二組の新婚(前篇)
北からの雲が、低く垂れこめている。
雪雲の底は常よりも灰色に濁っていた。
確かめるように広げたアルヌの掌に一かけら、粉雪の尖兵が舞い降りる。
冷たい結晶が溶け終わる前に、オーサの手が重ねられた。
サクヌッセンブルク侯爵家の屋敷前には、アルヌとオーサ、それに家中の主だった者が整然と並んでいる。
湯治に出ている父と、旅に出ている弟以外は、手を離せない者以外の全てが勢揃いしていた。
緊張の面持ちは、まるで合戦の支度のようだ。
出迎える相手を考えれば、それくらいの気構えは必要かもしれない。
古都にほど近い丘陵に拠って建てられた屋敷は、邸宅というよりも城塞という風格を備えた古式ゆかしい造りで聳えている。
かつて古都がまだ帝都であった頃、よちよち歩きの帝室の強力な庇護者として北方に睨みを利かせたサクヌッセンブルク侯爵家の本拠地がこの屋敷だ。
城壁と多くの塔を備え、濠を巡らせた戦闘用の城塞に代々の侯爵は少しずつ手を加えながら暮らしていた。
「本降りになる前に、お着きになればよいが」
侯爵たるアルヌが来着を待っているのは、帝国皇帝コンラート五世その人だ。
急な使いがあり、行幸と侯爵領での逗留が伝えられた。
異例、と言っていい。
そもそも、冬の行幸が珍しかった。
古帝国時代から営々と築き上げられた帝国街道も、この季節になると北方では冬の雪に埋もれてしまう。
自然、皇帝のみならず、やんごとなき方々の足は寒さの訪れと共に鈍り、暖かい帝都の座から動くことは少なくなるのが例年のことだった。
権謀術策に忙しい帝都の貴族たちはともかくとして、帝国貴族の多くは冬の季節を暖炉の前で過ごすのが常なのだ。皇帝来駕の準備を冬にした記録など、少なくともここ三代の侯爵の日記には残っていない。
何か、厄介なことでも出来したのだろうか。
平静を装いつつも、アルヌの内心は穏やかではない。
古都を通じて北の海へ流れる大河の周辺に領地をもつ諸侯たちに、帝都から勅使が飛ぶという噂もあった。使いの持つ親書の内容までは、分からない。
近頃皇妃を迎えたコンラート五世の変化に、帝都に跋扈する貴族たちは〈焚火の生木が爆ぜた〉ような大騒ぎだというが、無理からぬことだ。
温厚で、悪く言えば少し慎重すぎる帰来のあった皇帝の豹変は、帝国貴族としては喜ばしくもあり、また帝国等族会議に連なる者としては、いささかの不安もあった。
動きが急過ぎるということはないのだ。持ち前の気配りで、皇帝コンラート五世は成婚後も動く時の最低限の根回しは忘れない。
ただ、次に打つ手は格段に読みにくくなった。
今回の来訪も、帝国の北方に何らかの働きかけをする前準備とみることもできる。
先帝がまとめた北方三領邦に絡んだことなのか、それとも他のことなのか。皇帝と皇妃の心の内はアルブルクの森に降り積む雪よりも深く、見通しがきかない。
そうでなくても、北の動きにはアルヌも注視している。
評判のよくない〈鼠の騎士〉が動き回っているというし、運河の問題もあった。
アルヌの掌を握るオーサの指に、力が籠められる。励ましてくれているのだ。
心が読めるわけでもあるまいが、先だって娶ったばかりのオーサは、実によくアルヌの心の機微を読んでくれる。アルヌもまた、オーサの心を慮れるように心を砕いていた。
「おいでになりました」
オーサの指が、解かれる。
感触の余韻を愉しむ間もなく、四頭立ての馬車の姿が遠くに見えはじめた。
「供回りの方々が少ないですね」
オーサと反対側に控える司厨長のイーサクの耳打ちに、アルヌはあるかなきかの頷きを返す。
本来、諸侯の屋敷に逗留するとなればもっと大所帯になるはずだ。
皇帝の移動に付き従う旗本衆は、護衛だけでなく諸侯への威圧の意味もある。
お忍びで各都市へ向かうときであればともかく、今回の行幸は異例づくめのようだ。
馬車が目の前に止まり、扉が開く。
