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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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244/280

帝国河川勅令(前篇)

 エーファがリオンティーヌの肩を揉んでいる。

 今日の昼営業も大盛況だった。

 繁盛のし過ぎで困るというのは、飲食店にとって嬉しい悲鳴だ。

 もうすぐ夜営業がはじまる時間だというのに、しのぶも何となく疲れが抜け切らない。


「すごい数のお客さんでしたね」とエーファがしみじみと呟いた。

「みんな、話に飢えているんだよ」とリオンティーヌが肩もみの礼を言いながら肩を回す。


 運河の浚渫が中止になるという話は、瞬く間に広まった。

 居酒屋のぶで侯爵アルヌとゲオルクというお客が議論をした翌日に、大々的に発表されたのだ。


 それから数日。

 古都(アイテーリア)ではどこへ行っても運河浚渫中止の話で持ち切りだ。

 少し前から古都に馬車が集まっていたのは、運河のことについての話をするためだったらしい。


 しのぶも信之も気付かなかっただけで、居酒屋のぶの店内でも運河のことについて話をしていた人がいたのだろうか。

 これまで運河浚渫のために周到な準備を進めていた市参事会が中止の検討を大々的に公表したので、驚いた人も少なくなかったようだ。


「それにしてもまぁ、皇帝陛下が出張って来るとはねぇ」


 酔客たちの話を耳にし続けた結果、今では問題の権威となったリオンティーヌが独り言ちる。

 運河浚渫の中止は、皇帝夫妻とアルヌが中心となって進めた話だ。


 中止というと失敗の印象があるが、そうではない。

 大工事の必要な運河浚渫をせずに済ませるという、発想の転換の話だ。



 運河は開削しない。

 いや、開削する必要がない。

 運河を通さなくても、大河を自由に航行できるようになれば、それで問題は解決だ。

 なんだか狐につままれたような話だが、確かに辻褄は合っている。


「兄さんにはしてやられましたよ」


 そう言って遅い昼食を食べながら、アルヌの弟であるマグヌスが苦笑した。

 本来であれば営業時間ではないのだが、忙し過ぎて昨日の昼から何も食べていないというので、しのぶが無理やりに定食を食べさせている。


 今日の昼定食は鯵の干物だった。大根の味噌汁がいい味を出している。

 味噌汁の大根は薄切りにしたものと、切り干し大根の両方を使っていた。切り干し大根は古都の外気に晒して、信之とハンスが干した物だ。


 寒さが険しいのがよかったのか、古都で干した大根は、とてもいい塩梅になった。

 人参と油揚げも入っているので、味噌汁だけでもかなりの満足感がある。味見役のしのぶも大満足の味だ。


「運河を通さなければならなかったのは、大河のあちこちで勝手に取られている通行税と河賊とが問題でした。だからと言って通行税を取り止めるというのは、皇帝陛下にしかできない方法です」


 味噌汁を飲みながら、マグヌスが続ける。

 猫舌なのか時折ふぅふぅと吹いて冷ましてながら飲んでいるが、味はたいそう気に入ったようで、ずっと椀を手にしたままだ。


 新たに発出の準備が進められている帝国河川勅令では、大河での貴族の通行税徴収権は原則的に認められなくなる。

 河賊については、周辺の貴族が軍役の代わりに定期的な河賊討伐を行うことになるそうだ。


「貴族たちがよく認めたもんだね」とリオンティーヌ。

「みんな、後ろ暗いところがありましたからね」


 大河の周辺に領地を持つ貴族が河賊を(けしか)けていたことは、〈河賊男爵〉ことグロッフェン男爵の証言と、外ならぬマグヌスの調査で証拠が明らかになっている。

 本来であれば帝国の藩屏たる貴族が河賊を黙認し、それどころか積極的に指揮していたことは、重罪だ。皇后セレスティーヌは、帝国河川勅令に賛同することを条件に、この罪を赦免するという条件を提示したのだという。


 生活苦からはじめたこととは言え、正義に反する河賊行為には苦々しい思いをしていた貴族も少なくなかったようで、これまでの罪を見逃してもらえるのならと勅令賛成に回った貴族も多い。


「元々、大河の通行税徴収権は一代限りのものでしたから」


 マグヌスと同じく食事を摂り損ねていたところを信之に助けられたラインホルトが応じる。

 浚渫中止で〈金柳の小舟〉をはじめ、水運ギルドもてんてこ舞いのようだ。

 ラインホルトだけでなく、ゴドハルトもエレオノーラも、目の回るような忙しさだという。そのことを教えてくれたニコラウスも、忙し過ぎてギルド本部に寝泊まりしているらしい。

