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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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牛すじの土手焼き(後篇)

 寡黙な店主が調理を始める。

 ただ、イーサクの期待は大いに外れた。既に調理したものが鍋によけてあったらしく、それをやや小振りな鍋で温め直しはじめたのだ。

 火に鍋を掛けると、くつくつという音と共に甘い香りが立ち上り始めた。

 豆をよく煮込んだ匂いに少ししているが、それとも違う。


「シノブさん、あの料理は?」

「はい、牛すじの土手焼きです」

「ギュウスジのドテヤキ、か。ふむ」


 聞いたことのない名前だ。

 鍋の中にごろりと転がっているのは牛肉の様だが、当たり前に食べる部位ではない。普段は食卓に並ぶことのない、恐らくは腱の部分だろう。

 余程丁寧に煮込まなければ、固くてとても食べられないはずだ。


「煮込んでいるのは、牛の腱と……なんですか?」

「こんにゃくです」

「コンニャク……?」


 また聞いたことのない名前が出てきた。

 帝国と東王国、それに北方三領邦の料理にはかなり精通しているという自信があったが、そのどれにも思い当たる食材がない。

 柔らかそうな見た目は何かの内臓という風にも思える。


 内臓は鮮度を維持することが難しいのであまり流通しないから、その地方地方で独自の呼び方が定着していることが多い。見知った部位でも、思わぬ名前で呼ばれていれば、分からないこともある。

 牛の腱や内臓を使う、これも貧窮から生まれた料理なのだろうか。


 それにしても、この香り!

 火が回って温まるに従って、鼻腔をくすぐる香りはますます強くなる。

 甘く濃厚な芳香はコトコトという鍋の音と一緒に胃の腑を直撃し、先程テンプラを食べたばかりのはずなのに、空腹であるかのような錯覚に陥る。


「はい、お待たせしました!」


 上にはらりと刻んだネギ。

 小振りな皿に盛って来られたギュウスジのドテヤキは薄茶色のこってりとしたスープの絡んだ肉とコンニャクが入っている。


 間近で見ると、肉はやはり腱だ。

 固い部位の肉を煮たり焼いたりして、その噛み応えを愉しむ料理には心当たりがある。どれも肉本来の旨みを大切にした料理だ。

 ただ、それにしてはこの香りが気になる。

 濃厚な香りは甘く、濃い。

 肉の旨味を上から殺してしまうのではないか。

 そんなことを気にしながら、イーサクは一口目を運ぶ。


 柔らかい!

 固い腱を想像していたという事もあるが、驚くべき柔らかさだ。

 それでいて、肉の味わいは死んでいない。このスープというよりもソースというべき味付けが、実に肉とよく合っている。


 そして、コンニャク。

 ただクニクニしているだけなのだが、この食感は面白い。

 肉と一緒に口に含むと、堪らない面白さになる。


「寒くなると土手焼きが食べたくなるんですよね」


 シノブが注いでくれたのは、トリアエズナマという例のラガーのジョッキではなく、小さな素焼きの盃だった。

 無色透明な中身からは、芳しい香りが立ち上っている。

 杯は手に持つと、少し熱い。

 どんなものかと試しに口を付けてみると、口の中がすっきりとした美味さに洗われる。


「熱燗と合うでしょう?」

「アツカン、というのですか、このお酒は」


 銘柄も教えて貰ったが、アイヅホマレもイイデも聞いたことがない。

 どことなく異国を感じさせる、不思議な響きの名前だ。

 ドテヤキを食べ、アツカンを飲む。

 たったこれだけで、腹の底から幸せが拡がって行く。


「教えてください。この肉は、牛の腱でしょう? どうすればこんなに柔らかく煮込むことができるのですか?」


 答えたのはシノブではなく、厨房にいる店主だった。


「うちでは、三日煮込んでいます」


 三日。

 その言葉にくらりと眩暈がしそうになる。

 ここは居酒屋で、宮廷の調理場ではない。立っているのも居酒屋の店主で、王侯貴族の司厨長ではないのだ。

 それが、三日。

 一つの料理に掛ける熱意の強さに、イーサク何も言えなかった。

 時間だけではない。薪炭代も、莫迦にできないだろう。

 それでも、この味だ。

 この味を実現するために、この店主は肉を煮込む。

 そのことを誰も莫迦にすることはできない。

 事実、これだけ美味い料理ができ上がっているのだ。


「いやはや、参りました。正直を言うと味を盗んで帰ろうと思ったのですが、なかなかどうして。そう簡単には行かないらしい」

「土手焼きは肉の準備が大変ですから。三日下茹でして柔らかくした後、煮込んで味を沁みさせて一晩寝かせます」

「それはまた。味の調整も大変でしょう」

「うちの店には優秀な味見担当がいますから」


 店主がシノブの方を見ると、嬉しそうにぺろりと舌を出す。

 こういう温かな雰囲気の店だ。是非とも贔屓にしたい。


「逆に私には、古都の料理というのがまだまだ分かっていないようです」

「そういうことなら、いくつか昼でもやっている店を紹介しましょう。夜はお店があるでしょうが、昼に食べ歩いてみるのも色々と勉強になるのではありませんか」

「それはありがたいです」


 今の時期、古都の宿屋や酒場は大市に向けて新しい料理の開発に余念がない。そういう空気に触れることは、この店にとっても利点こそあれ、損になることは何もないはずだ。


 お勧めの店の名前と場所を店主に伝えたところで、イーサクはもう一つだけしなければならないことを思い出した。


「ところでシノブさん、一つお願いがあるのですが」

「な、何でしょう」


 真面目な顔のイーサクに怯んだのか、シノブも畏まる。


「……ギュウスジのドテヤキをもう一杯。できれば大盛りで。それと、アツカンもお願いします」

「はい!」


 ここの料理を食べて、アルヌはどんな詩を読むのだろう。

 ギュウスジのドテヤキを食べていると、不思議とあの下手な詩が聞きたくなるのだった。


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