吟遊詩人の旅立ち(全)
「しかし、ここ三日間で一生分怒られたな」
兄はそう言って、マグヌスの肩を軽く叩いた。
居酒屋ノブのカウンター席で、二人は肩を並べて座っている。
客の数は、少ない。
店の外では春の雨が沛然と古都の夜を洗っている。
マグヌスは兄のアルヌの横顔さえ見るに忍びず、項垂れていた。
噛みしめた下唇が、痛い。
昨晩までの三日間、サクヌッセンブルク侯爵家の親族と封臣団、家臣団を一堂に集めた大会議が開催されていた。
大会議が招集されるのは通常、サクヌッセンブルク侯爵家では四年に一度。
けれども今回は重大な議題があるということで、珍しい臨時の大会議が開催されたのだった。
本城の大広間に参集した、一〇〇を超える関係者たち。帝国の成立以前からその系譜を現代に伝える大諸侯、サクヌッセンブルク侯爵家を支える面々だ。
討議される議題は二つ。
一つは当主であるアルヌ・スネッフェルスとオーサ・スネッフェルスの婚姻の承認。
こちらには何の問題もない。
親族から何らかの反対が出ることも予想されたが、既に結婚の同意を当人たちが交わしているのだし、同じ幹から分かれた枝が、数百年を経て合流する慶事として、全面的な祝賀の雰囲気の内に報告は承認された。むしろ、早く身を固めて欲しいとやきもきしていた者も少なくなかったから、やっとかと安堵の声が漏れたほどだ。
問題は、もう一つの議題だ。
侯爵の実弟であるマグヌスが、吟遊詩人になる。
この宣言は、親族からも、封臣団からも、家臣団からも、激烈な反対意見が噴出した。
大会議の記録を取っていた書記官によると“火山のような”や“雷霆の如き”、“侯爵家開闢以来見られたことのないほどの”といった、最上級の怒りの形容が頻発し、長老格の書記官が、
「これでは議事録ではなく、戦争叙事詩か討竜譚だ」と嘆息したという。
紛糾の理由は、侯爵家の継承順位が理由だった。
アルヌの次の侯爵は、誰か。
結婚したばかりでまだ大々的な披露宴も行っていないアルヌには実子がいない。そのため、実弟であるマグヌスは現在、サクヌッセンブルク侯爵家の継承順位筆頭であり、誰にも文句の付けようのない法定推定相続者である。
壮健なアルヌの身にすぐ何かが起こるというわけではないが、侯爵家の安定的な相続のためには実弟であるマグヌスが控えていることは、安定性の意味でも重要だ。
マグヌスが宣言の通りに吟遊詩人となり、侯爵家の籍を外れることになれば、継承順位の問題は極めて複雑化する。
侯爵家の先々代である大伯父にも、祖父にも、先代である父にも、アルヌとマグヌスの他に男系の継承者がいない。
血統の分岐点が遡れば遡るほど、統治の正統性や血の濃さに口を挟む者が現れる。
枝分かれした男系が従祖父の代からのものとなると、家臣団はともかく、一定の発言権を有する封臣団には色々と思うところがあるようだ。
だが、今回のマグヌスの“出奔”に真っ向から疑義を唱えたのは、意外な人物だった。
「カール=エーリクの爺様、おっかなかったなぁ」とオトーシに出されたメンマを摘まみながら、アルヌが笑う。
カール=エーリクというのはサクヌッセンブルク侯爵家の生き字引きのような老人で、アルヌとマグヌスの従祖父、つまり祖父の従弟に当たる。
祖父の従弟というと、貴族ではない庶民であればほとんど他人扱いだろう。
しかし、サクヌッセンブルクの系図で男系を辿れば、最も血の濃い系統はこの従祖父の代まで遡らねばならない。
「継承権の放棄は、絶対に認めん!」
背こそ加齢で縮んでいるが、かつては侯爵家の一門として戦場で勇名を馳せた老人の獅子吼だ。
紛糾していた大会議は、その一言で静まり返った。
