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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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【閑話】ふしぎの国のエーファ(後篇)

 角を曲がり、橋を渡って、また角を曲がる。

 狐の影は随分前に見失ったが、エーファはそれでも走り続けた。

 お腹が減っているような気がしたが、今はただ足を前に出すしかない。

 そうしている間だけ、エーファは心細さを紛らわせることができた。


 ここは、住み慣れた古都ではない。

 そのことは大きな通りに出れば一目で分かった。

 さっき見たのと同じような馬のない馬車が、灰色の道を行き交っている。


 少しだけ観察して、この奇妙な馬車に轢かれないようにする方法は理解できた。川の浅瀬のように渡っても良い場所が何ヵ所かあり、そこには必ず柱が立っているのだ。

 柱の上に灯る燈火が青い時は、鉄馬車はこちらに向かってこない。


 この街には人が多過ぎる。

 古都の大通りよりも何倍も多くの人がいて、肩をぶつけそうになりながらすれ違っていた。何かの祭りかと思うほどの賑わいだが、そういうことでもないらしい。

 見慣れない服に身を包んだこの人々にとって、これが日常なのだろう。


 何度か大通りを渡ったところで、足がもつれ、転びそうになった。

 狐がもう見つからないだろうということは、エーファにももう薄々分かっている。でもそのことを考えはじめると、もっと恐ろしいことも考えなければならなかった。


 帰り道が、分からない。

 最初は道を覚えようと努力していたのだが、この街の道は慣れないエーファにはどこも同じに見える。

 同じ色の建物。同じ形の曲がり角。同じ幅の道。

 道行く人も同じ格好をしているように見えて、エーファは段々と怖くなってしまった。


 天罰、という言葉が頭を過る。

 油揚げを持って行かれてしまったことに、早速神さまの御使いが天罰を下されたのではないか。

 そうだとすると、エーファはここから一生帰れないということになる。


 親にも弟妹にもシノブにもタイショーにも、あの店のお客さんたちにも、もう二度と会えない。

 右も左も分からないこの息苦しい街で、誰にも知られることなくひっそりと飢え死にしてしまうのだ。

 そう考えると、エーファの頬を自然と涙が伝う。


「どうした君? 泣いているのか?」


 突然声を掛けてきたのは、二人連れの男だった。

 街の人々は帽子を被っていないのに、この二人はしっかりとした帽子を被っている。

 それと、腰だ。ハンスやニコラウスが腰に下げているような木の棒をぶら下げている。この二人以外はそんなもの、誰も身に付けていない。あの棒で殴れば、大の大人でも気絶してしまうことをエーファは知っている。


「あー、ひょっとして日本語通じないのかな? アー、ドゥユースピークジャパニーズ?」


 黙っているエーファに男の一人が腰をかがめ話しかけてくる。もう一人は紐のついた小箱に向かって何かを喋っていた。


 人攫い!

 エーファは一瞬で理解した。この男たちはエーファをどこかに連れ去ろうとしているのだ。男が話しかけているあの小さな小箱は、仲間の人攫いを呼ぶための道具に違いない。


「英語も通じないのかな? ドイツ人、か? 源五郎丸、お前ドイツ語出来たっけ?」

「ダメダメ。下敷領も知ってるでしょ。オレは中国語専門だから」

「チーとポンとピンフしか知らないくせによく言うよ……」

「失礼な。数字もちゃんと数えられるぞ」

「どうせ九までだろ」


 後退るエーファを余所に、二人は何だか妙な符丁を使って話している。

 このまま捕まれば、きっと売り飛ばされてしまう。そうなったら、もう絶対に懐かしの我が家に帰ることはできないのだ。

 エーファは目を瞑り、唇を噛んで大きく鼻から息を吸った。

 意識を前だけに集中し、一気に駆け出す。


「あ、こら君! ちょっと待って!」


 追い縋ろうとする二人組の制止を振り切り、エーファは走る。

 逃げ延びるために、路地に入り、植え込みを突っ切り、青い燈火が点滅し始めた大通りを渡った。

 走って、走って、走って、走る。


 気が付いた時には何十段もある石の階段を上り詰めた先にある、小さなお堂の前に辿り着いていた。

 全身は汗でぐっしょりと濡れており、疲れ果てて足も膝も体中が悲鳴を上げている。


 エーファは堂の影の地べたに腰を下ろした。

 周りの樹々の葉がサラサラと風に鳴っている。

 ここもさっきの街と繋がっているというのが信じられない程、落ち着いていて静かな場所だ。


 これだけ樹々があるのに地面に葉が落ちていないということは、誰かが毎日掃除をしているのだろう。

 そういえば自分も居酒屋ノブの掃除の途中だったということを、エーファは不意に思い出した。

 途中までは終えているが、散歩から帰ったシノブ一人で開店までに続きができるだろうか。


 シノブの困った顔を思い浮かべて、エーファは思わず吹き出した。

 もう帰ることもできないかもしれない場所の掃除の心配など、している場合ではないのだ。


 明日から、いや今日の晩からどうやって生きていくかを考えなければならない。あの息苦しい街で暮らすのはどうにも厳しそうなので、出来ればこの御堂の近くで暮らす道を探そうとエーファは考える。


