美への奉仕者たちの朝食(前篇)
フライパンにオリーブオイルを注ぎ、ゆっくりと加熱する。
火加減は弱火でじっくり。
ここに刻んだ大蒜と種を取った唐辛子を加え、油に香りと味を移していく。
鍋肌が温まってくると、芳しいオリーブオイルと食欲を刺激する大蒜の匂いが漂いはじめた。
焦げ付かないように、やさしく、丁寧に。
ハンスは鶏卵を別皿に慎重に割った。
双子だ。
黄身を崩さないように油に滑らせ、更に火を弱める。
この時フライパンを手前に傾けて油の中に卵全体を泳がせてやるのがコツだ。
匙で油を卵にかけてやりながら、慈しむように火を通していく。
目玉焼きにも色々な流儀があるが、ハンスの最近のお気に入りはこれだった。
ちりちりと小気味のよい音が響き白身の端がカリカリに揚がるが、黄身は火の通った程よい半熟にできるからだ。
大蒜の旨味と唐辛子の刺激。
仕上げにショーユをほんの少しだけ垂らしてやる。
ハンス流の隠し味、というやつだ。
予め湯で温めておいた皿に付け合わせとして炒めたじゃがいもを添え、最後に目玉焼きを綺麗に盛り付けた。パンも同じ皿に乗せるが、シャキシャキのレタスとトマトは別皿に盛る。温度が移らないように、という配慮からだった。
「兄さん、お待たせ」
「ありがと」
フーゴは礼を言うと優しい笑みを浮かべ、フォークを手に取る。
その笑みはいつもと変わらないのに、以前よりもどこか晴れがましく見えた。何かをやり遂げたという自信が備わっている。
あるいはそれも、ハンスの目にそう映っているだけなのかもしれないが。
早朝の居酒屋ノブには、兄弟二人しかいない。
タイショーはまだ二階で眠っているし、シノブもエーファも出勤前だ。
リオンティーヌは昨晩も〝勉強〟に励んでいたから、出勤は昼過ぎになるだろう。
春の朝は、とても静かだ。
朝食を作って欲しい、というのはフーゴの頼みだった。
こういう頼みごとをすることの少ない兄だから、ハンスにとってはむしろ嬉しい。
申し訳なさそうなフーゴの手を引くようにして居酒屋ノブに連れて来たのは、家よりもここの方がしっかりとした朝食を作れるからだ。
もちろん、酔い潰れるようにして眠っているローレンツを起こさないためでもあったが。
のそのそと、もどかしいほどの動作でフーゴが目玉焼きを食べる音だけが響く。
硝子の卵を創り上げてから、フーゴは憑き物が落ちたかのように眠り続けていた。
ときどき起き出して水を飲んだりパンを齧ったりはしていたが、漸く寝台から離れたのは一昨日の晩のことだ。
それほど疲労困憊していたのだろう。
肉体だけでなく、精神の方も、だ。
好敵手、というと少し違うのかもしれないが、レオナルトという友人に見せるための逸品を創り出すために、精も根も尽き果てたらしい。
今はその回復途中だ。
兄はフォークを使って器用に白身だけを先に食べていく。半熟の黄身は最後のお楽しみ。
ハンスは、兄が羨ましかった。
昔から変わらないと思っていたフーゴが、自分の総てを賭けて作品を創り上げたいと思える相手を見つけ、そして納得させたのだから。
「絵は見たの?」
「うん」
硝子職人の繊細な手さばきで黄身だけを丹念に取り外しながら、フーゴが答える。
聞かなくても、ハンスは知っていた。
起き出したフーゴは風呂に入るよりも食事をするよりも前に、レオナルトの絵を見るために馬を借りに〈馬丁宿〉通りに走ってきたということはちょっとした噂になっている。
普段あまり金を扱い慣れていないからか、相場の十倍ほどの銀貨を握らせて馬を借り、絵の描かれているサクヌッセンブルクの城へと駆けていったのだ。
で、どうだった、とハンスは尋ねない。
フライパンを洗いながら、兄の横顔をじっと見る。
好物の黄身を口へ運びながら、フーゴの心はここにない。
レオナルトが絵筆を走らせる空間に、今なお兄の心は飛んでいき、揺蕩っている。
「……美しかった」
漸く絞り出すように呟いた感想は、一言だが一言ではなかった。
そこには百の美しさ、千の美しさを讃える言葉が凝縮されている。
言葉で語ろうとすると脆くも失われてしまう美しさの本質を語ろうと試み、不可能であることを悟り、それでも美しいとだけは言わざるを得ない、慙愧の一言。
ハンスは、嫉妬した。
兄をしてこれだけのことを言わせるレオナルトに。
そして、そのレオナルトの作品を魂で理解することのできる兄フーゴに。
フーゴの技は既に熟練という水準を超えていた。
硝子の卵。
兄は「この卵を作れる職人は帝国を見渡しても五人もいないだろう」と思っていたようだが、それを聞いた父ローレンツは黙り込んでしまった。
あんなものはローレンツにも、他の職人にも創ることはできない。
フーゴ自身にももう一度作ることはできないのではないか、とローレンツが珍しくひどく酔い潰れて呟いていた。
あの酒は息子の成長を喜ぶものだったのか、それともあるいは職人としての敗北に対する自棄酒だったのか。
「そういえば、レオナルトは大丈夫なのかな……」
一個目の黄身を食べ終えて少し生気の戻った声でフーゴが誰に訊くともなく零した。
「あの絵を描いてるのがレオナルトさんだってことは、秘密なんだよね?」
他に誰もいない気安さでハンスが尋ねると、フーゴは頷く。
「でも……」
「でも?」
「あれだけ上手ければ、誰が描いてるかなんて分かっちゃいそうなもんだけどね」
確かに、そういうものかもしれない。
秘密というものは隠そうとすればするほど、露見するものだ。
特に今回は多くの人が見る侯爵家の披露宴の絵画。
「レオナルト、師匠に怒られないかな……」
フォークを咥えたまま、フーゴが我が事のように不安げな声を漏らす。
あまり怒られなければいいんだけどなぁ、と心配を隠そうともしない。
レオナルトは、侯爵家の絵を描き終えたら聖王国に帰国する。
怒られる覚悟はしているというが、それでもやはり不安なのか、フーゴにだけは内心を吐露したたらしい。
誰だって、怒られるのは恐ろしいものだ。
特に、職人の世界における師匠というのは双月の神の次に偉大な存在だ。
破門ということになれば、人生自体がダメになる可能性すらある。
フーゴは、レオナルトの将来を強く心配していた。
自分自身があまり強く怒られたことがないから、余計に気にしているのだろう。
聞くところによると、レオナルトは任された仕事をすっぽかして帝国まで鳥の観察に旅をしてきたらしい。
とんでもない行動力だが、天才というのはそういうものなのだろうか。
そう。フーゴのように。
「逆に、生きていることが分かってほっとしてるかもしれないよ」
「そっか。そういう考え方もあるか」
慰めに似た言葉を掛けると、フーゴの顔が、ふにゃりと笑み崩れた。
レオナルトの師匠があまり厳しくレオナルトを叱らなければいいなと、ハンスは思う。
せっかく殻を破れた兄に、余計な心配を負わせたくはなかった。