マグヌスが継承権を放棄すれば、当代のアルヌの次に継承権を有する人間は、全てこの従祖父の子孫から出ることになる。
つまり、マグヌスが吟遊詩人になれば、一番の利益を受けるのはこの従祖父の家系なのだ。
であるにも拘らず、カール=エーリクは大激怒した。
「亡くなったのならともかく、誰かの勝手気儘のために継承権をやるだのやらないだのと言われて喜ぶような軟弱な子孫は、儂の家にはおらん!」
忠義である。
それも、今風の忠義ではなく、古い戦士団で美徳とされるような忠義だ。
自分の血脈が継承に絡むかもしれないという喜ぶべき好機に、この硬骨漢は怒り、呆れ、自失して、また激怒するという有り様で、書記官たちに感情を記録することの限界を極めさせようと至難の問題を課しているかのようだった。
マグヌスにしてみれば、この遠縁の老爺の言うことは一言一言が骨身に堪える。自分が不忠だと誹られているのだから、仕方がないことだった。
もしこのカール=エーリクの孫が法定推定継承者となり、当主教育を受けたとしても、アルヌに男子が生まれればその地位は取り上げられる。
誰にとっても、不幸でしかない。
カール=エーリクの孫が有能であれば、その時に侯爵家を割るような派閥争いが生じるかもしれないというのは、マグヌスでなくとも簡単に予見できることだろう。
そこからの三日間は、怒号と叱声の洪水だった。
吟遊詩人になるなんて莫迦なことはやめろ。
侯爵家の次男に生まれたということを受け容れろ。
諸侯の血脈に連なる者として、その責を果たせ。
どの意見も正しく、反駁しようのない意見だっただけに、マグヌスには受け流すこともできない。
これらの攻撃の全てから、兄のアルヌは身を挺して守ってくれた。
宥め、謝り、矛先を自分の方へ誘導し、マグヌスを傷つけないようにと動いてくれたのだ。
そのことがマグヌスは申し訳なかった。
アルヌに問えば、「罪滅ぼしだ」と事も無げに答えるに決まっている。
放蕩していた二年間のアルヌの代わりに、政務を見ていたのはマグヌスだったからだ。
だが、それとこれとは話が違う。
マグヌスは、アルヌがいつか帰ってくると信じて待っていた。
アルヌは、マグヌスが決して帰ってこないだろうと信じて送り出そうとしている。
その差は山よりも高く、海よりも深い。
結局、大会議では両者の落としどころが探られることになった。
『アルヌ・スネッフェルスに男子が生まれるまでは、マグヌスが継承権を保持し、出生後三ヶ年の無事を大会議が確認後に、継承権を放棄できるものとする』
理想的ではないが、現実的な妥協案。
自身の孫を法定推定継承者にすることを絶対に認めないカール=エーリクの頑固な態度によってマグヌスは侯爵家の法定推定継承者のままに吟遊詩人になることが認められたのだ。
大会議の面々も、この案を渋々受け容れることになった。
マグヌスとアルヌにとっては、実質的な勝利だ。
アルヌの妻であるオーサと、病床の先代侯爵もこの案を強力に擁護してくれたことが、決め手となった。
「とにかく今日は新しい門出の祝いだ。食べよう」
「……はい」
肩を叩く兄の優しさが、マグヌスの目頭を熱くさせる。
「お待たせしました! 新玉ねぎと桜えびのかき揚げです」
区切りを見計らったかのように、料理が運ばれてきた。いや、実際に見計らっていたのだろう。居酒屋ノブという店は、それくらいの芸当はしてみせる店だという評判だ。
「さ、食べよう」
「はい!」
玉ねぎと小エビを寄せて揚げてある。
サクッ。
ひとくち齧って、驚いた。
甘い。
そして、軽い。
「カキアゲって、もっと大きい塊で揚げるものだと思っていたよ」
アルヌが尋ねると、タイショーが目元だけで笑った。
