味と風(前篇)
春の夕暮れは、どこか柔らかい。
深く息を吸い込むと、長い冬の間にはすっかり忘れていた土の匂いがフーゴの胸を満たした。
今日は仕事が早く終わったので、工房を出て足の向くままに散歩を楽しんでいる。
この冬で、フーゴの年季が明けた。
硝子職人ギルドのマスターであるローレンツの下で、技能習得に必要な一定の年限を務め終えたと認められたのだ。
年季奉公の期間は各都市のギルドによって異なるが、古都の硝子職人ギルドは比較的、長い。遍歴職人として腕を磨いたローレンツが、どこでも通用する腕を身に付けるまでは独り立ちさせないという方針を採用しているからだ。
その代わりに、普通では払わない賃金を徒弟にも支払っている。歩合制だが、真面目に働けば、家を借りて妻を娶るくらいのことはできるらしい。
らしい、というのは、フーゴに自分の財産に関する興味がまるで関心がないからだ。
硝子の研磨で貰った一時金も、手を付けずに銀行に預けている。
父であり親方であるローレンツと弟のハンスと同居しているから、普段金を使うことはほとんどない。食べることには人並の関心はあるが、使うとすればそこだけだろうか。
雪に降り込められた長い季節の明けた古都では、道行く人々の足取りも軽い。
運河の一件が落ち着いたことも大きいのだろうか。
古都の北に広がる沼沢地を浚渫して、大河と並行する運河を新たに開削する、という話があった。
この運河の計画は中止になったのだという。
運河をわざわざ新しく掘らなくとも、河の往来を妨げていた河族さえ取り締まれば航行は自由になる。ここで問題となるのは河族の背後にいる貴族たちだったが、ハンスに聞くところによると、皇帝陛下が直々に対処してくれたのだそうだ。
政治のことはフーゴにはよく分からない。だが、こういう決定には反対する者が出るに違いないから、皇帝というのが大変な仕事だということは、分かる。
フーゴとは、無縁の世界だ。
年季の明けたフーゴは硝子職人として一国一城の主となることもできる。しかし、今はまだ父のローレンツも若いし、そんなことは考えてもいない。
硝子を熱し、形を整え、研磨する。
高温の炉で邪念も焼尽してしまうような今の仕事が、フーゴは好きだ。
曇り一つない硝子を研磨していると、自分の心が水面のように静かに落ち着く。
自分の仕事で認められもしている。
教会のトマス司祭や、ビッセリンク商会のロンバウトも、フーゴの上得意だ。
フーゴ自身は過分な評価だと思うが、二人は仕事に法外な金額を支払ってくれる。
きっと、老いて動けなくなるまで、この仕事を続けていくのだろう。
遍歴商人として諸国を旅していた父には違った考えもあるようだが、フーゴにとっては古都での安定した生活は何物にも代えがたい。身の丈に合っている、と思う。
道なりに歩いていると、市壁の際まで辿り着いた。
古都をぐるりと囲む頑丈な市壁が、フーゴは好きだ。
外から見ると真っ直ぐな壁は、内側では中ほどから傾斜がついて、外からの衝撃を支えられるようになっている。強固に積み上げられた石積みは、触るとひんやりと冷たい。仕事の間ずっと熱されていたフーゴの手に籠っていた熱気が、吸い取られるような錯覚を感じる。
「おーい、そこの人!」
不意に声を掛けられたフーゴは、辺りを見回した。
見ると城壁の上から、男が手を振っている。
ひょろりと手足が長くて、金髪はぼさぼさ。厚手の服は遠目にも旅塵で煤けて見える。
「この街じゃどこの宿屋が過ごしやすいかな?」
口元に手を当てて大声で尋ねられ、フーゴは面食らってしまった。初対面の相手と話をするのは、あまり得意な方ではない。
それでも困っている人には何とか手を差し伸べてあげたい方だから、こちらも精一杯に大声で
「〈四翼の獅子〉亭と〈飛ぶ車輪〉亭、それから寝るだけなら〈土竜の寝床〉亭もいいですよ」
普段、工房で声を張ることなどないので、喉が痛い。
ちゃんと聞こえているか心配していると、
「あーりーがーとー!」とひょろひょろ男は大きく手を振って、さっと壁の上へ消えてしまった。
空にはもう星が瞬き、夜が翼を広げている。
あれは誰だろうか。
馴染みの店へ歩を向けながら、フーゴは首を捻った。
古都の人間ではなさそうだ。春になって雪が解けたから、帝国街道を通って他の土地から古都へやってくる人もいるだろう。
けれども、商人や吟遊詩人の類いには見えなかった。巡礼者や物売りの農民でもなさそうだし、貴族や騎士、その供回りにしてはいささか薄汚れている。
強いて言うなら職人かもしれないが、遍歴職人とはまた違った雰囲気を纏っていた。
いずれにしても、フーゴとは関係のない種類の人間に違いない。
あの瞬間、壁の外から声を掛けられたのかと思った。
夕闇の広がりはじめた空を背負って、二つの大きな目が輝いていたのだ。
フーゴは、大きく首を振った。
あの旅人が誰だろうと、関係のないことだ。
もう会うこともないだろう。
それにしても、今日は何を食べるべきだろうか。
店に近づくにつれ、フーゴの足取りは軽くなった。他人から見ればあるか無きかの小さな差かもしれないが、フーゴとしては十分に浮かれていた。うっかりすると、鼻歌でも漏れてしまうのではないかと不安になるほどだ。
最近、仕事帰りに食事へ行くのが楽しみで仕方ない。
父の真似をしたわけではないが、最近、酒を口にするようになった。
そうは言っても、度を過ごすようなことはない。
はじめは、酒は絶対に一日一杯だけと決めていたが、今はいいことがあった日には二杯飲んでもいいということにしている。自分が父に似ているとあまり考えたことはないが、血は争えないとは、このことなのだろう。
オススメから攻めようか。それとも、ハムカツを注文しようか。
いやいや、ここは魚を頼むのもいいかもしれない。
あの店はどの料理も美味しいから、注文を考えるのにも一苦労だった。
フーゴは食に保守的な方で、一度何かが気に入ったら、そればかり食べる。警戒心が強過ぎると父に笑われたこともあるが、性分だから仕方ない。
そんなフーゴでも、何を注文するか迷ってしまう。いい店に出会えたのだと思う。
通い慣れた道の先に、店が見えてきた。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
いつも通りの声に迎えられて、カウンター席に腰を下ろす。
さて何を頼もうか。
しかし、店に入るまでの考えは、一瞬にして消え去ってしまった。
カラカラカラカラカラ……
揚げ油の軽やかな音が、耳を楽しませる。
厨房に立つ弟のハンスが、汗を拭いながら振り向いた。
「今日のオススメは、揚げ餃子です」




