奇譚拾遺使上席監査官の憂鬱(後篇)
「牡蠣、だと……」
いったい、このリオンティーヌという女店員は何を言っているのか。
鮮度こそが牡蠣の命。その牡蠣を、内陸の古都で食べられるはずがない。
だというのに、ジャン=フランソワは驚いた様子もなく、「では、牡蠣と白葡萄酒を」と注文する。
「おい、牡蠣だぞ? 分かっているのか」
「ええ、牡蠣ですよ。食べたいと仰っていたではないですか」
自分でもはっきりと分かるほどに、グレゴワールは渋い顔になった。
休暇で牡蠣を堪能するはずが、帝国の辺鄙な街に監査へ送られた挙句に、そこで牡蠣の名を耳にするというのは、嫌がらせのようではないか。しかも、こんな内陸で。
どうせ牡蠣とは名ばかりのろくでもない代物が出てくるのだろう。
「牡蠣はな、中ると怖いんだぞ?」
「分かっておりますとも。さ、何か注文しないと」
うぅむ、と唸ってから、絞り出すようにグレゴワールはエールを注文した。すぐにジャン=フランソワが解説を加える。
「ここのエールは、厳密に言えばラガー、それも帝国が禁制としていた製法とは異なる製法のものでして、店の常連からはトリアエズナマ、と」
グレゴワールは手をひらひらと振って、ジャン=フランソワを遮った。
「まるでこの店の宣伝担当尚書にでもなったようじゃないか」
嫌味のつもりで言ったのだが、ジャン=フランソワは却って神妙な顔になり、
「そうです。この店の恐ろしさは、奇譚拾遺使で広く共有しなければなりません」などと言う。
その真面目腐った顔が、ふざけているわけでもなさそうなことに、グレゴワールは苛立たざるを得ない。東王国の誇る奇譚拾遺使の密偵が、この体たらくでどうするというのか。
ひと言、言ってやらねばならない。
口を開こうとした瞬間、赤毛の少女が盆を運んできた。
「お待たせしました!」
白葡萄酒とエール、それに牡蠣だ。大ぶりの牡蠣が、五つ。
牡蠣は小憎らしいことに、笊の上に砕いた細かい氷を敷いた上に盛られている。
新鮮さを強調する工夫なのだろう。
だが、不思議なことに、この牡蠣は本当に新鮮に見えた。
「では、失礼して」
ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーが、牡蠣に檸檬を絞ると、殻を手に持ち、
ちゅるん。
「んー」
あれだけ饒舌に報告書に美食の讃嘆を書き連ねるくらいだから、どんな美辞麗句が飛び出すかと思って待ち構えていたのに、ジャン=フランソワは、何も言わない。
ちゅるん。
続けて、二個目の牡蠣に手を伸ばす。
そこへ、白葡萄酒を、クイッ。
思わず、喉が鳴ってしまった。他人の食べているものは、どうしてこんなにも美味しそうに見えるのだろうか。
「ちょっと待て。味はどうなんだ?」
「味ですか? 大ぶりな身が、ぷりっぷりで……いえ、これほどの牡蠣ですから、口舌に尽くしがたい、美味を評するに言葉が足りぬ、と言いますか……」
「ええい! それをするのがお前の持ち味であろうが!」
声が大きいです、とジャン=フランソワに窘められ、グレゴワールは我に返った。
危うく我を忘れるところだった。居酒屋ノブ、恐ろしい店だ。
「……牡蠣だ」
「えっ?」
「私も、牡蠣を食べる」
よろしいのですか? とジャン=フランソワが微妙な表情を浮かべるが、気にしない。
「牡蠣だ。牡蠣をくれ!」
報告書で要注意人物とされていたシノブという店員が振り返った。
「牡蠣ですね。焼き牡蠣もご用意できますよ」
「む……いや、生で結構。それと、白葡萄酒!」
運ばれてきたばかりのジョッキを、一気に干す。牡蠣にはやはり、白葡萄酒だ。
一瞬、焼き牡蠣にも興味が湧いたが、初志貫徹する。監査役はおいそれと基準を変更しない。
「では、こちらに焼き牡蠣を」
ジャン=フランソワが余計な注文をする。こういう振る舞いは密偵としてどうなのだ。
不用意に場を混乱させるようなことは、東王国の誇る奇譚拾遺使にあるまじき行為だろうに。
「お待たせいたしました」
シノブの運んできた牡蠣に、思わず舌なめずりしそうになる。
牡蠣。ああ、麗しの海の宝石。
一流の牡蠣食いとして、殻には一切口を付けずに牡蠣の身を吸う。
ちゅるん。
口の中に、濃厚な海の香りが広がった。
これだ。これこそが、肉体の求めていた味わいだ。
ちゅるん。そして白葡萄酒を、クイッ。
ちゅるん、ちゅるん、クイッ、ちゅるん、クイッ……
あっという間に、五つの牡蠣が胃の腑の中へと消えてしまった。
ジャン=フランソワが、味を表現できないという気持ちもよく分かる。この味をどのような言葉で飾ってみても、全て無粋に感じるだろう。それをはっきり断言できることが、美食家の証だ。
「……美味い」
呆然と呟きながら、グレゴワールは満たされたものを感じていた。
激務に追われる中ですっかり忘れていた、安らぎの感覚だ。
「いい店じゃないか」
この店に来るきっかけをくれたことの礼を言おうと横を見ると、ジャン=フランソワの前に小さな炉が置かれるところだった。
「既に焼いていますが、この卓上七輪で温めてお召し上がりくださいね」
シチリンという炉に乗せられた網の上に、牡蠣が鎮座している。
ふつふつと沸き上がる牡蠣の旨味をたっぷりと含んだ汁……
「それでは」
ジャン=フランソワは片手に厚手のミトンをはめると、恐る恐る牡蠣を手に取った。
手渡された小さなナイフで殻と身をぎこちない動きで剥がすと、そのまま口へ運ぶ。
「あふっ、あふっ……」
「熱いのは分かっている! 味は、味はどうなんだ!」
グレゴワールが尋ねても、ジャン=フランソワは恍惚の笑みを浮かべるだけだ。
東王国においては、牡蠣は生で食べるのが常道だ。火を通して食べる者もいるにはいるが、邪道だと見做される。だから、グレゴワールにも味の想像が全くつかない。
「くそう……焼き牡蠣……」
まだあふあふと言っているジャン=フランソワが、ミトンを取ってグレゴワールに手渡す。
「これは?」
網の上には、もう一つ焼き牡蠣がある。
グレゴワールはジャン=フランソワに頷きを返すと、焼き牡蠣に手を伸ばした。
「あふっ、あふっ……」
熱い、美味い、熱い、美味い。
「そこにサケがまた合うんだよ」
リオンティーヌが、試しにどうぞと小さな硝子杯を渡してくる。
サケ、というのはどこかの酒だろうか。透明な酒の話も、ジャン=フランソワが書いていた気がする。グレゴワールは、まだ口の中にある焼き牡蠣を追うように、サケを口に含んだ。
瞬間、世界が弾けた。
熱さと冷たさ、濃厚さと清冽さ、海の味わいと陸の味わい、甘さと辛さ、愛と平和……
グレゴワールの舌の上に、全てがあった。
それは、紛れもなく、全てであった。
それから、どうやって宿に帰ったのか、グレゴワールは憶えていない。
翌朝、鏡を見ると、グレゴワールの顔にははっきりと涙の跡が残っていた。
ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーが古都を含む周辺都市の統括責任者に任じられたのは、この後すぐのことである。