 御堂の床は地面から少し高くなっているので、下に潜り込めば夜露は凌げるだろう。食べ物は、どこかで物乞いをしなければならない。

 欲を言えば、この御堂で雇ってもらうことができれば一番よいのだ。

 これだけの広さを掃除するのは大変だろうから、エーファが掃除の得意なところを見せれば、何か食べる物を分けて貰えるかもしれない。


 そこまで考えたところで、くぅとお腹がなった。

 こんなことなら、あのおにぎりを食べてから狐を追えば良かったのだ。

 狐、狐、狐。


 ふと顔をあげると、御堂の前に狐がいるのに気が付いた。

 エーファの追っていた狐ではない。石で彫られた、狐の彫像だ。二匹の狐が堂を守るようにして並び立っている。


 狐のせいでこんな所に迷い込んだのに。

 そう思うと狐が少し憎らしいような気もしたが、この狐の像を見つめていると不思議とそんな気分も消えてしまう。


「この狐が私をノブに連れて戻ってくれたらいいのにな」


 呟いてみてから、そんなことは無理だと思って自嘲する。

 疲れはもう、限界に達していた。狐の像の側に歩み寄ると、エーファはその台座にもたれるようにして座り込んだ。

 石の冷たい感触が走って火照った体から熱を奪ってくれる。

 目を閉じると、すぐにそのままエーファは夢の中へと誘われていった。




「娘。おい、娘」


 誰の呼ぶ声に、エーファは薄っすらと目を開ける。

 いつの間にか眠ってしまったようだが、ここはあの御堂のままのようだ。夢から覚めれば居酒屋ノブで居眠りをしていた、という訳ではないらしい。


 だが、完全に夢から覚めたわけでもないようだ。

 顔を覗き込んでいるのは、油揚げを盗んだ白い狐だった。


「娘、お主は向こうの土地の者のはず。どうしてこちらに来ておるのじゃ」

「神さまの御使いの油揚げを、貴方が持って行ったからです」


 寝ぼけ眼を擦りながら、エーファは抗議する。

 そもそもこの白い狐が油揚げさえ持って行かなければこんなことにはならなかったのだ。


「これは異なことを言う娘じゃ。神の御使いとはそれ即ち私のことぞ。つまりあの御揚げさんは私に捧げられたもの」

「じゃあ、何で逃げたんですか?」


 エーファの鋭い質問に、狐はうっと言葉に詰まる。


「それはな、娘、お主が急に追いかけてくるからじゃな」

「逃げなければ追っかけたりしません! そもそも神さまの御使いって羽の生えた天使様じゃないんですか?」

「それは別の神の御使いじゃ。私とは別の神に仕えておる」

「うーん…… 何だか納得がいきません」


 狐は呆れ果てたかのように首を振り、尻尾をぺたんと倒した。


「とにかく、じゃ。向こうの土地の者が断りなくこちらに迷い込んだとあっては一大事。私の神通力で送り返してやろう」

「私、帰れるんですか?」

「帰れない方が問題じゃろう。それに今回の件では私にも責任の一端があるからのう」


 狐が前肢で印を結ぶと、エーファの周りの景色がぼやけはじめる。


「商売の成り立たなさそうな居酒屋を、倉稲魂命のお力で向こうの土地につなげたのは成功だったのやら失敗だったのやら…… 次から覗きに行く時はこの娘に見つからんように気を付けんとな」

「次に見かけてももう追い掛けません!」

「当たり前じゃ。ああ、それと二人に伝言がある」

「伝言ですか?」

「ああ、一度しか言わんからな。しっかり聞いて、覚えるんじゃぞ……」




「……―ファ! エーファ!」


 誰かの大きな手で揺り動かされ、エーファはゆっくりと目を覚ました。

 目の前にはタイショーとシノブ、それにハンスとニコラウスとエトヴィンがいる。


「えっと、私は……」


 どうやら仰向けに寝ているようで、居酒屋ノブの見慣れた天井が見えた。


「エーファちゃん、心配したんだから!」


 漸く起こした上半身に、シノブがぎゅっと抱きついてくる。

 その頬は涙に濡れていた。


「掃除の途中でどこに行ってたんだ? 衛兵隊にも手伝って貰って、手分けして探したんだぞ?」

「人攫いでも出たかと思って、近所中に聞き回ったんだからな」

「それにしてもエーファちゃん、いつの間に戻って床で寝てたんだ? 周りで聞き込みしてたのに全然気が付かなかった」

「何にしても、戻って来てよかったわい」


 タイショー、ハンス、ニコラウス、エトヴィン助祭も顔をくしゃくしゃにしてエーファを撫でてくる。

 向こうでの出来事を喋ろうとしたが、エーファは止めた。

 今でもあれは夢の中の出来事だったような気がするし、話しても信じて貰えないと思ったからだ。


 ただ、一つだけどうしても伝えないといけないことがあった。


「タイショー、一つお願いがあるんです」

「なんだ、エーファちゃん。お願いなんて珍しいな」

「カミダナのお供えを、月に一回、いなり寿司にしてください」


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[一言] 作者様はプロ野球ファンなのかな?
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