徴税請負人と少女の涙(後篇)
その注文を聞いて、ゲーアノートは言葉に詰まる。
軽く咳払いをし、平静を装いながら自分も注文を続けた。
「私も、同じものを」
二人の様子を見ながらにやにやとしていたイングリドも、それじゃあ、私もと続く。
タイショーが湯を沸かすコトコトという音が店を満たした。
三人とも、視線を合わせることなく、不思議な時間が流れる。
「いつ発つんだい?」
沈黙を破ったのは、イングリドだ。
イングリドが聞いてくれてよかった、とゲーアノートは思った。
自分ならいつ発つのかではなく、いつまでこちらにいるのかと尋ねてしまいそうだったからだ。
仮初めの保護者の未練など、ヘンリエッタにとって何もいいことはない。
そして、ゲーアノートにとっても。
「雪が溶けたら、なるべく早く出るって。お父さんは忙しくなるから」
ヘンリエッタは去り、全ては元通りになる。
いつも通りの春がやって来て、いつも通りに徴税請負人として働く日々が帰ってくるだけだ。
そう、それだけのことに違いない。
けれども、喉の奥に魚の小骨の挟まったような違和感が、ゲーアノートを苛んでいた。
茹で上がったパスタが笊にあげられ、ソースと絡められる。
こんな日でも、甘酸っぱい香りを嗅げば空腹を感じるのは浅ましいことだ。
「お待たせいたしました!」
厚切りベーコンの入ったナポリタンが、三人前。
もちろん、粉チーズとタバスコも一緒に運ばれてくる。
「さぁ、食べるとしようかね」
イングリドがフォークを持つと、二人も後へ続いた。
ヘンリエッタが食べる姿を見ていると、一緒にナポリタンを食べた日々のことを思い出す。
フォークでパスタを巻き取る動き。
口へ運ぶとき、ちらりと狼歯が覗く表情。
味わいながら目を細める笑顔。
子供を育てたことのないゲーアノートにはこれまで想像さえできなかったことだが、誰かの所作ひとつひとつに、膨大な記憶と感情とが呼び起こされることがある。
ナポリタンを味わいながら、ゲーアノートは胸中に巻き起こる様々な想いの奔流に耐えなければならなかった。
少しでも気を抜けば、この場で言うべきではないことを口にしてしまうかもしれない。
口の中にナポリタンの甘酸っぱい味が広がる。
いつもの味。いつもの食感。
ふとゲーアノートの胸に、複雑なものが去来した。
代わり映えのしない徴税請負人の日常を構成する要素の一つのピースであるナポリタン。これを食べる度にヘンリエッタを思い出すようになってしまったら、それは元の日常に帰ったことになるのだろうか。
「美味しい」
ヘンリエッタが口元をイングリドに拭われながら微笑む。
そう。ナポリタンは美味しいものだ。
そのことを教えることができたというだけでも、自分がヘンリエッタに何かをしてやれたということにならないだろうか。
粉チーズをかけ、タバスコも二振り。
味が変わり、ナポリタンが究極の状態になった。一皿の料理を味わう間に味の変化を愉しむことができるのは、本当に素晴らしいことだ。
まるで、人生のようだ。
そう考えた瞬間、ゲーアノートに小さな悟りが訪れた。
「そうか。味が変わるんだな」
突然の独り言に、ヘンリエッタもイングリドも不思議そうな顔をする。
だが、ゲーアノートには確かに神の愛が感じられた。
真実へと到る手がかりは、常に日常の中に隠されている。
「ヘンリエッタ。私は徴税請負人を辞めようと思う」
「え?」
徴税請負人は後ろ暗い仕事ではない。
だが、褒められる仕事、誇るべき仕事でもないだろう。
自分の持つ能力を活かすことのできる仕事だが、ヘンリエッタに自分のしてきたことを説明するときに躊躇いを覚えない仕事ではない。
「驚いたね。生まれたときから徴税請負人をしてきたみたいな堅物なのにさ」
イングリドの軽口にゲーアノートの口元が緩んだ。
そうだ。生まれたときから徴税請負人だったわけではない。だから、変わることもできる。
「お父さ、じゃない、ゲーアノートさんは何になるの?」
思わず言い間違えたヘンリエッタの言葉に、胸が熱くなった。
単なる言い間違いだ。
だが、重大な言い間違いに違いない。
たった一度でも、父と言い間違えてくれたことが、こんなに嬉しいとは思いもしなかった。
「サクヌッセンブルク侯爵家が、廷臣を募っている。読み書き算術に長けた人間という条件だが、私なら問題ないと思う」
以前、アイゼンシュミット商会の一件で侯爵家の手伝いをしているから、知らぬ仲でもない。
諸侯の家臣として仕える。
考えてみれば、実弟にもそう言って送金を続けていた。
偽りの自分と訣別し、本当の自分になる。
人生のこれからを左右する重大な転機の切っ掛けを与えてくれた存在は、今目の前で口の周りを真っ赤にしながらナポリタンを頬張っていた。
「じゃあ、偉くなるんだね!」
「身分で偉くなるんじゃない。偉いと認められる仕事をするようになるんだ」
収入は減るだろう。徴税請負人という仕事が嫌なわけではない。なくてはならない仕事だということも分かっている。
それでも、今の自分の気持ちに嘘を吐くことはできなかった。
「よかったね!」
満面の笑みで微笑むヘンリエッタの口元に、小さな狼歯が覗く。
ああ、と答えて、ゲーアノートはワインに口を付けた。
甘みのある味わいに、昂揚感と陶酔感が広がる。
雪が溶けて春が来るように、人は変わることができるのだ。
「じゃあ、またナポリタンを食べに来るときには、侯爵様の家臣なんだね!」
またナポリタンを食べに来る。
ヘンリエッタの言葉を聞いて、思わずゲーアノートはフォークを取り落としそうになった。
そうだ。これが今生の別れではない。また会えばいいのだ。
季節が巡り、また春が来るように。
見ると、ヘンリエッタの目に、光るものが見えた。
被保護者と、保護者。
不思議なひと冬の関係は終わろうとしているが、結ばれた縁は途切れることがない。
長いスパゲティの麺のように、遠く離れても繋がっているものはあるのだ。
手繰ればまた、会うことができる。
三人の話はそこから、あちらこちらへと飛んだ。
ヘンリエッタの亡き母のこと、カミラのこと、ウンターベルリヒンゲンのこと。
そして、これからのこと。
夜が更け、ゲオルクが娘を迎えに来るまで、三人のテーブルから会話の絶えることはなかった。




