奇譚拾遺使上席監査官の憂鬱(前篇)
グレゴワール・ド・セルパンは自分が不機嫌であることを隠そうともしなかった。
本来、彼のような職業に就いているものとしては有り得べからざる態度である。
「私がここにいる理由について、説明の必要はあるかな?」
目の前に畏まっている男に、グレゴワールは詰問の口調を和らげることもなく尋ねた。
帝国北方の古都。〈四翼の獅子〉亭という宿の一室である。
北の春の淡い陽射しは、暗い室内の全てを詳らかにすることはない。
本来であれば、グレゴワールは東王国南岸で休暇を楽しんでいるはずだった。多忙の上に多忙を重ねる日々で疲弊した心身を暖かく照らす陽光の代わりに、今の彼に与えられたのは、北の寒空と知的好奇心を満たすことのない任務だ。
「……昨今の帝国北部の動静を監視する現地諜報員の勤務態度について、奇譚拾遺使の上層部が上席監査官による監査を必要と判断したから、でしょうか?」
恐る恐るという体で目の前の密偵が答える。
ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニー。
東王国の誇る密偵組織、奇譚拾遺使の古都における現地諜報員であり、近隣都市の諜報員のとりまとめを任されている男だ。
十分に訓練を積んだ密偵らしく、印象に残らない容貌と表情、それに訛りを感じさせない口調。
奇譚拾遺使上席監査官であるグレゴワールの目からしても、素質のある密偵に見える。
「よく分かっているな。では、どのような部分で素質に疑義が呈されたかも?」
ジャン=フランソワの表情が、ありかなきかの強張りを見せた。
奇譚拾遺使は、それぞれの密偵が専門家としての矜持をもって仕事に当たっている。それは関係者の全てが認めているところだ。
各地で収集された情報は東王国の王都に収集され、分析を経て王に奏上されるか、一部の報告は
直接、王族の目に触れることになる。これは元々の奇譚拾遺使が無聊を託つ王族の耳目を楽しませる組織として発足した時代からの伝統だ。
故に、奇譚拾遺使の資質は厳しく問われ続けなければならない。
誤った報告を上げる密偵がいれば、王に直接その誤りが伝わってしまうことになりかねない。
監査官は、各地の密偵を監査によって引き締める役割を有している。
現地の人間と癒着していないか。
敵対組織に取り込まれていないか。
そして、本国から遠く離れていることで職務怠慢の誹りを受けにくいことをいいことに、十分な品質を満たさない粗雑な報告書を提出していないか。
グレゴワールは、手入れの行き届いた口髭を撫でた。
上席監査官が面談するということは、それ自体が大きな意味を持っている。
つまり、グレゴワールに会ってしまったこと自体が、叱責であり、警告なのだ。
「君は」
ここでグレゴワールは、言葉を切った。
密偵を監査し、叱責を続ける仕事だ。相手の嫌がる言葉遣いについては知悉している。
「君は、畏れ多くも今上陛下の目に触れる報告書に、美食情報など書いているそうだね?」
「あれは、美食情報ではなく……」
「弁解は見苦しいぞ、モーント・ド・ラ・ヴィニー」
現在の帝国北方は、極めて大きな事件が頻発していた。
北方三領邦と帝国の和解にはじまり、サクヌッセンブルク侯爵の爵位承継に、婚姻。小さなところでいえば、ビッセリンク商会がこの地域の抑えに支店を出したことも含まれる。
加えて、帝室が介入しての運河問題の解決だ。
最後の一件についてはグレゴワールも古都に到着して知ったので、これからの精査が必要となる案件だろう。東王国王都の同僚たちは、また夜のない日々を過ごすことになるかもしれない。
「確かに、君の報告書に重大事件は過不足なく含まれている。しかし、だ」
サラダが美味いだの、クシカツが美味いだのと、下らない雑音が多過ぎるのだ。
「本当にその居酒屋ノブなる店が、恐ろしい店だとは思えないな」
ジャン=フランソワが、グレゴワールの目の前で下唇を噛みしめている。
これでいい。
上席監査官の役割は、密偵を壊すことではないのだ。
叩いて、伸ばす。東王国に軟弱な密偵は不必要であるばかりか、害悪になりかねない。
きっとジャン=フランソワもこれで心を入れ替えて、優秀な密偵になってくれるはずだ。
これまで手薄だった帝国北方にも、強固な諜報網を完成させなければならない。
彼はその礎石となる有能な人材になるはずだ。
「……しかし、私も悪魔ではない」
鞭の次は、菓子。
ただ叩きのめすだけでは、人材は壊れてしまう。
ヒビの入ってしまった陶器が元に戻らないように、人材の扱いにも細心の注意が必要だ。
「今から、その居酒屋ノブとやらに一緒に行ってみようではないか」
「本当ですか?」
ジャン=フランソワの反応に、グレゴワールは少し戸惑った。
喜ぶのか、拒否反応か、普通はそのどちらかを示すものだ。ところが、この密偵の反応は、どちらとも言い難いものであった。
強いて言うのなら、恐怖、だろうか。
妙なこともあるものだ。
ジャン=フランソワと連れ立って、グレゴワールは夕暮れの迫る古都を歩く。
「ド・セルパン様は休暇に行かれるはずだったのですよね」
沈黙に耐えかねたのか、ジャン=フランソワが世話話を振ってきた。
外で言葉を交わすときに、奇譚拾遺使は特殊な発声法を使った。低く声を抑えることで、目的の相手以外には何を話しているのかが聞こえない、という秘術だ。
「ああ、そうだ。東王国の南にな。ちょうどこことは、正反対の場所だよ」
ああ、それは申し訳ないことを、とジャン=フランソワが恐縮する。こうしてみると、悪い男ではない。やはりここは少し優しく接して、立ち直ってもらわねば、と改めて思う。
「あっちはいいところでな。ちょうど、今がいい時期なんだ」
「と、言いますと?」
聞き返すジャン=フランソワにグレゴワールは満面の笑みで答えた。
「牡蠣だよ」
牡蠣が食べられる季節は、決まっている。秋から、翌春にかけてだ。
せっかく南方へ足を運ぶのであれば、寒い時期は御免被る。そうなると、いっとう素晴らしいのは今の時期を措いて他にない。鉄砲貝などという奴もいるが、あれほど美味いものはないだろう。
「牡蠣ですか」
美食に関する報告を送ってくるような人間だ。ジャン=フランソワも牡蠣の味を思い出したか、舌なめずりでもしそうな顔をしている。
「古都は内陸だからな……ここはここなりに美味しいものもあるのだろうが」
「そうですね。きっとご満足頂けると思います」
まるで居酒屋ノブの回し者のようなジャン=フランソワの言葉に、苦笑してしまう。
「さ、着きましたよ」
指さす先を見ると、確かに異国情緒溢れる佇まいの居酒屋が一軒、営業している。
グレゴワールは、特に気負うことなく、硝子の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
明るい店内を、案内されるままにテーブル席に誘われる。
腰を落ち着けると、すぐに長身の女給仕が声をかけてきた。ジャン=フランソワの報告にあったリオンティーヌという店員だろう。
「お客さんたち、今日は運がいいね」
「ほう、運がいいとは?」
「今日は普段はあまり扱わない食材が入ってるんだよ」
それはそれは、ありがたいことですね、とグレゴワールは当たり障りなく答えた。
どうせ、帝国北方の居酒屋だ。大した食材ではあるまい。
「それで、その食材というのは?」
「牡蠣さ」




