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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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しのぶの特製プリン(前篇)

 しのぶの特製プリン




 秋の陽が沈んでしまうと、古都はとっぷりとした闇に包まれた。

 普段は夜道を天から照らしてくれる大小の月も、今は見えない。

 今日は、両新月だ。

 何ヶ月かに一度、二つの月が揃って新月になる。

 双つ月が揃って隠れると、馬丁宿通りの暗さはいつになく深い。

 風だけは妙に強く、街路に植えられた陽除けの樹々の葉を舞わせている。


「……こういう両新月の晩には、出るんですよ」


 テーブルを拭きながらエーファは呟いた。


「出るって、何が?」

 シノブが聞いて来るので、エーファは小さく震えながら答えた。


「……魔女です」

「魔女。魔女かぁ」


 しのぶの顔には、まさか魔女なんてと書いてある。

 まさかではない。魔女はいるのだ。

 余所から古都に来たらしいシノブとタイショーは当たり前のことをしらなかったりするが、魔女は確かに森の中に住んでいる。


「魔女って、どんなものなの?」

「深い森の奥に住んでいて、夜な夜な怪しげな(まじない)いをしているんです。箒に乗って空を飛んだり、不気味な薬を作ったり、小さな子供を攫ったり、教会に叛いたりするんです」

「私たちの知ってる魔女とほとんど変わらないわね」

「後は……お酒と、甘い物が好きです」

「甘い物?」


 魔女はお酒と甘い物が好きだ。言い伝えでは、甘い物が好き過ぎて、お菓子の家を作ったとも言われている。


「お酒が好きなら、この店に来るかもしれないわね」

「はい。両新月の晩は危ないんです」


 だから、店を閉めましょうとエーファは言えなかった。

 確かに、今日の居酒屋のぶは商売にならない。閑古鳥の大入り満員だ。さっきから客は、一人もいない。

 尋ねてきた人と言えば、間違った宛先に手紙を届けに来た肉屋の徒弟くらいのもので、居酒屋のぶは開店休業状態だった。


 それもそのはず、表の通りにもほとんど人がいない。

 手持無沙汰な照燈持ちだけが客を求めて当て所なく歩いている。

 両新月の晩に出歩くのは、余程急用のある人か物好きでしかない。


 それでも、シノブとタイショーの考えでは店を休む理由にはならないらしいのだ。

 誰かが不意に酒を飲みたくなった時に、どこにも飲めるところがないというのは寂しいと思うからだという。


 その考えは立派だとエーファも思う。

 こういう店が古都に一軒や二軒、有っても良い。

 ただ、それでも魔女は怖い。

 ヘルミーナのように休みを取っても良かったが、気付けば何となく来てしまったのだ。


 折悪しく、小雨までぱらつき始めた。秋の雨は、冷たい。

 さすがに今日は誰も来ないかとシノブが溜息混じりに呟いたその時、硝子戸が小さく敲かれた。

 風で何かがぶつかったかと思うと、もう一度。


「あ、いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 硝子戸を開けると、そこには一人の女性客が立っていた。

