兄と弟(後篇)
「乾杯!」
「乾杯!」
弟と酒を酌み交わすのは、久しぶりだ。
いや、オーサのことで少しだけ戻ってきたときに飲むには飲んだが、二人きりでとなると何年になるか思い出せない。
ぐびり、とラガーを一口。
冬でもよく冷えたラガーは、美味い。
そこへエビのテンプラを、サクリ。
もう一口、ぐびり。
この苦みと喉越しが、堪らない。
酒には弱いが、この組み合わせだけは病みつきになる。
エールは冷やしてしまうと味がダメになってしまうことがあるが、ラガーは冷たい方がいい。
「僕がいない間、政務はどうだった?」
白身魚のテンプラをフォークで切り分けながら、マグヌスが尋ねる。
「万事抜かりなく、とはいかなかったな。やっぱりお前がいてくれた方が安心できる」
半分本当で、半分嘘だ。
司厨長として内向きのことを切り盛りするイーサクは何事にもそつがない。
花嫁修業の代わりに読み書き算法を修めてきたオーサも加わったことで、侯爵家の内政は上手く回っている。元からいた廷臣団も、能力が低いわけではないから、今のところ不安はない。
ただ、マグヌスのように全体を見通せる人材が一人いると楽になるのも事実だ。
「やっぱり、誰か新しく人を入れた方がいいね」
「今は大丈夫じゃないかな」
「でもね、兄さん。こういうことは早くにはじめた方がいい」
そういうものかな、とテンプラを囓りながら答える。
玉葱のテンプラの甘みが、口の中に嬉しい。
「今は大丈夫、の次には、ちょっと厳しいがやって来るでしょ。その次にはなんとかやれている、になって、その後はもう、どうにもならない、しか待ってないんだから」
言われてみれば、そうかもしれない。
だが今は、マグヌスがいればいいのではないか。
でもね、とマグヌスにしては珍しく譲らない。
「オボリドリトも新しく小宮廷を刷新したというし、ホーエンシュタウフェンも人を入れたよ」
サクヌッセンブルクと同格の家をマグヌスが挙げる。
財務、税務、外交、軍務と、諸侯の家は大きくなれば大きくなるほどやることが多い。
騎士は最小の皇帝。
皇帝は最大の貴族。
誰が言いはじめた俚諺かは知らないが、統治する上で忘れてはならない言葉だ。
騎士でも皇帝でも、領地を持つ以上はやることは変わらない。規模の大小があるだけだ。
他家が家臣を集めているのは今にはじまったことではない。
優秀な人間はいつでも引く手あまただし、書画骨董のように人材を集めて愛でる者もいる。
「余所は余所、我が家は我が家」
強硬に反対する理由がアルヌにあるわけではなかった。
何となく会話を楽しんでいる、というだけだ。
兄弟の会話の具が政治と無縁ではないというのがいささか寂しいが、悲観するほどではない。
「今回の視察で見てきた北方の諸侯も、人を……」
「視察?」
マグヌスの言葉を、アルヌは思わず聞き返した。
「視察、がどうかした?」
「いや、俺はマグヌスにゆっくり羽を伸ばしてもらう休暇のつもりだったんだが」
「休暇?」
兄と弟は、まじまじと互いの顔を見る。
アルヌにとってみれば、マグヌスの北への旅は、二年間自由にさせて貰ったことに対する償いの意味も込めた休暇として楽しんでもらうつもりだった。
しかし、当のマグヌスには、帝国北部の動向を探る視察として受け取られていたということだ。
「ぷっ」
どちらからともなく、噴き出した。
わはは、と二人揃って哄笑すると、周囲の客や店員が何事かとこちらを覗き込む。
「じゃあ何か、マグヌス。お前は真面目に帝国北部の視察をずっと続けていたのか」
「そういう兄さんこそ、僕がずっと帝国北部を遊びでぶらぶらしていると思ってたの? この寒い冬の時期に?」
言われてみればそれもそうだ。
アルヌは生まれ育った帝国北部を愛しているが、物見遊山に旅を楽しむには、厳冬のこの地方はあまりにも厳しい。
帝都に足を延ばすなり、東王国や聖王国、連合国へ行くこともできただろう。
行こうと思えば、温泉でも、名所旧跡でも、巡礼先でも事欠かないのが帝国だというのに。
マグヌスの生真面目さを、アルヌは見誤っていた。
お互いに相手の考えていることはよく分かっているつもりで、全く分かっていなかったのだ。
それが堪らなくおかしい。
同時に、堪らなく悲しくもある。
まだ幼い頃の二人なら、こんな行き違いは決して起きなかったはずだ。アルヌが何かを言う前にマグヌスが動き、マグヌスが何かをする前にアルヌが当意即妙に状況を整える。
そういう関係だったのが、いつの間にか二人とも大人になった、ということか。
口にした春待芽のテンプラのほろ苦さが舌の上に広がった。
暫く、二人とも無言でテンプラを食べる。
ざくり。
ざくりざくり。
ぐびり。
シャクシャク。
こんな時でもノブの料理が美味しく食べられるのが、少しだけ悔しい。
やはり、新しい家臣を探そう。
今のままでいい、というのはアルヌの甘えに過ぎない。古都の水運が大きく変われば、侯爵家の周囲の状況も激変する。
必要な人材を集め、何かあっても対応できるようにしなければならない。
そしてマグヌスに今度こそ自由を謳歌してもらうのだ。
マグヌスは兄のために尽くし続けてくれたし、今も、これからもそのつもりだろう。
しかし、兄としてアルヌは何もしてやれていない。
そんな自分に、腹が立つ。
そうと決まれば、人を探さなければならない。
できれば、計数に強い人間がいいだろう。
身近に誰かいればいいのだが。
いや、そう都合よくはいかないだろうな、とアルヌは自嘲する。
「兄さん、飲もう」
「そうだな。飲もう」
テンプラを食べながら、マグヌスと話す。
離れていた時間を埋めるような二人の時間は、夜遅くまで続いた。




