中隊長欠勤事件(前篇)
レンゲでチャーハンを掬い、口に運ぶ。
ぱらりとした米、玉子、小エビ、菜の花の味わいが口の中いっぱいに広がった。隠し味には、牡蠣の油を使っているという。
「美味い」
イーゴンは、無心でレンゲを動かした。
ワシワシ。
ワシワシワシワシ。
口へ放り込み、噛みしめ、嚥下する。
小エビの旨味と菜の花のほのかな苦味を牡蠣油が更に引き立てている。
美味い。
水呑みの水を飲む以外は、ただひたすらにレンゲを口へ運ぶ反復運動に従事する。
「……ふぅ」
最後の米一粒も残さずに平らげてから、イーゴンは口の中に残る後味を楽しんだ。
以前であれば、食事など腹を満たせればいいと思っていた。
美味しいものをたっぷりと食べるのが幸せだと感じるようになったのは、最近のことだ。
「イーゴン、満足か」
テーブルの向かいの席で小エビのテンプラを肴にラガーを飲んでいるヒエロニムスに尋ねられて、イーゴンは自分の腹をさすった。
「まぁ、これくらいかな。〈戦士は常に餓えて在れ〉とも言うしな」
「……大皿で三杯も食べておいて、よく言うよ」
呆れた風な口調だが、ヒエロニムスの表情に驚きの色はない。いつも一緒に居酒屋ノブへきていれば、イーゴンの大食いにも慣れたものだ。
「で、二人は何か相談があるんだって?」
ヒエロニムスの隣には元衛兵で今は〈ハルピュイアの舟唄〉でギルドマスターの秘書をしているニコラウスが座っている。イーゴンにとっては先輩にあたる人物だ。
「ええ、実は中隊長のことで……」
「ベルトホルト中隊長が?」
イーゴンの口から出た名前に、ニコラウスが僅かに身を乗り出す。
訓練が厳しいことで前から有名なベルトホルトだが、部下からの人望は厚い。
「このところ、ときどき訓練を休むんですよ。あの〈鬼〉の中隊長が」
「あの〈鬼〉の中隊長が!?」
驚きの声を上げたのはニコラウスばかりではない。
厨房で忙しく包丁を動かしていたハンスも、聞き耳を立てていたのか声を上げた。
「いやいやいやいや、あのベルトホルト中隊長に限って、訓練を休むなんて……」
ニコラウスが全力で否定する一方、ハンスは、
「まさか中隊長、どこか悪いんじゃないだろうか……」と、想像の翼を羽搏かせている。
「先輩お二人からしても、おかしいですよね……?」
問いかけるイーゴンに、二人は大きく頷いた。
「絶対にありえない」
「部下へのしごきと家族とワカドリのカラアゲが何よりも好きな中隊長だぞ?」
二人とベルトホルトとの関係性を知らなければ、暴言にも聞こえかねない断言だ。
それまで黙って聞いていたヒエロニムスが顎に手を当てて嘆息する。
「お二人にも思い当たることはありませんか」
ニコラウスも厨房のハンスも力なく首を振った。
やはり、身体をどこか悪くしているのだろうか。確かに、休みを取った次の日の中隊長は、いつもと較べるとどことなく疲弊して見える。
「そういえば、ここのところ確かにベルトホルトさんは見てないな」
タイショーがカイセンドンを盛り付けながら呟いた。
「十一日前に奥さんと子供用に鍋物を持ち帰りで帰ったのが最後ね」
シノブが帳面も見ずにすらすらと答える。まさか全ての客の出入りと注文を憶えているわけではあるまいが、それにしても凄まじい記憶力だ。
「しのぶちゃん、その時は何か変わったことはなかった?」
「んー、目の下に隈があって、いつもより少し疲れている風ではあったけど……」
そんなことまで思い出せるのかとイーゴンが驚いていると、視界の隅でリオンティーヌがエプロンを解いているのが見えた。
「あれ? リオンティーヌさん、どうしたんですか?」
エーファに尋ねられ、リオンティーヌは後ろ髪を束ね直しながら答える。
「ひとっ走り、イングリドさんのところまで行ってくる」
「え、なんでですか?」と呆気にとられるエーファの両肩をリオンティーヌがしっかりと掴んだ。
真剣な表情はこれまでにイーゴンが見たことのないものだった。
「薬師に診せないと。いくら〈鬼〉と言っても、身体の中まで強いわけじゃない。ベルトホルトの旦那には嫁も子供もいるんだ。今、倒れるなんてことがあっちゃいけないんだよ。だから、一刻も早く薬師に診せなくちゃいけない。そうだろう、エーファ?」
早口で捲し立てるように説明するリオンティーヌに、両肩をがっちりと掴まれているエーファは玩具のように頷くことしかできない。
「体調が悪い、と決まったわけでもないし……」
シノブが落ちつけようと口を挟むと、リオンティーヌが小さく頭を振った。
「身体を悪くする奴は皆そう言うんだよ。そして気が付いた時には……」
自分を抱きしめ、怖気でも奮ったかのように顔を青くするリオンティーヌの様子を見ていると、イーゴンも少しベルトホルトのことが心配になってきた。
〈鬼〉のベルトホルトと言えば、歴戦の元傭兵だ。
部下に知られていない古傷の一つや二つ、あってもおかしくない。
古都の冬は厳しいから、癒えたと思っていた瘡痕が疼くこともあるだろう。
自宅の寝台で家族に見守られながら布を噛んで痛みを堪えているベルトホルトを想像する。
もし本当にそうであるなら、イーゴンとしても早く治療して欲しい。
「まぁまぁ、本人か家族に話を聞いてからでも遅くないんじゃない?」
それまで沈黙を守っていたハンスが、話に割って入る。
「う……まぁ、そりゃそうだけどさ」
ハンスに指摘されて狼狽していたのが少し落ち着いたのか、リオンティーヌが息を整えた。
自分の勤めている居酒屋の常連客という関係でしかないベルトホルトをあれだけ心配できるのだから、リオンティーヌは優しい女性なのだな、とイーゴンはしみじみと感心する。
その時、店の引き戸が静かに引き開けられた。
まさか噂の渦中のベルトホルト中隊長ではあるまいな、とイーゴンもそちらを見遣る。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
シノブとタイショーの挨拶に迎えられておずおずと顔を覗かせたのは、イーゴンとヒエロニムスもよく見知った人物だった。
「ご無沙汰しております」
ヘルミーナ。ベルトホルト中隊長の、妻だ。




