鼠と竜のゲーム(壱)
人生は奪い合いだ。
ぼんやりしていたら何もかも奪われてしまう。
揺り籠から墓場まで、生きている間に気を抜ける瞬間など少しもありはしない。
何かを奪われたくなければ、先に奪うだけだ。
全ては自力で解決しなければならない。他人は当てにはならないし、当てにすべきでもない。
ゲオルクにとって、人生とはそういうものだ。
これまでも、そしてこれからも。
「厚切りのベーコン(シュペック)を」
隣の席に座る遊び人風の金髪の男がベーコンを頼む。
客の入りは平日夕方の居酒屋としてはほどほどの賑わい具合で、酒と肴を求めて客が途切れるということがない。
ここは古都の居酒屋で、ゲオルクは単なる客としてラガーの入ったジョッキを弄んでいた。
中身には口を付けていない。
苛立ちを隠すようにフォークを手にして、また置く。
ゲオルクは、人を待っていた。
待ち合わせをしているわけではない。待ち伏せをしている、といった方が実情に即している。
古都のはずれ、〈馬丁宿〉通りの居酒屋に、侯爵が訪れるらしい。
サクヌッセンブルク侯爵であるアルヌ・スネッフェルスといえば、帝国の北方にその名の隠れることのない大諸侯の一人だ。
古都に大きな影響力を持つ貴族で、〈運河浚渫〉計画の中心人物とされている。
狙うは、このアルヌだ。
お忍びでやって来るはずの侯爵に論難を吹っ掛ける。そのためだけにゲオルクはじっと居酒屋のカウンターに腰かけていた。
帝国の北方に小さな領土を持つ騎士であるゲオルクが古都に滞在して、既に三十日ほどになる。
色々と仕込みをしながら旅籠に投宿するのは、愉快な経験とは言えなかった。騒ぎなど起こしてしまって衛兵が飛んでくることは絶対に避けねばならない。
正体を明かさぬように身を隠しながら、人に会い、噂を撒き、少しずつ毒を染み込ませていく。
毒と言ってももちろん、本物の毒ではない。
まるで運河の開削が悪いことであるかのように、人々の心を誘導するのだ。
そうやって、侯爵との一騎討ちの前に下地を作り上げておく。
侯爵と議論をすればゲオルクに有利な野次を飛ばすような人間も用意した。
細工は流々、仕上げはご覧じろ。
姑息なやり口だが、こういう単純な方法が議論には意外なほどに効く。
もちろん、それ以外にも手は尽くしてあった。
実際に運河の浚渫工事を邪魔するための策も、並行して進めている。
衛兵に見つかって拙いのは、むしろこちらの方だ。
運河浚渫を妨害するために、ゲオルクは少なくない人間に金を撒いている。妨害の下手人から足の付くような下手なことはしていないが、用心に越したことはなかった。
硝子のジョッキの中で、ラガーが温んでいく。
高価な硝子。出回りはじめたばかりのラガー。冬だというのに、陽気に騒ぐ人々。
ゲオルクにはその全てが呪わしく、疎ましく、奪う対象にしか見えない。
腹立たしいことに、ここ数日で古都には続々と馬車が詰めかけている。
ただの馬車ではない。大商会や周辺の諸侯、銀行家、遠く帝都から帝室の宮廷の法服貴族までが訪れているようだ。
真冬にこれだけの馬車が集わねばならないような重大な要件と言えば、一つしかない。
運河だ。
莫大な金を投じて、大河と並行する大運河を浚渫する。
元々が湖沼地帯だから一から河を掘るほど難しくないとは言え、莫大な資金の動く仕事だ。
そんな莫迦げたことをする連中から、奪う。
ゲオルクが侯爵に会うために居酒屋で無為な時間を過ごしているのも、そのためだ。
侯爵は、金髪碧眼。年の頃はゲオルクと然して変わらない。
隣に座っている遊び人風の男も髪の色、瞳の色は一緒だが、侯爵ということはないだろう。
ラガーのジョッキに口を付ける振りをしながら、鋭い視線で店内に気を配る。
今日は空振りなのだろうか。
そもそもこんな場末の居酒屋に侯爵が来るという情報が誤りだったのかもしれない。
貴族とは疎まれ、恨まれるものだ。
ゲオルクのような騎士でさえそうなのだから、侯爵ともなればさぞや敵も多かろう。
わざわざ衆目にその身を晒してまで街の居酒屋に大諸侯が訪れる、というのはやはり妙だ。
もう少し待ってみて、それらしい人物が現れなければ、作戦を練り直そう。
そんなことを考えていると、隣の客にベーコンが運ばれてきた。
「はいよ。厚切りベーコンお待たせ」
皿に乗っているベーコンを見て、ゲオルクはそれが急に欲しくなった。
分厚くて、しっかりとしていて、脂と肉の割合がとてもいい具合なのだ。
腕のいい画家に『ベーコン』という主題で絵画を描かせれば、手本にするだろうベーコン。
「そのベーコンをくれ」
呟くように口を衝いた言葉は、ゲオルク自身にも傲然と響いた。
「はいよ、ベーコン一つね」
リオンティーヌと呼ばれている女給仕が応じる。
「違う」
首を振り、ゲオルクは声を荒立てずに、しかしはっきりとした声で宣言した。
「私が欲しいのは、そのベーコンだ」
遊び人風の客とリオンティーヌが顔を見合わせる。
やってしまったかな、とゲオルクは内心で計算を走らせた。この店で騒ぎを起こせば、アルヌは店に姿を見せないかもしれない。となると少々厄介だ。
だが、そんな計算も「欲しい」という気持ちには勝てなかった。
人生は奪い合いだ。
欲しいもの、手に入れなければならないもの、守りたいものは、奪わなければならない。
遊び人風の男はどう出るだろうか。
見たところ、腕っぷしは強そうだ。喧嘩っ早いようには見えないが、殴ってくるだろうか。
あるいは論戦になるかもしれない。
殴ってきてくれれば、楽になるなとゲオルクは打算を巡らせる。目の前の男に殴られれば確かに痛いだろうが、周りの人間に誰が悪いかを印象付けられるのだ。
そうなってしまえばしめたものだった。
相手の非を訴え、詰り、ベーコンを手に入れる。
線の細いゲオルクだが、喧嘩でも舌戦でも誰にも負けるつもりはない。
これが〈鼠の騎士〉ゲオルクのやり方であり、生き方だった。
さ、相手は一手目をどう出るか。




