吟遊詩人の夜(後篇)
硝子が打ち合わされる音が涼やかに響く。
口を付けると、ラガーの苦みが喉を通じて食道を滝のように下って行った。
ぐびり
ごっごっごっ
苦い。苦いのに、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。
喉を通り抜ける爽やかな苦みが、書類仕事にまみれて身体に霧のように纏わりついていた疲れを溶かし去っていく。
オトーシはエーファによると、ニクヅメピーマンという名前だ。
ピーマンに詰められた挽き肉には色々な具材が入っていて、食感が嬉しい。
香辛料でしっかりと味を付けて揚げ焼きにしてあるので、ビールとの相性も素晴らしかった。
前に食べたスキヤキもよかったが、このニクヅメピーマンも美味い。
堪能しながら食べていると、クローヴィンケルの視線に気が付く。
「君は実に美味そうに食べるな」
「好きなんですよ。食べることと、当てのない旅が」
言ってしまってからマグヌスは驚いた。
自分は旅が好きだったのか。口を突いて出るまで、自分でも知らなかった。
ははは、とクローヴィンケルが大笑する。
「そうとも。食べることも旅することも、吟遊詩人の欠くべからざる資質だからな」
「食べることも、ですか」
「旅を住処にすると、足を踏み出す理由が必要になる朝がある。何かに満足を感じてしまった夜の明けた朝は特にそうだ」
ジョッキの輪郭をなぞる老吟遊詩人の指は、芸術家らしく、長く、美しい。
椎の実のように長い爪は旅を経てなお、淡い色を残している。
「旅の歩みを止めるのは、絶望でも渇望でもない。もうここでいいか、という満足と、諦念だ」
満足と、諦念。
二つの言葉を聞いて、マグヌスはほとんど中身の残っていないジョッキに口を付けた。
知らず、下唇を噛みしめている。
自分は兄の側近になると思っていた。
読み書き算術も剣術も弓箭の技も、サクヌッセンブルク侯爵アルヌ・スネッフェルスの臣として恥ずかしくないようにと身に着けたのだ。
兄が吟遊詩人を目指してイーサクを連れて出奔したとき、マグヌスを侯爵にしようという目論見が家臣団の中にあったのは、知っていた。
莫迦莫迦しいことだ。
しかしマグヌスにその気がなくとも、担ごうとする者がいる。
蹶起を迫る不忠者が部屋を密かに訪れたとき、マグヌスはこの譜代の家臣を逆に説諭し、訓告し、一晩に亘って懇々と語り明かして、ついには熱心なアルヌ支持者に変えてしまった。
自分はこの生涯に満足している。
兄を支えることがマグヌスの役割であり、それ以外の望みなど叶えようなどと思わない。
「満足と諦念に囚われかけた足に次の一歩を踏み出させるものは、些細なものが多い。あの料理をもう一度食べたいとか、あの峠から見た夕陽がまた見たいとか」
クローヴィンケルの言葉に、マグヌスの舌の記憶が呼び起こされる。
味蕾の上を通り過ぎていった、素朴で簡素な、農村や漁村、地方の小都市の味。
他愛のない料理ではあっても、そこでしか味わうことのできない味の数々。
きっと同じものを運んできて古都で食べることができたとしても、同じ味にはならないだろう。
あの場所に足を運んで食べなければ、あのスープはあの味にはならない。
頬が緩んでいるのを、クローヴィンケルが指摘する。
「若き同業者氏よ。また旅に出たいという顔になっているぞ?」
「あ、いえ、私は」
もう、旅に出ることはないのだ。
その一言が、どうしても口を出ていかない。
兄の側近として帝国河川勅令の布告に伴う政治的な働きをすることになるマグヌスに、旅などは贅沢な望みでしかなかった。今後死ぬまで、古都を離れることはないだろう。
何か言わねば。
自分はもう旅をしない。たった一言、そういうだけでいいのだ。
そう思ったとき、じゅうううううと肉の焼ける音と共に、胃袋を刺激する香りが漂ってきた。
粘りの出るまで捏ねた挽き肉を丸く整えて、焼く。
ああ、これは絶対に美味い。
「お待たせ、ワフウハンバーグだよ」
リオンティーヌがごろりと大きな肉料理を運んできた。
