【閑話】片眼鏡の新人官吏
メンノが羽ペンの先を浸けると、水盆の水面にインクの黒が広がった。
朝早くに汲んだ時には清かった水は、既に黒く澱んでいる。
尚書部はサクヌッセンブルク侯爵領の領地経営の要だ。多くの役人が侯爵城の別館に詰め、証書の発給や侯爵と財務官の補佐などの業務に奔走している。
下級役人であるメンノは書類の清書や校正、整理が主な業務だが、職位が上がれば政策決定にも携わることのできる重要な役職だ。
「で、メンノ。新人はどうだ?」
「ああ……あの新入りのおじさんには、未処理の書類を整理してもらっています」
上司である秘書官に尋ねられ、メンノは一瞬、答えに窮した。
数日前からメンノの下に、見習いが配属されたのだ。仕事の手が増えるのはありがたいが、難があるとすれば、その新人がメンノよりも年上だということである。
「修道院で読み書き算盤を習ったわけでもないようだし、しっかり教えてやれよ」
はい、と答えながらも、メンノは望み薄だろうなとはじめから諦めていた。
尚書部にせよ、財務部にせよ、人材の供給はほとんどの場合、各地の修道院に頼っている。読み書き算盤を教える機関が他にあまりないということもあるが、人脈と縁故の意味合いも大きい。
証書の発給には、こまめな報告と連絡が不可欠だ。聖職者出身という共通の出自は、初対面の相手であっても打ち解ける役に立つ。
メンノよりも十歳も年上の片眼鏡の新人は、違った。
帝国南方の出身であるというこの年上の新人は、修道院の出身ではなく、地方役人の下働きと、徴税請負人としての職務経験だけを武器に侯爵領への出仕を願い出てきた。
紹介状は、ない。
侯爵家の家臣団や一門衆に友人でもいるのであれば、風当たりは弱くなるだろうが、それすらないのであれば、恐らく長くは続かないだろう。
長続きしても、十日だろうな。傷の浅い内に辞めてもらう方が、親切だ。
片眼鏡の新人が、メンノのはじめての部下ではない。これまでに何人もの新人が、尚書部の激務に耐えられずに辞めていった。今回も、同じことだろう。
下っ端がいなければメンノが昇進することはできない。本当は政策立案にも関わりたいが、現状では望み薄だ。
今度の新人はせめて一ヶ月は勤務を続けて楽をさせて欲しいが、仕事を教えて少し覚えたところで辞められるのもまた、徒労感が大きい。
「メンノ殿」
噂をすれば、なんとやら。
別室で書類の整理を任せていた新人が書類の束を抱えて入室してきた。
おおかた、整理の仕方が分からなくなって、助けを求めに来たのだろう。徴税請負人としての経験があるといっても、所詮はその程度なのだ。整理の方法は一度教えて、質問はないかと尋ねてやってにも拘らず、こんなにすぐに音を上げるとは。
「ああ、ゲーアノートさん。何か分からないことがありましたか?」
「ええ、少しお聞きしたいことがありまして」
やはりそうだ。
厳しく叱責して辞めさせる方向へ誘導するか、それともまだ機会をやるか。
上司の方へ視線を向けると、小さく二つ咳払いをした。まだ様子を見ろ、ということだ。
「まだ書類の整理は早かったですかね……」
「いえ、書類の整理は終わりました」
上司の方を慌てて見遣ると、小さく首を振っていた。信じられない、という表情をしている。
書類の整理は難しいわけではないが、簡単でもない。
先頭行に可能な限り内容を把握できるよう記してあるが、慣れなければ苦労するはずだ。
「未処理の書類を整理していて気が付いたのですが、今後証書を発給する予定の土地の寄進について少々気になる点がありました」
と、言いますと、とメンノは先を促す。
「来月、アーレムの商人ヘニーがメルヒオール大修道院に寄進予定の土地についてですが、この土地はヘニーの所有と確定した土地ではありません。精確に申し上げれば、寄進予定の土地の三割が地元の騎士と所有権の係争中です」
「なんですって」
商人が土地を修道院に寄進することは珍しくない。これまでの罪を悔い改めるという宗教的な動機以外にも、領主からの徴税を逃れるためという意図がある。
