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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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永続の美と、一瞬の美(中篇)

 作品完成の期日は区切られていなかった。

 レオナルトとしては、絵画が出来上がるまでに、くらいのつもりだろう。

 だが職人としてのフーゴは、奮い立っていた。


 何としても、結婚披露宴までに完成させたい。レオナルトが絵筆を執る前に、満足したと言わせたい。それはフーゴが人生ではじめて滾らせる、競争心だった。


 負けられない。負けたくない。

 感情に駆り立てられるように炉に向かい、昨夜は夜通し硝子を吹いた。

 難しい、ということはフーゴ自身が一番よく分かっている。

 フーゴにできないということは、他の硝子職人にも難しい作業だということだ。


 帝国の硝子職人で、フーゴのやろうとしていることを実現できる職人の数は、片手の指で数えられるほどしかいないだろう。

 自惚れではなく、フーゴの技量はその水準にある。


 父に構想を相談した時、工房の親方でもあるローレンツは腕を組んだまま暫く沈黙し、

「……やってみろ」とだけ言った。

 それは職人の顔であり、父の顔であり、男の顔だ。


 没入。


 火と語らい、砂と向き合い、水を操り、風に想いをのせ、硝子を形作る。

 水さえ飲まないので、職人が心配して水とパン((ブロート)、親指ほどの岩塩を持ってきた。


 ぶっ倒れそうになりながら水を飲み、パンを喉に押し込み、塩を舐め、また水を飲む。

 その瞬間にまた、汗がどっと噴き出した。身体が乾き切っていたのだ。

 慌てて追加の水を持ってきてもらう。


 まだ、目的のものはできていない。だが、道は、見えた。


 ◆


 昼下がりの居酒屋で、レオナルトは赤葡萄酒を飲んでいた。

 フーゴから、報せが来たのだ。

 こんなにも早く〝作品〟が出来上がるとは、思ってもいなかった。


 あるいは大したものではないのかもしれない。

 ここは硝子の先進地たる聖王国ではないからだ。


 期待せずに、だがほんのりとした期待を胸に、レオナルトは杯を傾ける。

 口当たりがとてもいい。

 この杯も、フーゴの手になるものだという。


 実によい硝子杯だ。

 飲み口を薄くして葡萄酒の味わいをより繊細にする技巧は、聖王国の硝子職人でも身に付けている者は少ない。

 だからこそ、ほのかな期待と、失望が大きくならないようにという自制とが、心の中でずっと争っている。


 何を作ってくるのだろうか。

 どんなものがやって来ても、レオナルトの心の壁を打ち破ることはあるまいが、ヒビくらいは入るかもしれない。それもまた、高望みなのかもしれないけれども。


 絵描きというのは、多くの人が想像するよりも政治と近いところにいる。

 誰が依頼するか。

 誰の頼みで誰を描くか。


 そして、どのように描くか。


 筆致によって描き得るものはただの絵画というではなく、加えてそれを見た人の心をどう動かすか、という複雑な計算の産物でもある。

 一人の人物を英雄に描くことも、打算的な人間と描くことも、すべての人々の敵として描くことさえもできるのが、画家だ。


 人がどれだけ生きても、一世紀。

 しかし、今を生きるレオナルトは太古の彫像や壁画を見ることができる。

 それはつまり、より長く、人の心を動かし得る力がある、ということだ。


 レオナルトはそれに気が付いた時、筆を持つことが恐ろしくなった。

 描くものの全てに強力な意味を持たせることが可能であり、見る人の心を大きく動かすことができるとするならば。


 師匠の請け負う仕事は、そのほとんどが教会や貴族の城に収められ、多くの人に見られることとなる。誰が見るか、誰に見せないかは、レオナルトが選ぶことはできない。

 責任、という言葉がレオナルトの脳裏を支配した。


 レオナルトは自分で言うのもなんだが、才人である。

 万能と言っても過言ではないほどに無数の分野に精通していた。

 臼砲の設計や築城など、戦争の手管についても一家言あり、その道で食っている人々よりも自分の方が優れたものを考えられると本気で思っている。


 けれども、そのレオナルトをして、絵画の威力は計り知れない。

 臼砲が敵を打ち砕いたとて、千人も万人も斃せるものではなかった。

 城が敵の攻撃を退けたとて、国が滅びれば無意味だ。


 だが、絵は。


 眼を閉じると、これまでに見た多くの絵画が瞼の裏に蘇った。

 人々を熱狂させ、人々に世界を教え、人々に物語を伝える力がある。

 百人殺した傭兵隊長の名前は三十年轟くかもしれないが、彼の勇猛さを絵に描けば百年遺すことができるだろう。あるいは残虐に描くこともできる。