 真っ黒いフード付のローブを目深に被っているので、顔は見えない。

 魔女だ。

 物陰に隠れようと思うが、そういう訳にもいかない。

 ここは居酒屋で、相手は客だ。

 それにまだ、魔女と決まったわけではない。


 客の姿をじっと見るが、年齢さえもエーファには判断が付かなかった。

 だが、袖口から見せる手指の肌理は、二十代の半ばといっても通じそうなほどに美しい。


「こんな晩に開けているとは、ここも酔狂な店だねぇ。女一人で相済まないとは思うが、ちょいと邪魔するよ」


 その声は嗄れていて、やはり六十代のものに聞こえる。

 雨水の滴るローブを払ってから、客は奥のテーブル席に腰を下ろした。

 フードは取らないので、表情は読めない。


 注文は、エールと適当な肴、できれば温かい物。

 こういう注文はシノブの腕の見せ所だ。

 一先ずトリアエズナマとオトーシとで喉を潤し腹も落ち着けておいて貰っている間に、タイショーに煮付けを温めて貰う。

 オトーシはタコとキュウリを(エシッグ)で和えたもの。エーファも少し味見をしたが、タコの食感が面白い。


 今日の煮付けに使ったマコガレイはタイショーが選んだ逸品で、本当ならサシミで出しても美味しく食べられると自慢していた。

 両新月の日でなければそうするのだが、客が少ないのが分かっているならば、と最初から煮付けにしたのだ。


 この煮付けは、美味しい。

 先帝陛下がこの店を訪れた時に出したカレイと、同じくらい美味しい。

 シノブの好みは薄味だというが、最近のタイショーは客の反応を見て少しずつ味を濃くしている。ダシの引き方の工夫にも、日夜余念がないと言っていた。


 お客もこの味が気に入ったようで、フォークとスプーンで器用に骨から身を取りながら、美味そうに食べている。

 姿をそれとなく観察していると、客がくつくつと忍び笑いを漏らした。


「お嬢ちゃんは、私が怖いのかい?」


 慌てて顔をぶんぶんと顔を横に振る。

 何とか謝らないと、と思うのだが、言葉が上手く出てこない。


「いえ、そんな、お客さまは魔女じゃないですし、私は、魔女は怖くないですし、たとえ魔女でも、お客さまならきちんとおもてなしするのが居酒屋ノブというお店ですし」


 必死に説明するエーファを見て、客が噴き出す。


「なるほど、魔女だと思ったのかい。鋭いお嬢ちゃんだ。それなら恐がるのも無理はないね」

「あ、いえ、あの……」


 このお客は果たして魔女なのか魔女でないのか。

 だが、この客が魔女のような格好をしているのは確かだ。

 何も両新月の晩に、こんな格好で街を歩かなくても良いのにとエーファは思う。もっとも、このお客さんはそういうことが趣味なのかもしれない。


「それにしてもなかなか面白い店だね」

 煮付けに舌鼓を打ちながら、魔女のようなお客が店内を見回す。

「ありがとうございます」とシノブが応えると、お客はエーファの方を見てまたくつくつと笑った。

「いやまぁ、お嬢ちゃんはじめ店員さんが面白いのも確かなんだが、何と言っても店が面白いね。失われた魔法の息吹きを感じる」

「ま、魔法ですか……?」


 魔法、という言葉にさすがのシノブも怪訝な顔を浮かべる。

 まさか本当に魔女ではあるまい、という表情だが、魔法という言葉が口から飛び出すと、不安なのだろう。


「そうさ、魔法さ」


 そう言って客は神棚の方をじっと見据える。

 今日は奮発して五目稲荷を備えている神棚は、古都の人間にとっては異国情緒あふれる造りだ。

 この神棚を見て魔法と言っているのだろうか。

 エーファは一度これで奇妙な体験をしたが、その事は皆には内緒だ。

「魔法と言っても、良い魔法だね。どこに繋がっているのか知らないが、ちゃんと必要な人間しか通さないような網が掛けられている」

「えっ、繋がっている、ですか?」


 シノブがタイショーと顔を見合わせた。

 ここの裏口が不思議な場所に繋がっているということを、エーファは誰にも漏らしていない。シノブとタイショーは当然知っているのだろうけど、どうしてこのお客はそれを言い当てられたのだろう。


 必要な人間だけしか通さない。

 そう言えば確かに、裏口から訪ねて来る人をエーファは見たことがなかった。考えてみれば妙な話だが、それも魔法ということなのだろうか。


「昔はこの辺りにも扉はいくつもあったんだよ。森の中でキノコが綺麗に円を作るように生えているのを見たことは? 大切なものを木の洞に隠していたら翌日になくなったことはないかい? 道ですれ違った人が袋小路の方に歩いて行ってそのまま出て来なかったのを見たことくらいはあるだろう?」

「それは全部、魔法ということですか……?」


 エーファが聞くと、お客はまた笑う。


「魔法だということもできるし、そうでないと言うこともできる」


 エーファは自分の膝が小刻みに震えるのを止めることができない。

 シノブは両手で胸の前に盆を抱え込んで何か考え込んでいる。

 タイショーだけは何だかキラキラした目で客が次に何を言うのかを待っている風に見えた。魔法に興味があるのかもしれない。


「たとえばこの煮付けだってそうさ。私は随分と長くこの辺りに暮らしているが、こういう味は初めてだ。いったい、どこからこんな魚と調味料を持ってきたんだろうねぇ」


 このお客は、本当に魔女なのだろうか。

 エーファにもこの店の裏口の秘密が誰かに漏れたらとんでもないことになるということくらいは分かる。

 最悪の場合、居酒屋ノブは無くなってしまうだろう。

 欲の深いバッケスホーフのような人が一人だけとは思えない。

 シノブとタイショーも、そんなことは望んでいないはずだ。

 このお客は、何を知っているのだろうか。

 お客がトリアエズナマで口を湿し何かを言おうとしたところで、硝子戸が再び遠慮がちに叩かれた。


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