だからこそ、侯爵領では後から問題が発生しないように、領地内での俗人からの寄進は必ず証書の発給を受けなければならないという規矩が徹底されているのだ。
もしゲーアノートの言うように、自分のものではない土地の寄進を侯爵領が証書の発給で認めたとなると、とんでもない失態になる。
「その書類を見せてくれ」
動いたのはメンノよりも上司の方が早かった。ゲーアノートから引っ手繰るようにして書類を受け取ると、目を皿のようにして読みはじめた。メンノも横から覗き込むが、すぐに胃の腑の辺りが重くなってくる。
「おいおい、こりゃあ……」
「ゲーアノートさんが気づいてくれてよかったですね……」
書類は騎士から提出されたもので、土地の所有権に関する係争の仲裁を侯爵領に求める内容のものだった。数ヶ月前に提出されたものが、紛れていたらしい。
「いや、ゲーアノート君。実に助かった」
冷や汗を拭きながら、上司はさっそく別の部下に手招きをして善後策を練りはじめた。
大修道院の方でも証書が発給されるものと思って準備をしているはずだから、至急、連絡をしなければならない。
「……それと、メンノ殿」
「まだ何か?」
視線で廊下へ出るように促され、メンノは渋々従った。いったい、なんの用だろうか。
「実は、処理済みの書類にも一部、手を付けたのですが」
「なにか問題が?」
「はい。いくつか、数字の誤りがありました」
ゲーアノートの報告に、メンノは一瞬で血の気が引いた。
「ご心配なく。誤りを見つけたのは記録用の書類で、恐らくは転写の間違いでしょう」
それならば、まだ被害は少ない。すぐに書き改めれば、業務に支障はないだろう。
「その書類は?」
「尚書部まで運んでくるのは差し障りがあるかもしれないと判断に迷い、資料室の机にまとめて置いてあります」
頭ごしに上司へ報告することなく、メンノの面子を立てたということか。
メンノは小さく唸って、この年上の部下の顔をまじまじと見つめた。
融通の利かない堅物に見えて、存外に物わかりのいい人物のようだ。尚書部で務めるには、規律に従うだけでなく、柔軟性と機知の求められる局面も少なくない。これは、思わぬ拾い物かもしれなかった。
「私はなにか余計なことをしてしまいましたか?」
「いやいや! とんでもない!」
書類の訂正と上司に提出する始末書の文面を頭で練りながら、メンノは礼を言う。
この元徴税請負人、思わぬ拾い物かもしれない。
翌日から、ゲーアノートはメンノの隣の机を割り当てられた。
年上の部下をどう扱うべきか、というメンノの悩みは要らぬ心配だったようだ。
意外に細々としたところにまで心配りを欠かさないゲーアノートは、進んで雑務を引き受ける。
羽ペンを洗う水盆も、水が汚れればすぐにゲーアノートが交換するので、濁ったままということはなくなった。
「ゲーアノートさん、侯爵領総会計簿の摘要の清書は?」
「こちらに」
「印璽管理官が明日こちらに来るそうだ。侯爵閣下の結婚披露宴関連の書類で何か押印の必要なものはないかな?」
「侯爵閣下ご夫妻の肖像画を依頼する画家への支払いの稟議書が」
ゲーアノートは、段取りがいい。仕事もすぐに覚えて、流れるように処理していく。
「帝室御用林の木材の売掛はどうなっている?」
帝室御用林は侯爵領の領内にある森林で、帝室から管理を委ねられている。
「こちらの書類にまとめてあります」
「去年と較べると減っているようだな……」
「目端の利く樵がいて、要領よくやっているのでしょう。売上が右肩上がりに増えれば、彼らの仕事は際限なく増えていきますから」
「仕事が増えるのはいいことでは?」
「木材の売掛が増えても、利益は全て帝室への上納金となりますから、樵の手取りは増えません」
手間ばかり増えて、利潤が手元に残らないなら、確かに手も抜くか。
「それでは怠慢ではないのか?」
「来年か再来年にはまた、売掛は旧に復すと思いますよ。過去二〇年の推移を見る限り、かなり巧くやっているようです」
言いながら、ゲーアノートは手元の帳面を捲った。
