杯」

「乾杯」


 きゅっと一口飲むと、思わずしみる。この酒は、鼻と喉とで味わう趣向か。なるほど小さな杯にするはずだ。はじめて飲む酒だが、味も香りもよい。

 芳醇さに騙されて度を過ごすとすぐに酔いが回ってしまうだろう。こういう酒は舐めるようにちびりちびりとやるのが正しい。

 思わず笑みがこぼれてしまうのは、自分がいつの間にか酒について論じることができるようになったからだろう。前にイングリドの隣に座ったときは、ミルクばかり飲んでいたのだ。


 そんなことを考えながら、酒で蒸したアサリに取り掛かる。

 行儀など知ったことではない。大司教ではなくただのロドリーゴとして、湯気の香りを楽しみながら大ぶりなアサリを殻ごと摘んで口に運ぶ。

 熱い。そして、美味い。

 蒸されているから味が逃げていないのに、臭みも感じなかった。

 味を堪能する前に、手が勝手に次のアサリを求めて伸びる。

 ちゅるり、

 ちゅるり。

 貝柱の強情な奴は歯でどうにか削いでやって、アサリを次々に口に放り込む。


 アツカンも、よい。

 白ワインと一緒に食べても美味いのだろうが、今この場ではアツカンだ。

 横を見ればイングリドも次々と空き皿に殻を積み上げている。

 食べ続けていると、酒精のせいか腹の底からかっかと熱が上がってくるのが分かる。


 冷めた美食では決して味わえない感覚だ。イングリドがこれを勧めてくれたのはありがたい。

 十も二十も若返った気になって、ロドリーゴは最後の一個までアサリを食べ尽くした。

 常ならば食べ切れぬほどの肴を用意させ、残して見せるのが富裕の表れだと信じて疑わないロドリーゴには珍しいことだった。


「どうだい、アサリもなかなか美味いもんだろう?」

「こんなに美味いアサリが古都で食べられるとは思いませんでしたよ」


 噴出す汗をオシボリで拭いながら、ロドリーゴも相好を崩す。

 居酒屋ノブ。実にいい店だ。この店のお陰でイングリドとも再会できたのだ。

 ここ暫くは腹痛や貧血に悩まされていたのだが、そういう日頃の鬱屈も全て消えてしまったという気がする。

 いつもの癖で懐から杯を取り出し、シノブにホットワインを頼もうとしたところでイングリドに止められた。


「その杯、少し珍しい物に見えるけれど?」

「ああ、先輩にも分かりますか。例のダミアンという男が贈って寄越した物です。装飾も古代風でぼくの好みに合うんですが、これで飲むと安ワインもまろやかに甘くなるんです」

「なるほどね」


 手渡すと暫く矯めつ眇めつしていたが、溜息を一つ吐くとイングリドは杯を放り捨てるようにシノブに手渡した。


「シノブ、その杯は捨てておいておくれ。誰も拾ったりしないように厳重にね」

「イングリド先輩?」

「それとロドリーゴ、アンタには政争は向かないよ。あまり大それたことは考えずに、適当なところで足抜けしたほうがいいね」


 突然のことに呆然としていると、杯を眺めていたシノブがあっと声を上げる。


「これ、内側に鉛が張ってあるんですね……これは確かに使えません」

「どういうことだ?」


 応えたのは、イングリドだ。


「……これでワインを飲み続けると、杯の鉛がワインと化合して溶け出すんだ。長く口にすると身体が蝕まれてくるんだよ」


 言われてみると、心当たりがある。この杯で食後にワインを飲み始めた時期から、腹痛や貧血が急に多くなった。気分が塞ぐようになったのも、同じ頃からだという気がする。


「最悪、死に至ることすらある」


 暗殺。

 そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 贈って寄越したダミアンか、その後ろで糸を引いていた者か。どちらにしても、あのまま杯を使い続けていれば……

 背筋を冷たいものが伝う。


「人間、向き不向きってものがあるからね。ロドリーゴ、あんた枢機卿なんて目指さないでさっさとどこかの修道院に隠居した方がいくらかマシな老後を送れるかもよ」


 年を重ねても知恵の輝きを失わないイングリドの瞳は、まだチビと呼ばれていたロドリーゴが想いを寄せていた頃と何も変わらない。

 アツカンのお代わりを頼むイングリドの横顔を見ながら、どうしてあの時、自分の方が聖王都を去らなかったのかとロドリーゴは静かに考え続けていた。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 誤字報告が無効になっているようですのでこちらから。 6段目の「残りカスを発行させた」の「はっこう」は、「発酵」ではないでしょうか?
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