大人の条件(後篇)
「私のお父さん、悪い人なの」
暖炉の準備をするカミラの隣で、ヘンリエッタがぽつりとそう漏らした。
意外な言葉に、思わず燧石を取り落とす。
ヘンリエッタがイングリドの薬店へやってきてから少し経つが、彼女が自分の家のことを口にしたのははじめてだ。
顔を上げ、カミラはヘンリエッタの愛らしい顔をまじまじと見つめる。
しかし、何と答えていいのか、言葉が思いつかない。
悪い人、というのはどういうことなのだろうか。泥棒、追剥、野盗、山賊に盗賊騎士、河賊、詐欺師、人攫いや偽の鋳掛屋……思い付く悪い人には色々あるが、父親が悪い人というのはどういうことだろう。
カミラは助けを求めるようにイングリドの方を見遣る。
橇からの荷物を運んできたイングリドは、はヘンリエッタの顔をじっと見た。
元聖職者らしい、真っすぐな瞳でひとしきり見つめてからから、掌を打ち合わせる。
「難しい話は、食事の後。寒くてひもじい時にはろくなことを考えないからね」
そうと決まれば食事の支度だ。イングリドの指示で、暖炉に鍋を掛ける。
今日の食事は予め居酒屋ノブで準備してもらったものだ。
鍋の底にコンブという海藻を敷き、きのこを入れた湯を沸かしていく。
調理の間、誰も、ひとことも口を利かない。
まるで雪の妖精が全ての音を奪ってしまったかのようだ。
イングリドが無言で鍋から湯を取り、大きめの鉢でサケカスと混ぜていく。
甘い香りがふんわりとカミラの鼻腔をくすぐった。野菜や魚はハンスが切ったものを用意してくれていたので、カミラとヘンリエッタは鍋の煮えるのをじっと見るしかすることがない。
以前なら、冬の木の芽摘みはカミラにとって退屈そのものの作業だった。
寒いし、独りぼっちで木の芽を摘まないといけないし、夜に食べるのも焼しめたパンとチーズくらいのものだ。
それが今年は、ちゃんとした小屋に泊まって、こんな風に料理もして、何よりもヘンリエッタがいる。いいこと尽くめだと思っていた。それなのに。
煮立つ前に、コンブを取り出した。あまり長く入れておくと、味が悪くなるのだという。
小屋の中にはパチリ、パチリと暖炉の火の爆ぜる音だけしかない。
楽しかるべき夕餉の支度が沈黙に包まれていることは残念だ。
でも、ヘンリエッタが自分のことを話そうと思ってくれたことが、カミラには少し嬉しかった。
同じ屋根の下に眠っていても、それだけで家族だというわけではない。
遠く離れた家族もいれば、近くにいても家族になれない者もいる。
打ち明けようと思ってくれたから、それでヘンリエッタが家族になったということでもない。
心の距離が縮まったと感じられることが、嬉しいのだ。
でも。
今からヘンリエッタが話そうとしていることは、きっと大変なことだ。
どうして彼女は一人で古都にいるのか。
父親が悪人とはどういうことなのか。
これまで黙っていたのは何故なのか。
そして、ヘンリエッタは家に帰るのか。
できればヘンリエッタがこれからも一緒に暮らしてくれたらいいな、とカミラは思う。
それが贅沢なことだというのも、分かっていた。
イングリドは薬師としては成功している方だが、子ども一人養うのと二人養うのでは、家計への負担も随分違うはずだ。
色々な想いが、カミラの胸の中で渦巻く。
まるで、乳鉢の中のサケカスのようだ。
具材を煮込み、乳鉢で溶いたサケカスとミソを加えていく。切り身の魚は、サケというからサケカスと関係があるんだろうな、とカミラは勝手に見当を付けていた。
世の中、知らないことばかりだ。
薬の作り方も、いつになったら大人になるのかも、何をあげればエーファが喜ぶのかも、そして、ヘンリエッタが何処から来たのかも。
自分は何も知らない。大人になれば、全部分かるようになるのだろうか。
「さ、煮えたよ」
鍋の中が沸騰する前に火から下ろし、器に取り分ける。
三人とも無言で、匙を口へ運んだ。
……温かい。
カスジル、というこのスープを食べるのははじめてだが、とても温かい。
身体だけでなく、心も温かくなる。ほろほろと崩れるサケの身の塩気も、疲れた身体に沁みていくようだ。
三人とも無言で食べ、三人とも無言で啜り、三人とも無言でおかわりする。
見ると、ヘンリエッタが食べながら泣いていた。
大粒の涙が、ぽろぽろと零れる。
カミラがそっと背中を撫でてやると、しゃくりあげ、堰を切ったように話しはじめた。
泣きながらなので、話の中身は半分も分からない。
ヘンリエッタの父親が悪人であること。彼女は父親を止めるために古都に来たこと。コウテイにジキソする手紙を出すために肉屋に行ったけれども、手紙の書き方が分からなかったということ。
そして、父親が〈鼠の騎士〉と呼ばれる人物であるということ。
分かったのは、それくらいだ。
幼いヘンリエッタは、どんな想いで今日まで一緒に暮らしてきたのだろう。
どんな想いで、このことを打ち明ける気になったのだろう。
ヘンリエッタが話し終えると、イングリドが曲げた人差し指で彼女の涙を拭ってやった。
「ヘンリエッタ、何も心配することはないよ」
「……何も?」
泣き腫らした目で、ヘンリエッタがイングリドを見つめる。
「そうさ。いつだって、子どもの身の丈に余る悩みは、大人が何とかするものなんだから」