「新玉ねぎの甘さを味わって頂きたかったので」
このカキアゲは、薄く切った玉ねぎと小エビを子供の掌くらいの厚さで揚げてある。
説明を確かめるように、もう一口。
サクッ。
甘くて、軽い。
城でイーサクの揚げてくれたテンプラも美味かったが、これはまた違ったよさがある。
「さ、マグヌス。飲もう」
いつの間に注文したのか、二人の前にリオンティーヌがジョッキを運んできた。
前回はジョッキだけでなく、水の入った硝子杯も持ってきていたが、今回はそれがない。
「兄さん、今日はチェイサー無しなんだね」
かつては〈酔眼〉のアルヌと酒の弱さを嘲弄されることもあった兄が、珍しいことだ。
「ま、そういう日もあるさ」
それに最近は、舐められないために少しずつ飲めるよう練習しているんだ、と胸を張る。
なるほど、兄も少しずつ変わっている、ということだ。
「分かった。飲もう」
「そう来なくちゃ」
アルヌの顔が、嬉しそうにくしゃりと歪んだ。弟のマグヌスから見ても、人を惹きつける魅力のある笑みだと思う。
「で、兄さん。何に乾杯する?」
「そうだな……未来に、だな」
「未来に乾杯!」
「乾杯」
「他の天ぷらも、揚げたてをどんどん出していきますね」
シノブの宣言通りに、季節のテンプラが次々と目の前に運ばれてきた。
シャクシャクとした食感が楽しいタケノコ。
ホクホクと甘いカボチャ。
香りのいいミョウガに、独特の苦みが癖になるタラノメ。
そこに、よく冷えたラガーを、グビリ。
憂いも悩みも、金色の苦味に溶けて喉奥へ流されていくかのようだ。
美味い。
そこからはもう、二人で貪るようにひたすら食べて、飲んだ。
考えてみれば大会議開催中の三日間は、忙しいのと気が重いのとで、ほとんど何も口にしていなかった気がする。
シャクリ、グビリ、ザクリ、ゴクリ……
食べて、飲んで、食べる。
無心にハシを動かし、ジョッキを傾けた。心の空白を、埋めるように。
マグヌスが特に気に入ったのは、タラノメだった。
「タラノメ、美味しいですよね」
シノブに微笑みかけられ、マグヌスは頷く。
一見するとその辺りに生えている雑草の芽と大して変わりがないのに、料理するだけでこんなにもラガーと合うようになるのは、不思議だ。
「苦いものが美味しいなんて、はじめて知りました」
油の具合を見ていたタイショーが、口を開く。
「料理の仕方によっては、苦味をほとんど消してしまうこともできるんですけどね。そうすると、素材の持ち味を殺してしまうことになる」
苦味が、素材のよさ。
それを聞いて、何故だかマグヌスの心は少し軽くなった。
吟遊詩人になるという夢を手放すつもりはないし、後悔もしていない。
しかし、大会議でのやりとりは、胸に苦いものとして残っている。
誰もが羨むサクヌッセンブルク侯爵家の継承権を、将来的に放棄するのだ。何を言われても仕方がないし、無責任だということは自分が一番よく分かっている。
けれども。
タラノメのテンプラを、まだぎこちないハシで掴んで、口に放り込む。
苦くて、美味い。
今日のこの苦味も、いつかは自分の人生の味わいになるのかもしれない。
きっとその味は、歌を通して、多くの人を癒すことにもなるだろう。
「兄さん」
「ん?」
既に目のとろりとしかかっているアルヌの肩を叩く。
「……いろいろ、ありがとう」
兄は、その言葉に何も答えず、口角を少し上げてジョッキを掲げた。
本当に伝えたいことは、言葉がなくとも伝わるものなのかもしれない。
翌朝、マグヌス・スネッフェルスは、吟遊詩人のマグヌスとして古都を発った。
昨日の雨は綺麗に上がり、空には虹がかかっている。
振り返ると、古都の城壁が小さく見えた。
旅は、はじまったばかりだ。