 居酒屋で赤葡萄酒の杯をちびりちびりとやりながら、レオナルトは思考を弄んだ。

 目の前には、サクヌッセンブルク侯爵とその司厨長、そしてビッセリンク商会の支部長とその女秘書が、固唾をのんで座っている。


 誰も彼も、飲み物に手をつけることさえしない。

 今からフーゴの持ってくる品が、レオナルトの心を動かすかを心配しているのだ。


 絵は、描く。

 フーゴが何かを完成させようとも、させなくとも。

 レオナルトははじめからそのつもりだった。


 だから今、期待していると同時に、期待していない。

 凪いだ湖の水面のように、フーゴを待っている。


「お待たせしました」


 硝子戸を引き開けて、フーゴが入って来た。

 硝子職人の顔を見た瞬間、レオナルトの胸は急に早鉦を打ちはじめる。


 笑顔。

 それは、ただの曖昧な笑顔だった。

 やり遂げた者の笑みにも見え、あるいは脱力しているだけにも、慈愛に満ちた柔和な微笑みにも見える。


 フーゴの手には、何かがあった。

 布を掛けられているが、それほど大きくはないだろう。

 熟達した職人の慎重さで、フーゴは〝作品〟を、レオナルトの目の前に置いた。


「……布を剥いでも?」


 尋ねるレオナルトに、フーゴは小さく、しかし自信に満ちた頷きを返す。

 何を作って来たのだろう。


 レオナルトは、贅沢な瞬間を堪能していた。

 積層ガラスを使った作品だろうか?

 あるいはフーゴの研磨の腕を最大限に生かしたレンズかもしれない。

 帝国という土地柄を考えると、厚い鉛ガラスに彫刻をする、ということも考えられる。


 今、この瞬間、ヴェールの中身は無限(・・)だ。

 レオナルトの想像によって、どのような造形にも材質にも姿を変える。

 見えないが故の、奇蹟。


 それでもレオナルトは、寡黙な友人の作品を見たいと願った。

 慎重な手つきで、レオナルトは布を取り去る。

 無限が終わり、有限が現れた。


 沈黙。


 侯爵も司厨長も、商会の支部長も秘書も、厨房の料理人もその弟子も、黒髪と金髪と赤髪の三人の女給仕も。そして、万能の天才も。

 誰一人として、言葉を発しない。

 いや、発することができずにいる。


「……卵?」


 声を漏らしたのは、眼鏡の商会支部長だった。

 視線でフーゴに確認を取り、レオナルトは卵を手に取る。


 卵だ。

 しかし、硝子の卵だ。

 硝子の表面を丁寧に研磨して傷をつけて白く濁らせているから、遠目に見ると鶏卵に見える。


 継ぎ目も何もない、ただの卵。

 優れた技術によって作られた、卵。

 確かにこの精度で鶏卵を創り出すことのできる者はあまりにいない。


 だが、あまりいない、というだけであり、全くいないわけではない。

 レオナルトは落胆し、安堵し、虚しくなり、そして、フーゴの顔を見た。


 にもかかわらず、フーゴは笑っている。

 その笑みからはまだ、自信に一切の陰りが見えない。

 ただの卵なのに?


 レオナルトは、胸の奥底に微かな怒りの焔が揺らめくのを感じた。

 それは、フーゴという職人を信頼しているからこその、憤怒だ。

 もっとできるはずだろう。こんなもので濁すつもりか。

 罵声が喉まで出かかるが、飲み込んだ。


 ここは、聖王都ではない。

 見ることのできる世界には限りがある。

 彼にとっては硝子の鶏卵が、最も優れた硝子作品なのかもしれない。


 そう考えると怒りは急速に憐みに変わっていく。

 この友情も、ここまでなのだろうか。

 怒りは友情の妨げとはならないが、憐みの籠ったそれは永続しない。


 フーゴは両手でレオナルトの手から、鶏卵をそっと取り上げた。

 レオナルトは、抵抗しない。

 友であった硝子職人は、鶏卵をテーブルの上にそっと置くと、左手で固定する。


 何をするつもりなのか。

 腰から、石を検品する小さな鎚を取り出した。


「おい、フーゴ!」


 (こわ)すつもりだ!


 慎重に表情を隠したつもりだが、レオナルトの貌に失望の色を見て取ったのか。

 だからと言って、壊す必要はない。

 レオナルトの期待を上回らなかっただけで、これはこれで優れた逸品なのだ。


 人差し指ほどの鎚が、卵に振り下ろされる。

 制止は、間に合わなかった。


「……え?」


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>>厨房の料理人そその弟子も この部分の「そその」が作者の思いで書かれているのか それとも単なる誤変換なのかちょっと悩みました。 誤字報告機能は遮断されているようですので、この部分 は作者の思いが込…
ええはなしやなー は、ともかく「のぶ」である必要が全くない小話だったな
もしかして、オランダの涙?
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