〆の天ざるそば
カラカラカラカラ……
小気味のよい揚げ油の音が店内に響く。
普段なら昼営業で店を開けている時間だが、今日は休業にした。
ぽかぽかと暖かい陽気が長かった冬の終わりを告げている。
今年の冬は、長かった。
誰に尋ねてみても、そう答える。
しかし、冬が長ければ長いほど、訪れた春の喜びは大きいものだ。
古都全体をどこかうきうきとした空気が包んでいるのが、しのぶにはよく分かった。
絶好の行楽日和に敢えて店を休みにしたのは、店で働く三人にも、春を満喫してほしいからだ。
ハンスとリオンティーヌは、他の店の味を研究するために連れ立って食べ歩きに出かけている。
エーファは弟妹と近くの丘まで野花を摘みに行くと言っていた。
店の中には、しのぶと信之の二人だけ。
信之が朝から蕎麦を打ってくれるというので、ご相伴に与りに来たのだ。
蕎麦だけでは寂しいので、イングリドとカミラの摘んできてくれた初春の山菜を揚げている。
「春に蕎麦って、珍しいね」
新蕎麦と言えば秋のものだ。夏に出回る夏新という蕎麦もあるが、春蕎麦はあまり聞かない。
「豪州産の新蕎麦だって。市場で試してみないかって言われてさ」
へぇ、と思わず感心の声を上げた。
蕎麦と言えば日本のもののような印象が強いのに、海を渡って来る蕎麦もあるのだ。
古都の近くで収穫された蕎麦も美味しかったが、こちらはどうだろうか。
しのぶの中の食いしん坊な部分がうずうずする。
「古都にも、海の外からいろいろ美味しいものが入ってくるようになるのかな」
「来るんじゃないかな。新しいお客さんも増えるだろうし」
新しい食材。
新しいお客。
同じように春が巡り来ても、少しずつ変わっていく。
まるで螺旋階段のように、同じ場所へ戻ってきているように見えて、登っているのだ。
街も変わり、店も変わり、人も変わる。
それはきっと、素敵なことのはずだ。
「年々歳々、花相似たり。歳々年々、人同じからず、かぁ」
信之の料理も、少しずつ変わっている。
料亭〈ゆきつな〉の時代の信之を知っている人なら、決して想像もできないような大胆さも身に付けつつある。料理人として正に伸び盛りというところだ。
そのいい影響を受けて、ハンスも乾いた土が水を吸うように上達している。
一日一日の成長がしのぶにとって楽しみだ。
「はい、春の山菜天ざる蕎麦、お待たせしました」
信之の盛り付けた山菜の天ぷらの若緑が、目に眩しい。
「いただきまーす」
ちゅるん。
新蕎麦の豊かな香りが鼻を抜けていく。
そこに、こごみの天ぷらを一口。
サクッ。
春をそのまま凝縮したような甘苦さが、口の中に広がる。
「どう?」
「美味しい。とっても。大将、お蕎麦屋さんが出せるよ」
しのぶの冗句に、信之が笑った。
明日はどんなお客さんが来るだろうか。
開け放した引き戸から、春の陽光が燦々と降り注いでいる。
前の通りを行き交う人々の楽しげな声が、店の中まで響いていた。