ワフウハンバーグ。
ハンバーグという単語は何となく耳に馴染むが、ワフウというのは聞いたことがない。
「肉料理、とは頼んだが、なるほど。これは……」
髭に隠れて分かりにくいが、クローヴィンケルは満面の笑みを浮かべている。
確かにこれは美味そうだ。
〈食の吟遊詩人〉が期待するのも、よく分かる。
「それでは、頂くかな」
ナイフとフォークを構え、マグヌスも後に続いた。
上にかけられているのはオロシポンズというそうだ。
一口大に切って、口へ運ぶ。
ぱくり。
柔らかい。
濃い肉汁の味と、オロシポンズのさっぱりとした味とが混淆して、口の中に広がる。
挽き肉は、塊肉のないときの代用品だと思っていた。
ソーセージを作るときや、骨から肉を削いだときの残り肉だとしか見ていなかったのだ。
マグヌスは己の不明を恥じた。
もちろんこれはしっかりとした塊肉から作られた挽き肉なのだろう。
だとしても、手をかけることで挽き肉がこれほどに柔らかく、豊潤で、肉の旨味をしっかりと舌に伝える料理に化けるとは思っていなかった。
「美味いな」とクローヴィンケルが微笑む。
「はい、美味しいです」としか答えられない。
曲がりなりにも吟遊詩人の格好をしているのだ。何か気の利いたことでも言えればと思っても、胸に渦巻く言葉が舌先から出ていかない。
そんなマグヌスの様子を見て、クローヴィンケルは満足げに頷いた。
「やはり君には吟遊詩人として類い稀な才能があるように見えるな」
「味について何も言えないのに、ですか?」
怪訝な顔をするマグヌスの肩を、クローヴィンケルが叩く。
「言わないからこそ、だ。これほどの出会いを簡単に言葉にしてしまうような吟遊詩人は、二流には届いても、その先の川を渡る橋を見つけることができない」
そういうものなのだろうか。
旅をしているとき、リュートを触ると自然に歌が口を突いて出ることがあった。
あれよりももっと崇高なことを言っているという気もするし、そうでない気もする。
「優れた吟遊詩人は、頭で考えた言葉ではなく、心で想った言葉を詠う。万言を尽くしても、いい歌にならないときにはならないものだ」
自分はどうして褒められているのだろうか。
マグヌスには理解できなかったが、悪い気はしない。
「……儂はこれまで満足と諦念に囚われていた」
高名な吟遊詩人でも、そんなことがあるのか、とマグヌスは驚いた。
「旅は楽しいし、歌も人に聞かせられるところに達した。詩才については自分であれこれ言うものではないが、人に賞される程度にはなったようだ」
吟遊詩人として、これ以上望むべくもない境地ではないのか。
「だが、儂には弟子がいない。伝える相手がいない」
「弟子ですか」
兄のアルヌはクローヴィンケルに弟子入りしようとして、断られたという。
実際にはもう少し複雑な経緯だったようだが、概ねそういうことだ。
アルヌにもなれなかったクローヴィンケルの弟子。
そんな山よりも大きな幸運に浴するのは、いったいどこの誰だろうか。
クローヴィンケルが、マグヌスに向き直り、瞳をじっと見つめる。
「若き同業者氏よ、どうだろうか」
「どう、と言いますと」
老吟遊詩人は、口元に微かな笑みを浮かべた。
「満足と諦念の日々から、旅に出てみないかね?」
答えは決まり切っている。
マグヌス・スネッフェルスは兄の側近となるべく生まれ、育ってきたのだ。
だから、何も悩むことはない。
「……よろしくお願いいたします、師匠」
慌てて、口を押える。
だが、もう遅かった。
マグヌスの師は、大きく頷き、追加のラガーを二杯注文する。
「優れた吟遊詩人は、頭で考えた言葉ではなく、心で想った言葉を詠うのだ」
さっそく運ばれてきたジョッキで二度目の乾杯をしながら、マグヌスは兄と義姉に何と言うか、必死に考えていた。
一番忙しいときに、一番頼りになる自分が抜ける。
兄は困るだろう。
これまでの人生で、兄を困らせる選択肢など、選んだことがない。
だが、吟遊詩人を諦めるという選択肢は、もうマグヌスの頭になかった。




