殻を割る(後篇)
「ラインホルトさん! 大変だ!」
人のことは言えないが、ゴドハルトもひどい顔だ。あちらもラインホルトと同じく徹夜明けなのだから、無理からぬことではあるのだが。
普段は自信に満ち溢れ、人の上に立つ者かくあるべし、という態度を纏わせている男の貌が、今日は疲労の色に覆われている。
そのゴドハルトが血相を変えて飛び込んできているのだから、よほどのことに違いない。
「船着き場で問題が?」
「船着き場というか、ああ、もう! すぐに見に来てくれ!」
ラインホルトが振り向くと、タイショーとシノブも真剣な顔で頷いた。
懐から枚数も数えずに銀貨をカウンターへ置くと、ラインホルトはゴドハルトに続いて昼の古都へと飛び出す。
船着き場へ辿り着くまでもなく、異常の兆候は走るラインホルト達に感じられた。
人々が口々に何かを言いながら河の方へと向かっているのだ。
その流れを掻き分けながら、人の波濤を二人は漕ぐようにして走る。
はっきり言って、苦しい。
徹夜明けであるし、昨日の昼から口にしたものはさきほどの煮物とラガー、煮卵だけなのだ。
疲労困憊で息が上がり、足はもつれ、顎が上がる。
それでもラインホルトは必死に腕を振り、足を動かした。
何が起こったのかは分からないが、今は一刻も早く船着き場へ急行すべきだということはゴドハルトの表情を見れば分かる。
胸が苦しい。喉から上がってくる呼気に鉄錆に似た臭いが混じった。
あと一つ角を曲がれば、船着き場が見える。
視界が、開けた。
白。
ラインホルトの眼前に、白が広がる。
帆布だ。
河を、船が埋めている。
春の陽射しを受け、快晴の青空を背景に白い帆布が翩翻とはためいていた。
いわゆるコグ船と呼ばれる形式の船だ。河川を遡上することもできる船型だが、これまでは高い通行税によって採算が取れないということで、古都を訪れることのなかった船だった。
「ゴドハルト、さん……?」
壁に手を突き、ラインホルトは肩で息をしながら傍らに立つゴドハルトに視線を向ける。
〈水竜の鱗〉のギルドマスターは、自分の禿頭を掌で撫でた。
その表情には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
つまり、この光景をラインホルトに見せたかっただけなのだ。
「……これから、忙しくなりそうですな、ラインホルトさん」
ラインホルトは、腹から込み上げる笑いを、堪えることができなかった。
不安は、もう霧消している。
こちらの姿を認めたのか、部下がラインホルトの方へ駆け寄って来た。
「よかった、マスター。今、探しに人を出したところでした」
「何か問題があったのか?」
「ええ、帝国外からの船も着いていまして。その受け入れ手順が……」
決められた手順では市参事会議長の代理人である船着き場役人が承認する、という手順になっていたはずだ。その人選も済ませてある。
「あ」
ラインホルトとゴドハルトは顔を見合わせた。
最後の最後まで手順を詰めていたので、この船着き場役人の任命書に署名をしていない。今のままでは帝国内の船舶しか受け入れることができないのだ。
「この場合はどうしたら……」
「落ち着け、ラインホルトさん。今から書類に署名を……」
二人が慌てていると、〈鳥娘の舟唄〉の事務所の前からニコラウスが走ってくる。
こちらも徹夜明けで凄惨な表情だ。口元に食べかすが付いているのを見ると、遅まきながら食事をしていたのだろう。
「今、市参事会議長を呼びに走らせています」
「議長を?」と、ラインホルトの頭に疑問符が浮かんだ。
今必要なのは書類と、任命された役人だ。どうしてここに議長が。
「そういうことか」とゴドハルトが莞爾と笑った。
遅れて、ラインホルトも腑に落ちる。
「参事会議長の代理人として役人が承認するんだから、役人がいなければその授権者である議長が直接承認すればいいのか」
そう呟くラインホルトの目の前を、議長のマルセルがひぃひぃと息を切らせて走っていく。
こちらの手違いで走らせる羽目になったことを申し訳なく思いつつも、どことなく嬉しそうな議長の姿は微笑ましい。
「古都は、変わるな」
ゴドハルトが遠い目をした。
「ええ」
「忙しくなりそうね」
いつの間にかエレオノーラもニコラウスの隣に立っている。同じく徹夜をしていたはずなのにすっかりと身綺麗にしているところが彼女らしい。
恋しい寝床はしばらくお預けかもしれないが、眼前に広がる光景に、疲れは吹っ飛んだ。
殻は割れた。
飛翔の時がこの街に訪れたのだ。