「恐らく樵も確認してやっているのでしょうが、ここ一年は市場に木材が余り気味ですから、値段が下がっているようです。今伐って売っても、長い目で見れば帝室が損をすることになります」
ゲーアノートの立て板に水の説明を聞いていた上司が、低く唸る。
新人の思いつきというだけなら一笑に附すが、裏付けもあるとなれば、信憑性も上がった。
まぁ、と少し弁明じみた口調でゲーアノートが続ける。
「種明かしをしてしまうと、つまらないのですが、実家の近くの樵が似たようなことをしていたのです。私が特に洞察したわけではありません」
メンノと上司はと言えば、ゲーアノートの説明に感心しきりだった。
聖職者という出自で固められている尚書部の役人は、実務能力と誠実さについては人後に落ちることはない。けれども、世間知という点では徴税請負人出身のゲーアノートに一日の長があるように思えた。
「それで、ゲーアノート君はこの売掛でよいと思うかね?」
上司の問い掛けに、すっかり新人官吏としての風格を身に付けつつあるゲーアノートは片眼鏡を直しながら答える。
「分かっているぞ、という徴は相手に気づかせておく方がいいかもしれません。相手が臍を曲げれば、我々が木を伐るわけにもいきませんし、持ちつ持たれつの関係を保ちつつ、若干の緊張感を持たせられれば、成功かと」
「持ちつ持たれつ、か」
納得の頷きを返すメンノに、ゲーアノートは帳面に何かを書きつけながら続けた。
「それに、もうすぐ樵達にはしっかりと働いてもらうことになります」
「と、言うと?」
ゲーアノートが壁を指さす。
その指は、サクヌッセンブルク侯爵領とその周辺の地図の一点を示していた。
「古都です。市参事会は市壁を拡張する予定ですから、近隣の木材価格は跳ね上がるでしょう」
その時に木材を売った方が、帝室から侯爵領への手数料も増える、という按配です、とゲーアノートは商売人じみた笑みを浮かべる。
「どうして古都の市参事会が市壁を拡張すると言い切れる?」
「ああ、メンノ殿。実は先日まで、私もそこの一員だったので」
古都の市参事会、ゲーアノート。
「あ」
その名前には憶えがあった。
切れ者と噂の参事会員で、確かバッケスホーフ商会の始末にも関わっていたはずだ。
「あのゲーアノートが君か!」
上司も得心したように手を叩く。
侯爵領の尚書部に出仕するのに古都の市参事会員を辞める必要はないが、ゲーアノートは慰留も拒否したそうだ。利益相反になる可能性を嫌ったからだというが、潔癖な男もいるものだ。
両方の立場をうまく利用して甘い汁を吸おうとする人間など、いくらでもいるだろうに。
「でも、それならどうして紹介状を提出しなかったんですか?」とメンノは尋ねた。
古都の市参事会員であれば、議長のマルセル氏でも、市参事会員でも、それこそ侯爵閣下でも、紹介状を出してくれそうな人は枚挙に暇がない。
「ああ……それは」
気恥しそうに少し俯き、片眼鏡の新人官吏は小さな声で詫びた。
「……自分の実力がどこまで通用するか、試してみたかったのです」
メンノと上司の書記は、顔を見合わせると、思わず噴き出す。
はじめこそ取っ付きにくそうに見えた年上の部下に、いつの間にかメンノはすっかり親しみを覚えはじめていた。
「そう言えばゲーアノート君は随分と仕事の段取りがいいが、何かコツはあるのかね?」
尚書部の全員が疑問に思っていることを、上司が尋ねる。
残業の多い部署だというのに、新人のゲーアノートはこれまでに一度も残業をしたことがない。
それでいて、仕事を放り出して帰るということはないのだ。
ゲーアノートは、少し考えこんでから、
「強いて挙げるとするなら……ナポリタン、ですかね?」と答えた。
「ナポリタン?」
ナポリタン、とはなんだろうか。尚書部の全員の頭に疑問符が浮かぶ。
メンノ知らない官吏養成校の名前かもしれない。
「ナポリタンのことを思い浮かべると、手際よく仕事を終わらせねばならない、と思うのです」
メンノがナポリタンの正体を知るのは、後日のことである。




