殻を割る(前篇)
ひどく疲れていた。
這う這うの体で居酒屋ノブの昼営業に転がり込んだが、ラインホルトにとって、これは昼食ではなく、朝食だ。
それも、〝今朝の朝食〟ではない。
今、シノブに注文したのは〝昨日の朝食〟なのだ。
「本当にお疲れ様です」
エーファが運んできたのはタケノコと鶏肉、そしてワカメの煮物だ。
運んできてくれた礼もそこそこに、鶏の手羽元を手で掴んで齧りつく。
美味い。
甘辛く煮込まれた鶏肉には旨味がギュッと詰まっていて、噛みしめると口の中に肉の味がじわりと広がる。歯を使って骨から鶏肉を剥ぎ取るように食べるのは、人間の古い記憶を呼び覚ますような楽しさがあった。
美術品を磨くように丁寧に肉を食べ終わると、食べられない部位と綺麗な骨だけが残る。
骨を用意された金属製の小壺へ放り入れた。からんと響く音が、小気味いい。
口の中にはまだ、鶏の味。
そこへ、トリアエズナマをグビリと一口。
強くない酒なのに、徹夜明けの空きっ腹にガツンと酒精が、効く。
「くふぅ……」
手の甲で口元を拭った。
手羽元を直接持った手を拭うためにリオンティーヌが持ってきてくれた新しいオシボリを広げて、顔を温める。
鏡は見ていないが、きっと今は酷い顔をしているに違いない。
「お仕事、大変なんですか?」
更にもう一枚のオシボリをシノブがそっと置いてくれる。こういうさりげない気遣いがいつもよりありがたく感じるのは、心も身体も疲れ切っているからだろう。
「ええ、片付けても片付けても仕事が湧いて出てくるもので」
船が来る。
それも、これまでとは比べものにならない数の船が。
ラインホルトが代表を務める水運ギルド〈金柳の小舟〉はその準備に追われている。
様々な手続き、手順、人員の配置。
古都には三つの水運ギルドがあり、事前に折衝しておくべきことは無数にあった。
はじめに決めておけば何でもないことが、うっかり誤った形で踏襲されると修正も変更も不可能になって、最終的には争いに発展するという事例は枚挙に暇がない。
そうであるが故に、ラインホルトも、〈水竜の鱗〉のゴドハルトも、〈鳥娘の舟唄〉のエレオノーラも、可能な限り事前に詰められるところは詰めておこうと合意している。
予想外だったのは、サクヌッセンブルク侯爵の披露宴だ。
とてもめでたいことであるし、個人的には大いに祝福している。
これが常の事であれば、大いに歓迎もしただろう。
しかし、時期が時期だった。
あの宴の為にロンバウト・ビッセリンクはかなりの数の馬車と舟艇を使って物資をまだ冬が終わったばかりの古都にたっぷりと注ぎ込んだ。
その数、舟だけで三十隻に及ぶ。
例年の冬にはそんな大商いは滅多にない。少なくともラインホルトが把握している限りでは空前といってもいい規模の取引だ。
結果として、ゴドハルトをして「こんな量の荷物をこんなに短期間で捌いたのははじめてだ」と呻きを漏らさせるほどの物量に、三大水運ギルドは翻弄されることとなった。
仕事、仕事、また仕事。
もしも並行して春からの新しい入船手順についての業務を進めることができる人間がいるのなら、ラインホルトもエレオノーラもゴドハルトも、金貨を積んで雇い入れたに違いない。
残念ながらそんな人材はおらず、今いる人間で何とかしなければならなかった。
ある意味においては不幸であり、ある意味においてはこれが成功の理由とも言える。
三人は話し合って、〈金柳の小舟〉の〈鮫〉や〈鳥娘の舟唄〉のニコラウス、そしてゴドハルトの右腕である〈片耳〉のような仕事のできる人間を一ヶ所に集めた。春からの仕事に専従させるためだ。本来なら、ギルド間での人材交流などあり得ない。
けれども、これは上手く行った。
考えてみれば当たり前の話で、これまでは別々に考えたことを会議にかけ、互いの損得を伺いながら話し合いをしていたものを、立案の段階で一緒にやるのだから、早くなる。
これは都合がいい、ということで披露宴の終わった三人のギルドマスターも合流し、作業は一気に進んだ。
無理に無理を重ねる形で何とか形にできたのが、昨日。
だが、もしも三大ギルドの副官たちが合同で手順を考えていなければ、まだ出来上がっていなかったに違いない。
いずれにせよ、おおよその形はできた。
本当ならもう少し詰めたい部分はあったが、これ以上は贅沢だろう。
そして今の今までラインホルトは合意のできた書類の確認と、それを〈金柳の小舟〉傘下の艀主たちに通達する通達を整えることに費やしたのだ。
精も根も尽き果てた、とはこういう状態のことを言うのだろう。
ああ見えて意外に詩歌に造詣の深いゴドハルトなら今のこの姿をもう少し上手く言い表すことができるのかもしれないが、ラインホルトには飯と酒を流し込んで泥のように眠る以外のことはできないし、するつもりもなかった。
食べる、飲む、食べる。そして、飲む。
ラインホルトは黙然と手を動かした。
美味い。美味い。美味い。
疲労によって狭められた思考の幅を、ただひたすらに美味いという言葉で埋めていく。
少しでも気を抜くと、頭の中に埠頭の扱いや入船の優先順位、対立した際の仲裁の手順が溢れ返ってきそうなのだ。
「海からの船、もうすぐ来るんですよね」
厨房で調理をしながら、タイショーが水を向けてくる。
「そうですね。恐らく明後日くらいには第一陣が入港するのではないか、と」
河川での通行税の徴税がなくなるということは、既に各地に報せていた。
どの程度の数の船が来るのか、正直なところラインホルトにも分からない。
蓋を開けてみれば、全く来ないということさえあり得る。
今のところ、確実に入ってくることが分かっているのは一隻だけ。ロンバウトの仕立てたビッセリンク商会の荷船が一隻、明後日入港する予定があった。
「季節も変わりましたし、少しずつ増えて行けばいいな、と」
タイショーは小さく笑って、味付け玉子の輪切りをそっと追加してくれる。
食べてみると、少し濃い味が身体に、心に沁みた。
疲れているのだ。
船が来るまで一日ある。今日は家に帰ってゆっくり眠るべきだろう。
正直なところ、これで水運が激変するのか、ラインホルトには分からなくなってきた。
もちろん、物流が改善してほしいとは思っている。
サクヌッセンブルクの侯爵閣下だけでなく、皇帝陛下までが関心を持っているのだ。
だが、通行税を撤廃したくらいで本当に船は来るのか?
ラインホルトが物心ついた頃には、古都は既にバッケスホーフ商会が幅を利かせており、商業的にはあまりパッとしない街に成り下がっていた。
祖父よりも父、そして父よりもラインホルトの代で、段々と扱う商品も金額も、痩せ細るように少なくなってきたのだ。
船着き場から見える城壁が、卵の殻のようにラインホルトには見えていた。
外敵から身を守る壁であると同時に、中から雛が出ていけない壁。
囲いは外へ向かってだけでなく、常に内に向かっても、通行を制限する。
ダメだダメだ、と首を振った。
今日は、寝る。全てはそれからだ。
そう思った時、硝子の引き戸が乱暴に引き開けられ、ゴドハルトが飛び込んできた。
「ラインホルトさん! 大変だ!」




