鳥の智慧、魚の智慧(全篇)
ぐび、ぐびぐびぐび……
「ぷはーーーっ!」
よく冷えたラガーの苦味が喉をするすると滑り落ちていく。
ニコラウスにとって、一日の中でこの晩酌の時間が癒しであり、生きる糧だ。
最近は、とにかく忙しい。衛兵時代にはこれ以上過酷な日々などあるまいと高を括っていたが、転職した今では昔の自分の見込みの甘さを叱り飛ばしてやりたくなる。
〈鳥娘の舟唄〉のマスターであるエレオノーラの公私にわたる右腕として頭角を現しつつあるニコラウスにとって、毎日が勉強と研鑽の日々だ。朝から晩まで人に会って考えて相談して指示を出して手紙を書いて教えを乞うて走り回るのだから、衛兵の訓練よりよほどつらい。
ただ、それが堪らなく楽しい。
そして、一日を終えた後のラガーがとにかく美味い。
「今日のおすすめの豚のカクニはどうかな?」
厨房のハンスがちらちらとニコラウスの方を覗いてくる。
「今から食べるところ」
豚のカクニはかつて〈食の吟遊詩人〉クローヴィンケルが居酒屋ノブで食べた料理だ。ブランターノ男爵と彼が広めたことで、帝都の貴族もその名を知る料理になっている。
皿の上にどっしりとした存在感で鎮座する豚肉にハシを入れると、驚くほど抵抗なく身が分れた。これは柔らかそうだ。期待に胸を膨らませながら、半分に割った片方を口へ。
「んん?!」
しっかりと煮込まれた豚肉がとろとろほろほろと口の中でほどける。味の沁みた豚肉の濃い旨味がぷるぷると口の中を満たした。美味い。とろ旨だ。
そこへグイッとラガーの残りを流し込む。
「んーー、んまい!」
口の中がさっぱりと洗い流され、カクニの味とラガーの苦味とが極上の残滓で舌を楽しませる。幸せだ。
「それの下拵え、オレが手伝ったんだ」
「だと思った」
ハンスとは衛兵を辞めてからもノブでよく顔を合わせている。衛兵の時は歳の割に童顔だと思っていたが、料理人を志してからはいい表情をするようになった。最近では料理にも関わるようになってきて、ハンスの考えた一皿が並ぶこともある。今日のカクニは昨日タイショーとハンスで仕込んで、しっかりと味を沁みさせたものらしい。
「さっき味見したけど、玉子も美味いぞ」
「ああ、今から食べる。それとラガーおかわり」
はーい、とシノブが応じ、すぐにリオンティーヌがジョッキを運んでくる。この絶妙な呼吸は素晴らしい。こういう連携はある程度以上の能力のある者同士がしっかりと訓練しないと身に付かないものだ。衛兵時代よりも水運ギルドに移ってからの方が、人の連携や育成についてはよく考えるようになった。
しっかりと色のついた玉子をハシで割ろうとし、止める。ここはそのままかぶりつくべきだろう。
かぷっ。
つるりとした玉子の表面に歯を突き立てる感触が心地よい。絶妙な茹で加減の白身の中から、黄身のしっかりとした味が広がり、舌を喜ばせた。
「……幸せだなぁ」
最近、古都では鶏卵の値段が上がっている。誰かが買い占めているというわけではなく、単純に古都の人口が増えているのだ。水運ギルドは物価に敏感だから、その手の情報はいつもニコラウスの耳に入る。
ノブはどうやって安定して材料を仕入れているんだろうか。
タイショーにそれとなく聞いてみるかと思ったとき、カウンターの隅に座っているのエトヴィンの姿が目に入った。
「長生きはするもんじゃな……」
レーシュの酒杯を傾けつつ、エトヴィン助祭が恍惚とした表情を浮かべている。
感極まっているのは、目の前の皿の料理が理由だろう。朱色と飴色のちょうど間くらいの色合いの、輪切りにされた肴。カラスミ、というらしい。