 こちらは鯵の干物がお気に召したようで、ご飯をおかわりしている。


「北方から河を遡って攻めてきた敵を撃退した功績として、一代限りの通行税徴収を認める。うちのギルドが受け継いでいたことの漁業権に関する勅書のようなものです」


 帝国のために戦った褒美に一世代の間だけ通行税を徴収できるというのは、不思議な仕組みだ。

 褒美を与えることの難しさが感じられる。

 経営者の娘だったしのぶには、なんとなく理解できる悩みだ。


 問題となったのは、親から子へ代が替わっても徴収を止めなかった、ということだった。

 親から子へ、そして子から孫へ。

 通行税の徴収の根拠となる金印勅書の記述を拡大解釈し、時には無視して、貴族たちは通行税の徴収を止めなかった。それだけでなく、通行税を支払わなかった舟を河賊に襲わせるということもしたというから、ひどい話だ。


「本来であれば通行税の徴収権にはもはや何の根拠もないのだから、勅令で禁止するだけでいいのだけど、アルヌ兄さんは上手くやったと思う」


 通行税徴収権を失った貴族に対して、一時金を出す。

 それほど大きな額ではないが、勅書に賛成する貴族だけが貰えるということで、勅書の賛成派を増やすのに一役買っているらしい。

 帝室からの下賜ということになっているが、出したのは運河浚渫を実質的に動かしていた古都市参事会と侯爵家とビッセリンク商会だ。


「そんなお金、どこにあったんだい?」


 リオンティーヌがテーブルを拭きながら尋ねると、ラインホルトが肩を竦めた。


「浚渫の費用ですよ。何年もかけて運河を通す費用に比べれば、貴族に支払う一時金なんて鼠の涙みたいなものですから」


 銀行とは揉めるかと思ったが、「運河を通すため」に貸したのではなく「古都の発展」のために貸したのだからと、転用が認められたそうだ。

 貴族の中には、当主自身は勅令賛成派だが親族や家臣に反対されている、という家もあったようだが、この一時金が家中の意見統一に役立ったところもある。


 それでも反対する家は一つや二つではないというが、団結して反対派を糾合しようという企みは今のところないようだ。

〈鼠の騎士〉が賛成派に転じたことで、彼と同調していた中小の貴族は旗頭を失ってしまったし、新たに担ぎ上げられるようという貴族もいない。帝室とサクヌッセンブルク侯爵家と明確に敵対することは帝国北部で生き残るには得策ではないからだ。


 浚渫工事のために集まって来た職人や日雇い労働者たちはどうなるのか。

 のぶの常連にも何人かそういう人たちがいるので不安に思っていたのだが、彼ら彼女らの仕事はなくならないそうだ。


 運河の浚渫は中止になるが、古都は発展する。

 大河の交通が自由になれば、これまでとは比較にならない舟が往来することになるはずだ。

 そのために古都の大城壁を拡張して街区を拡げる工事は続けることになる。

 浚渫を担当していた労働者が回されることで、城壁の拡張は却って進むことになるはずだ。

 ラインホルトたち水運ギルドの使う船着き場も、拡張と大規模な修繕をすることになった。


 政局について言えば、冬という季節も、皇帝夫妻に味方した。

 コンラート五世は雪の中でも積極的に手紙外交を展開したが、反対派は情報を得ることにさえ、後手後手に回ったのだという。


 謀略に手腕を発揮したセレスティーヌのことを〈東王国(オイリア)の魔女〉と蔑む声もある。

 勅令に反対しているわけではない貴族の中にも、セレスのことを恐れている者はいるそうだ。


 コンラートとセレスの二人は、足りないところを補い合いながら上手く立ち回っている。帝室の力が増すことに対して危惧を覚えている一部の諸侯には、面白くない状況だ。

 東王国の王族出身であることを理由に離縁を求めている貴族もいるという。


 しかし、皇帝との強固な夫婦仲はよく知られていることであるし、負け犬の遠吠えでしかない。

 あの晩のぶを訪れていたセレスは「春になったら帝都の貴族たちと謀略の嵐が巻き起こる」からと言ってデザートをたっぷり平らげて帰った。


 いちごショートケーキとモンブラン、それにフルーツタルト。

 はじめは用意し過ぎたかと思ったしのぶだったが、杞憂(きゆう)だった。

 夫のコンラートも惚れ惚れするほどの食べっぷりで、三つとも綺麗に別腹に収まったのだ。


 しのぶには宮廷の政治のことはさっぱり分からない。

 でも、戦いに備えてあれだけ食べられるのだから、きっとセレスは政争に勝つだろう。どんな時でも健啖な女性は、強いのだ。


 全ては変わっていく。

 少しずつ、でも良い方に。


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― 新着の感想 ―
[一言] コンラート「いっぱい食べる君が好き」
[一言] 「全て別腹に収まった」 この表現好きですw
[一言] 賛成派は費用を抑えられて、 反対派は免罪と一時金を手に入れられて、 古都はどっちみち繁栄する、と。 三方丸く治まったな。
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