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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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【閑話】思いがけない訪問者(前篇)

 前の店の夢を見るのは、久しぶりだった。

 料亭ゆきつな。

 信之にとっては、高校卒業からずっと働いてきた職場だ。

 老舗の料亭として少しは名の知れた暖簾だったが、時代が悪かった。

 先代社長が鬼籍に入って、後を継いだ長男は状況の変化に対応できなかったのだ。

 新しい客は増えず、上客は次第に一線を退いていく。

 一度歯車がおかしくなると、全てが段々駄目になるものだ。

 そういう店で、信之は働いていた。


 ラインホルトから譲って貰った蛸を、大根で叩く。

 こうしてやると、塩揉みするだけよりもぐっと柔らかくなるのだ。

 ゆきつなの板場で、師匠から教わった事だった。

 今日はこれを柔らか煮にして店に出す予定だ。

 古都の秋は寒さが厳しい。熱燗に合う肴は歓迎されるだろう。


 いつもならもうしのぶが来ていてもおかしくない時間だったが、今日はまだ姿が見えない。

 昨日の晩、少しプリンの事でからかい過ぎたのだ。

 最終的に商店街のケーキ屋でちょっといいプリンを買ってくるということで決着が付いたのだが、あのしのぶの事だ。

 一晩明けて喧嘩自体が馬鹿馬鹿しく、気恥ずかしくなったのだろう。

 それは、しのぶが料亭ゆきつなの社長の娘だった時分から変わらない。


 蛸を十分に叩き終えたので、次は引いた出汁の味を確認する。

 最近は、客の反応を見ながら毎日少しずつ出汁の味を変えていた。

 古都に溶け込む居酒屋のぶにしたい。

 今は常連で賑わうこの店だが、いつかは飽きられてしまうのではないか。

 そういう恐怖は、常に信之の中にある。


 料亭ゆきつなの二の舞には、したくない。

 その為には、自分の中に確固たる柱が欲しいのだ。

 ゆきつなで学んだことと、古都の人たちの好み。

 二つを繋ぐ、一本の柱を、信之は探し続けている。


 出汁の具合を大学ノートにメモしていると、裏口で何か音がした。

 しのぶが漸く重役出勤してきたのだろう。

 軽口の一つも叩いてやろうかと思ったが、昨日の今日だ。

 冷蔵庫の中のプリンをもう一度確認して、しのぶを待つ。


 しかし、妙なことに裏口の物音は続いている。

 まさかあのしのぶが鍵を忘れたということはないはずだ。料亭の女将となるべく教育されたしのぶは、店の管理という点では誰にも負けない。

 となると、裏口に居るのはしのぶではないのだろうか。


 信之は昨日の晩、店を訪れた客の事を思い出す。

 薬師イングリド。

 彼女が魔女というのは戯言だと弟子のカミラが言っていたが、その言葉は妙に気に掛かる。

 “必要な人間しか、通さない”


 言われてみれば、どういうわけか酒屋も郵便配達も新聞の勧誘も、裏口から一歩も店の中に入った(ためし)がないのだ。

 無理に入ろうとすると、蹈鞴を踏んだり、酷い時には転んだりもする。


 何にしても、裏口にいる人間の正体を確かめなければならない。

 一度神棚に手を合わせて裏に向かおうとするが、そう言えばと思って昨日の護符を回収する。

 受け取った記憶はないのだが、どういう訳か今朝には神棚の前に供えられていた。不思議なこともあるものだ。

 ズボンのポケットに護符を突っ込み、裏口を細く開ける。


「よっ、久しぶり」


 信之は、暫く開いた口が塞がらなかった。

 こんなことがあるのだろうか。

 そこにいたのは、料亭ゆきつなで信之が師匠と慕っていた、板長の塔原だった。


 招き入れると塔原は目を細めて店内を見渡し、

「なかなかいい店じゃねぇか」と呟いた。

 着古したジャンパーに角刈りの塔原は、一年半前に信之が店を飛び出した時とほとんど変わらないように見せる。

 ただ気のせいか、背丈だけがほんの少し縮んで見えた。


「板長、店はどうしたんです?」

「おいおい、塔原で良いよ。お前さんはもう一国一城の主なんだからさ。店は今日、小山田に任せてきた」

「……小山田さんで大丈夫なんですか?」


 信之が店に居た頃、板長は三百六十五日、ほぼ店を空けることがなかった。休みの日でも、何くれとなく用事を作っては店を覗いていたということを、今でも覚えている。

 板長に次ぐ立場にいた小山田も腕は良かったが、どうしても細かなところに手を抜く癖があった。その小山田に店を任せて出て来たということは、何か変化があったのだろうか。


「いやさ、それが今日は予約の席が一件もないんだよ」

「一件もですか?」

「そうだよ。先代の頃から、予約が途切れないことだけが密かな自慢の種だったんだがな」


 ゆきつなの状況は、信之が思っていたよりも相当悪いらしい。

 左前になった料亭を立て直すため、起死回生の策としてしのぶの婿に銀行の副頭取の息子を迎えようという話まで出ていたのだ。

 そのしのぶがいなくなれば、こうなるのも当然だったのかもしれない。


「ま、そういう固い話は抜きにしようや。営業はまだなんだろうが、ビールの一杯くらいは出せるんだろう?」

「はい、すぐに」


 冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、栓を抜く。

 他の客には樽からだが、塔原は瓶ビールしか飲まないのだ。

 コップにトクトクとビールを注ぐと、塔原の厳つい顔に笑みが浮かぶ。


「まさかまた矢澤の酌でビールを飲める日が来るとは、な。遥々訪ねて来た甲斐があった」

「どうやってここを見つけたんです?」

「ここのことは若社長も大女将さんも知ってるよ。興信所を使って見つけたんだ。ただまぁ、近くまで来てもどうしても覗いてみる気にならなかったそうでね」


 信之はそれには曖昧な笑みを浮かべて応えず、お通しの小鉢をよそった。

 蛸とわかめの酢の物だ。

 今日の晩出すつもりのもので、味見をしても中々の出来だった。


「ほぅ、美味いな。蛸がいいのか」

「ええ、新しい仕入れ先を見つけまして」

「なるほどな。諸事物価値上がりの最中にこれだけの蛸を居酒屋で出せるってぇのは、大したもんだ」

「ありがとうございます」


 勝手に店を飛び出した身の上だが、こうやって褒められるとどうにもこうにも嬉しいのだ。

 塔原は口に泡の髭を付けながら美味そうにコップを干すと、酢の物の残りも綺麗に平らげた。


「塔原さん、それで今日のご注文は何にしましょう」

「そりゃ、お前さん、決まってるじゃないか。今日、矢澤信之が一番オレに食べさせたい料理を出して貰おう」


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