「そんなに珍しい食べ物なのか?」
ニコラウスも衛兵だった時代とは違って、目も舌も肥えてきた。水運ギルドの幹部ともなればそれだけの見識が求められる。
そのニコラウスをして、この肴ははじめて見る。
もちろん、居酒屋ノブで見知らぬものが出てくるのは今や当たり前なのだが。
「ああ、昔見たものと色合いこそ少し違うが、間違いなく同じものじゃ」
「カラスミってこっちにもあったんですね……」
エトヴィンが幸せそうにカラスミを口に運ぶのを見ながらシノブが呟く。
「聖王国で学僧をしておった頃にな。あちらではボッタルガ、と呼んでおったが」
ボッタルガ。やはりニコラウスの聞いたことのない食材だ。記憶の中にしっかりと刻み込む。どこに商機が転がっているか分からないのがこの業界だ。どんなことが役に立つかは未来だけが知っている。
〈金柳の小舟〉の鮫という新しい飯場頭は次々と優れた献策をしてギルドを盛り上げていた。それは艀主として働いていた時のちょっとした不満や、人足たちの漏らした不平から発想を得たという噂だ。日常のちょっとしたことにも目を向けて、憶えておく。ボッタルガという名前が何かの役に立つとは限らないが、気持ちの問題だ。
「そのボッタルガをどういう風に食べていたんですか?」
調理をしながら尋ねてきたタイショーに、エトヴィンの目が遠くなる。
「あれはまだ儂が聖王国で貧乏学僧をしていた頃のことじゃった……」
学僧は貧しい。
まだ正式な聖職者として聖職禄を与えられていないので、収入源が限られる。学業の合間に教会で手伝いをしたり、街や村々の人々の代わりに祈りを捧げて僅かばかりの寄付を貰って食いつなぐ日々。
実家が裕福であればたっぷりと仕送りを貰えるし、小狡い奴は免罪符を売って小銭を稼ぐこともあったが、エトヴィンはそのどちらでもなかったから、生活はいつも苦しかった。
書物の筆写で指に胼胝ができ、教えを乞う書簡のやりとりで指先は常にインクで汚れ、足が棒になるまで人々の間を回って祈りを捧げる。
「あの頃の厳しい生活がなければ、きっと今でもふさふさとした髪が……」
「それよりも、カラスミの話を聞かせてくれよ」
ニコラウスが促すとエトヴィンはごほんと空咳をして続けた。
険しい日々にもいい面はある。
貧しい学僧たちを憐れんでか気遣ってか、聖王都には学僧相手に格安の食事を振舞う店が何軒かあり、エトヴィンも多分に漏れず、そこの世話になる一人だった。ありきたりな麺料理や余りものの海鮮を出して貰えるだけだったが、学僧たちにはそれがなによりも有り難かった。後輩のイングリドは生魚だけは決して手を付けようとしなかったが。
貧しいからこそ、人々の優しさに触れることができ、気付くことができる。そして自分たちへの施しによって、店の人たちが幸せそうな顔をしていることが、嬉しかった。
「それは施してもらったことが嬉しいということとは、別なのか?」
ニコラウスは思わず身を乗り出して聞いてしまう。施されたら嬉しい、そこまでは分かる。だが、エトヴィンは別のことを言っているようだ。
「そう。死ぬほど腹をすかした時に簡単に茹でただけのパスタであっても振舞ってもらうことはもちろん嬉しい。じゃがな、儂ら貧しい学僧に食事を振舞うことで善行を積むことができたと店の人が微笑む姿を見ると、それもまた堪らなく嬉しかった。みすぼらしいという気分には、決してならなかった」
そんなある日、料理屋の店主が学僧たちにとっておきを御馳走してくれることになった。店主は聖王国よりもさらに南の島の出身で、その故郷から特別な食材が届いたというのだ。