「ようこそ、サクヌッセンブルク領へ」
アルヌをはじめ、家中の人間すべてが恭しく礼をすると、車上から声がかけられた。
「急な訪問にも拘わらず、これほどの出迎え、痛み入る。どうか頭を上げて欲しい」
顔を上げると、コンラートが皇妃セレスティーヌの手を親しくとって降りてくるところだ。
年の差こそあれ、お似合いの夫婦だった。
アルヌとオーサより少し前に結婚したとはいえ、まだまだ新婚といってよい二人だ。
政略結婚の多いこのご時世、好き合って結婚したという意味では、アルヌたちと似たような立場なのかもしれない。
屋敷に迎え入れ、雪を払ってからすぐに食堂へ案内する。
「温かい白湯が沁みいるな」
まず温い白湯を大きな碗で、一杯。
次に少し熱い白湯を中くらいの碗で、一杯。
最後に熱い白湯を小さな碗で、一杯。
都合三杯の白湯を供すると、コンラートとセレスティーヌはやっと一息ついたようだ。
古くから北方に伝わる、寒い季節の歓迎の作法だった。
火鉢の炭に火を熾し、部屋もしっかりと暖めてある。温かい手拭いを渡したのは、居酒屋ノブを見習っての工夫だ。
「急な訪問、申し訳なかった」
「いえ、いつでもお越し下さいませ」
慇懃に応じるアルヌを、コンラートが手で制する。
「そう改まらないで欲しい。今回の訪問は、その、なんだ……」
言いにくそうに、コンラートが人差し指で頬を掻いた。
「お二人の、新婚祝いなんですよ」
くすり、と笑ってセレスティーヌが言葉を継ぐ。
「新婚」
「祝いですか」
アルヌもオーサも、驚きを隠せない。
結婚式は近隣諸侯の来駕を賜り恙なく終わらせたが、まさか皇帝夫妻が私的に祝いに来てくれるとは思いもよらなかったのだ。
そのためだけに、冬の帝国北方まで足を運ぶものだろうか。
訪問の真意は那辺にあるのかを探ろうとしたところで扉が開き、柔らかな香りが漂ってきた。
イーサクが歓迎の料理を運んで来たのだ。
「ほう、これは」
コンラートの漏らした讃嘆の声に、アルヌの口元が思わず緩む。
品書きは、イーサクだけでなく、アルヌとオーサも額を寄せ合って決めた。
鶏のベーコンと馬鈴薯、それに葉野菜を加えた❘サラダ《ザラート》。
ムール貝の麦酒蒸し。
鰊のバター焼き。
レバーパテとキュウリをパンに乗せたスモーブローもある。
主菜はワナナキドリの骨と内臓を抜いてテリーヌを詰め、丸焼きにしたものだ。
オーサの故郷で御馳走として食べられるものを中心にしている。
葉野菜やキュウリは城の温室を使って育てた品だ。
イーサクがノブで分けてもらったミソを使った、ギュウスジのドテヤキもテーブルに多様性を添えていた。
急な行幸だったが、できる限りのもてなしがしたいという思いで用意した食事だ。
居酒屋ノブや〈四翼の獅子〉亭に協力を頼もうかと思ったが、できる限り自分たちでやりたいというイーサクとその部下たちの意思を尊重した宴席だった。
運河が開通すれば、サクヌッセンブルク領へ貴賓が訪れることも増えるだろう。
これまでも来客はあったが、より優れた歓待ができるように、練習の意味合いもある。
もっとも、練習というには相手が皇帝陛下その人だという問題があったが、この様子を見る限りでは喜んでくれているようだ。
皇帝夫妻もちょうど空腹だったのだろう。
運ばれてきたものから、どんどん手を付ける。
本来であれば毒味だなんだと煩いところだが、そこはアルヌが先に口をつけることで省略した。それよりも、冷めてしまう前に食べることが肝要だ。
オーサの故郷の料理は、冬の無聊を慰めるために、味が濃い。
バターをたっぷり使った濃厚な味わいは、雪の日に暖炉を囲んで食べるのに、実に適している。
コンラートはレバーペーストの乗ったパンが気に入ったようで、育ちのよさからくる慎ましさと空腹とを秤にかけ、最終的に皇帝の特権と行使してイーサクにお代わりを申し出た。
