鳥を見る人(前篇)
人間って、思ってたよりも重いんだな。
行き倒れになりかけていた男に肩を貸しながら、フーゴはそんなことを考えた。硝子工房では原料になる砂や薪など重いものを運ぶ機会は多いが、人に肩を貸すのははじめてだ。
「助かったよ……」
空腹で倒れていた男は、名前をレオナルトという。金髪で背がひょろりと高い。数日前に城壁で見た顔だった。古都の人間ではない。ひょっとすると、帝国の外から来たのかもしれない。
フーゴが城壁の近くを通ったとき、「おーい」と助けを呼ぶ声が聞こえた。空耳かとも思ったが声の方を確かめてみると、レオナルトが倒れていたのだ。聞けば食事をすることをすっかり忘れていたのだという。
普通の人ならそんな莫迦なと思うかもしれないが、フーゴにはレオナルトの気持ちがよくわかる。何かに集中していると、食事や睡眠のことは頭から抜け落ちてしまう。
「城壁が好きなんですか?」
食事のできるところまで引っ張っていきながら、フーゴは尋ねる。ずっと城壁にいたんだから、よっぽど城壁が好きなんだろうと思ったのだ。
「嫌いだな。いや、大好きだとも言えるか」
レオナルトの答えは謎かけのようだ。嫌いで大好きとはどういうことだろう。
「城壁とは二面性を持った存在だ。分かるか?」
「外敵から中の人を守ってくれる、だけじゃないんですか?」
「それが一つ。もう一つは、世界を区切って中の人間を外に出さない機能を持っている」
あー、とフーゴは大きく口を開けて声を出してしまう。その発想はなかった。これまでの人生で、城壁というのはフーゴにとって常に外から来るものを防ぐためだったからだ。
「だから、城壁の上にいたんだ」
レオナルトの話はよく分からない。嫌いならどうして城壁の上にいたのか。
「だって、城壁の上にいたら城壁を見なくていいだろう?」
フーゴはおぉ、と声を漏らした。確かにそうだ。城壁の上から外を見れば、城壁は見えない。
「それに、鳥が見えるからね」
「鳥?」
空を見上げた。。夕焼けに染まる古都の空は城壁で区切られているが、鳥たちはそれを気にしないように南へ向かって飛び去って行く。
「ノスリやクロヅルは僕の故郷でもよく見る」
「ノスリやクロヅルを?」
指さしながらレオナルトの告げた鳥の名前のあまりの違いに、フーゴはちょっと笑ってしまった。同じ鳥でも呼び方が全く違う。レオナルトがどこから来たのか知らないが、同じ鳥の名前がこんなに違うということは随分と遠くから来たのかもしれない。
「夏の間、涼しい北で過ごしたノスリやクロヅルが、冬には越冬のために南へ下る。それが面白くて、ずっと見ていたんだ」
世の中には面白いことを考える人がいるものだ。季節の鳥がどこへいっていつ帰ってくるか、何故いなくなってどうしてまた帰ってくるかなんて、これまでの人生で気にしたことがなかった。硝子を入れる炉の火の色や具合についてならフーゴは父と並んで詳しいと思っているが、そうか、他のことにも詳しい人がいるのだ。
「食事を忘れるほど?」
「そ、食事を忘れるほど面白かった」
二人は顔を見合わせ、声を出して笑った。何がおかしいのか分からなかったが、腹の底から楽しさが湧いてくる。
「さ、着いたよ」
フーゴが顎で示すと、それまでよたよたと肩を借りていたレオナルトが顔を上げた。
「ん、あー、読めないな。見たことのない文字だ」
「居酒屋ノブっていうんだ」
空腹で固いパンと豆のスープというのもかわいそうだから、ここまで連れてきたのだ。ノブならきっと、何か美味しい料理を食べさせてくれるだろう。レオナルトが金を持っていなければ、フーゴが出してやってもいい。
「すごい!」
それまでふらふらだったレオナルトが硝子戸や壁を検分しはじめる。
「板硝子! こんなに歪みがないのは……それに漆喰も滑らかだ。使っている石灰の粒度が違うのか? いや強度を上げるために混ぜている材料に違いが……」
確かにノブの板硝子はすごいと思う。気泡が入らず歪みもない板硝子を作るには、材料も火の入れ方も全ての工程が完璧でなければならない。フーゴや父のローレンツなら作れるが、もし若手の職人がこの板硝子を持ってきたら、修業完了認定作品であるマスターピースとして認めてもよいほどだ。レオナルトの驚き方を見るに漆喰もすごいものなのだろう。何はともあれ、楽しそうなのはいいことだ。
「さ、入ろう」
「ああ!」
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
明るい店内に入ると、レオナルトはきょろきょろと辺りを見回しはじめる。
「なんでこんなに明るいんだ? 蝋燭? 油? いや、蜜蝋の臭いも獣脂の臭いも煤の臭いもしないぞ……ああ、いいから! 正解は言わないで! 自分で考えるのが好きなんだ! いやでも少し教えて欲しいかもしれない……いや、やっぱり自分で考えさせてくれ!」
一人で煩悶するレオナルトをシノブもタイショーもエーファもリオンティーヌも、そしてハンスもぽかんと見つめることしかできない。
「えっと、こちらのお客様は……?」
躊躇いがちに尋ねるエーファの目には微かに涙が浮かんでいる。怖がらせてごめん、と心の中で詫びながら、フーゴは「知り合いの旅人で、お腹を空かせてるんだ」と答える。
「なるほどね、腹を空かせてるならまずは料理だな。空きっ腹に酒は毒だ」
カウンター席を勧めながらリオンティーヌはいつも通りに元気がいい。
「それなら丁度よかった。今日は鶏がよく煮えてるよ」
タイショーの言葉に一瞬、フーゴは大丈夫かな、と心配になった。レオナルトは鳥好きだ。鶏はほとんど飛ばないけど、鳥仲間ということで食べることに抵抗はないだろうか?