「それが、ボッタルガじゃった」
詰めかけた学僧の人数は大したものだったから、店主はそのボッタルガを小さく削ってパスタにかけた。ふんわりと雪のように降り積むボッタルガ。恐る恐る口に運んだ学僧たちは……
「あー、もう、堪らん!」
エトヴィンがハシでカラスミを摘まみ、口へ運ぶ。
「これじゃ……チーズよりもねっとりと濃厚な……海そのものを食べているような」
ゴクリ、とニコラウスの喉が鳴る。
そんなに美味いものなのだろうか。
「あ、オレにもカラスミ一つ」
「はい、カラスミですね!」
エーファの元気な返事はいつ聞いても気持ちがよい。
黒の平皿に薄切りにされたカラスミが並んでいる。こう見ると上等のチーズのようだ。カクニを食べた口の中をさっぱりさせるためにとタイショーがコップに水を注いでくれた。
「では」
口に入れた瞬間、舌の上に海が広がる。
まず上質の塩気。それに続いて濃厚な味わいと、鼻から抜ける磯の香り。
「これは……すごいな」
慌ててレーシュを頼んで追いかける。これにはビールよりもレーシュだ。リオンティーヌがベンテンムスメという酒を注いでくれる。
合う。とても、合う。
これだから居酒屋ノブ通いは止められないのだ。新しい世界を見せてくれる。カクニと煮玉子も美味い。カラスミも美味い。ほろ酔い気分で価値観が揺さぶられる楽しさは、日中の仕事の労苦を忘れさせてくれる。
実のところ、鮫に負けないような改革案を出さねばと、焦っていたのだ。乾坤一擲の大きな案を出して、〈金柳の小舟〉や〈海竜の鱗〉をあっと言わせる。エレオノーラからそれを求められたわけではないが、どうしても気が急いていた。焦りが自分を追い詰め、視野が狭くなっていたのだと、今になって分かる。その視野が、カクニと煮玉子とビール、そしてカラスミとレーシュの大きな振れ幅ですっきりしたようだ。
「な、いいもんじゃろ?」
エトヴィンのどこか勝ち誇ったような笑みに、ニコラウスも笑みを返す。
「ありがとう。いいもんを食べさせてもらったよ」
するとエトヴィンが不思議なことを言いだした。
「煮玉子もカラスミも、元を辿れば同じものじゃからな」
「ん? 謎かけか?」
「いやいや、どっちも卵という意味では一緒じゃろ。煮玉子は鶏の。カラスミは海の魚の」
「えっ!?」
そうか。海魚がどうやって生まれてくるのか、内陸生まれ内陸育ちのニコラウスは考えたこともなかった。子供の頃に川魚の卵を見たことはあったが、もっとプチプチとしていた記憶がある。
「こんなに小さいつぶつぶが、魚になるのか……」
「カラスミは知らんが、ボッタルガは一抱えもある大物に育つぞ」
ニコラウスはまじまじとカラスミの断面を見つめた。これが大魚に育つとは、想像もできない。
「鶏は大事な卵を硬い殻で守り、海魚は稚魚がいくら食べられてもどれかは生き残れるように小さくたくさん産む。生きる知恵じゃなぁ」
その言葉を聞いた瞬間、ニコラウスの頭の中で何かが弾けた。
「ありがとう!」
懐から銀貨を取り出しながら、残ったカクニを頬張り、一気にラガーで流し込む。
「えっ、あ、ありがとうございます!」
背中でシノブの声を聞きながら、ニコラウスはギルドの詰め所へと走り出した。
大きな提案でなくてもいいのだ。鮫に勝とうと、意固地になっていた。鶏の卵でなくてもいい。カラスミのように小さな提案の卵をいっぱい投げつければ、どれかは育って大魚になるかもしれないではないか。
質で勝てないなら、数で勝負。
これだから、居酒屋ノブ通いは止められないのだ。