世界の料理の中心と自負してやまない東王国から嫁いできたばかりのセレスティーヌがどのような反応をするのかはオーサもイーサクも気にかけていたが、その心配もどこ吹く風。
きらきらとした目で愉しみ、形のよい鼻で愉しみ、千の美食を味わってきたであろう舌で愉しみと、十全に満喫しているようだ。
接待役であるアルヌが主菜であるワナナキドリの肉を切り分ける。
いい焼き加減だ。皮はパリッとしつつも、じわりと肉汁が溢れる。
中に詰めたテリーヌもよい具合に火が通っていて、鼻腔を芳醇な香りがくすぐった。
「この鳥は、アルヌさんが?」
セレスティーヌの興味は、料理そのものよりもワナナキドリに向けられたようだ。
知性的な目を好奇心に輝かせながら、鳥とアルヌを見比べる。
「いえ、実は……」
アルヌの横で小さく手を挙げたのは、オーサだ。
冬の森に狩りに出て、ワナナキドリや鹿を見事に仕留めてきた。
オーサの故郷、北の島では、女性も弓を持つ。
まぁ、と口を押さえ、セレスティーヌが驚く。コンラートも、驚きを隠せないようだ。
「女だてらに、弓箭の技芸など。山出しの娘で、お恥ずかしい」
こちらに来てから、常識の違いについてはオーサも学んでいる。
恥ずかしい、という感覚も芽生えはじめたようだ。
だが、アルヌはオーサにしたいようにさせている。
あるがままのオーサを娶ったのだ。こちらの常識に染めたいのではない。
何か謂れのない批難を受けたときは、夫としてアルヌが矢面に立つ覚悟だ。
しかし、返ってきた反応は予想と異なるものだった。
その言葉を聞いたセレスティーヌが立ち上がり、恥じ入るオーサの手をしっかりと握る。
「とんでもない! とても素敵なことだと思います!」
突然手を握られて、オーサがきょとんとした表情を浮かべた。
「私、オーサさんともっと色々お話してみたいです!」
セレスティーヌの宣言で、急遽、席が改められる。
オーサとセレスティーヌは隣り合った席に。アルヌとコンラートは向かい合ったままで。
「お二人が意気投合したようで、安心しました」
うん、とコンラートが葡萄酒に口をつけた。
酒に弱いアルヌはエルダーコーディアルを漬けた酒を、湯で割って相伴に与る。
その表情は、心の底から安堵しているように見えた。
奥方であるセレスティーヌを、心の底から気遣っている。アルヌには、そう見えた。
夫二人の心配をよそに、若い二人の妻たちは楽しそうに会話を弾ませている。
共に外つ国から嫁いで来た身の上だ。彼女たちにしか分からない、女同士の積もる話もあるのだろう。
「それにしても、急な訪問、すまないね」
「いえ、いつでもお越し下さい。諸侯は、帝室の藩屛ですから」
うん、とコンラートが小さく頷いた。
表情は、読みづらい。
真意を悟らせないように幼少の❘砌から訓練を積んできた者だけが浮かべることのできる、曖昧な表情だ。
けれども、その仮面の合間からは、アルヌに向けた隠し切れない好意のようなものが、僅かに顔を覗かせている。
あるいは、そう見えるような演技すらも、帝王学の教育には含まれているのだろうか。
「私は」
アルヌは、気付かれないように居住まいを改めた。
余は、ではなく、私は、という私的な匂いを感じさせる語調に、驚いたのだ。
「私は、スネッフェルスの家を、帝室の真の友だと思っている」
「ありがたきお言葉です」
これは、真意の汲み取りにくい言葉だった。
単純に聞けば、帝国諸侯の一つであるサクヌッセンブルク侯爵家としてではなく、帝室の最古の同盟者であるスネッフェルス家に対する好意を伝えている。
そのままに聞けないのは、続く言葉があるはずだからだ。
コンラート五世という政治的動物は、自分より若年の侯爵に、敢えて心情的な距離を詰め、甘えて見せている。
呼吸を整え、アルヌは衝撃に備えた。
時間がゆっくりと流れる。
「実は、運河の件について、少し話をしたいのだ」




