水炊きと仲のいい夫婦(前篇)
「実に素晴らしかった!」
客席で誰かがそう言うと、「そうだそうだ」と賛同の声が後に続く。
そこから流れるように「侯爵様と奥方様に、乾杯!」「乾杯!」と唱和された。
この件がもう何度繰り返されたか、しのぶは数えるのを止めている。
居酒屋のぶの店内は祝賀の雰囲気に満たされていて、誰も彼もが幸せそうな顔で酒杯を空にしていた。
あちらこちらでジョッキを打ち鳴らす音が鳴り響き、酒も肴も注文が引きも切らない。
客席をハチドリのように行ったり来たりするので、しのぶもリオンティーヌも額に汗をかいている。しのぶはともかくとして、リオンティーヌまで息を弾ませる程だから、この三日間は店の中だけで随分と歩いていることになるだろう。食器も酒器もいくらあっても足りないので、エーファは洗い場から身動きが取れないほどだ。
「こっち、ユドーフ追加で!」
「エダマメとトリアエズナマ!」
注文が飛び交い、息つく暇もないほどだ。
運んだ端から「乾杯!」の声が上がり、ゴッゴッゴッと豪快かつ美味そうに黄金色のビールが飲み干されていく。
見ているしのぶも惚れ惚れとする飲みっぷりだ。
今日のお通しに出している手羽先とうずらの卵の旨辛煮も好評のようで、お代わりを求める声が引きも切らない。
店内に溢れ返る客たちの話題は、侯爵家の披露宴の話題で一色だ。宴から三日が過ぎても、居酒屋のぶの店内はサクヌッセンブルク侯爵家の披露宴の話題で持ちきりだった。
酔客たちが口々に語るので、よほど宴は素晴らしかったのだろう。
「あんなにたくさんの貴族を見たのは、はじめてだ」
「オレら庶民のためにも振る舞い酒をしてくれて……」
「披露宴というからてっきりお城の中でやるもんだと思っていたが、庭園も広く開放なさっておやりになったから、儂ら庶民でも遠目に見物できて、眼福だったな」
「本当に振る舞い酒がよかった」
「サクヌッセンブルクの侯爵様、アレはなかなかの傑物だよ。先代様も立派だったが、当代は益々素晴らしい。皇帝陛下との仲もよいということであるし、領地は益々栄えるんではなかろうかね」
「ああ、特に振る舞い酒がよかった。一人一杯という触れ込みだったが、三杯飲んでも文句は言われなかった」
春空の下で開かれた披露宴は大成功だったようで、特に一般庶民に開放された区画での振る舞い酒の人気が高かったらしい。
昨日も一昨日も、店内を訪れる客たちから繰り返し何度も宴の情景を聞かされると、しのぶもまるでその場にいたような錯覚に襲われる。
早春の肌寒さはどこへやら、春の暖かさがこの地域を包んでいた。
北方から嫁いできたオーサに肖って、「冬から春に嫁いできた姫君」という主題は成功で、帝国各地や近隣諸国から訪れた来賓たちは大いに愉しんだそうだ。
春の早い南方から運ばれてきた花々や造花で彩られた会場は春そのもので、料理や酒肴も季節のものが揃えられた。
春めいた装いの花嫁が参列する貴婦人たちに手ずから早咲きの花を手渡して感謝の意を伝え、放たれた白鳩が空を埋め尽くす。
幻想的な披露宴だ。それは同時に、財力の誇示でもあるのだろう。
もてなしのことに感心のあるしのぶとは対照的に、信之とハンスは出てきた料理に興味津々だ。
アルヌの好物である天ぷらを中心に、春先とは思えないほどに大量の料理が客の舌と目を楽しませたらしい。
特に客たちの舌を愉しませたのは、新鮮な海の魚介類を使った料理の数々だった。
大河の通行税を撤廃させたことにより、今や北の海と古都周辺とは指呼の間となったのだ、ということを理解させるために供された海の幸は、内陸である帝都から訪れた貴族たちを大いに驚かせたそうだ。
アスパラガスやブロッコリーの緑は冬の白に閉ざされていた人々の目を楽しませ、この日の為に用意された肉料理の数々は来賓だけでなく見物に来た近隣の人々にまで行きわたるほどだった、というから大した量だったということになる。
材料の調達はビッセリンク商会が受け持ち、今回の件でロンバウトはその手腕と調達網への評価を不動のものとした。大河を使った流通に大きな期待をかけているロンバウトはこの宴の費用の大部分を侯爵家に寄附したそうだが、豪華な料理や引き出物の数々を見た貴族や豪商、富農たちからの問い合わせと契約で、早くも元が取れそうだとホクホクだった。
そして何よりも、新郎新婦だ。
皇帝との仲を深めたことで帝国北方最大の諸侯としての地位を不動のものとしたアルヌとその妻オーサの二人の仲睦まじさと美しさは、人々が讃嘆の声を上げるに十分なものであり、特に、三度のお色直しでオーサの着用したドレスは今年の帝都での流行の最先端となることが確定していた。
「その主役が、こんなところに居ていいんですか?」
突然水を向けられて、カウンター席の人物が思わず噎せ返った。




